三谷幸喜オリジナル脚本による1984年の渋谷「八分坂」という商店街を舞台にした群像劇のフジテレビ系ドラマ『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』(毎週水曜22:00~ ※TVer、FOD、Netflixで配信)。15日に放送された第3話、ついに「三谷幸喜の本領発揮!」ともいえる展開がスタートした。

  • 神木隆之介 (C)フジテレビ

    神木隆之介 (C)フジテレビ

【第3話あらすじ】混乱を極める中、思わぬ光が…

WS劇場の再建としての舞台第1弾、シェイクスピアの名作『夏の夜の夢』の台本を書く久部三成(菅田将暉)の筆は進まない。長い台本の書き換え作業に苦労していたのだ。

これに蓬莱省吾(神木隆之介)と倖田リカ(二階堂ふみ)は、「セリフは短く」など言いたい放題。久部はかんしゃくを起こし、原稿をビリビリに破いてしまう。

苦労の末、台本が完成するも、うる爺(井上順)はアドリブで暴走するは、毛脛モネ(秋元才加)は「セリフが不自然」とシェイクスピアの詩的な言い回しにケチをつけるは…。トニー安藤(市原隼人)に至っては、やる気がなく、羞恥もあるのか、か細い声しか出さない。

そこに、舞台『夏の夜の夢』は、ほかの劇場でも開催され比較されやすいこと、久部の古巣の劇団「天上天下」でも久部抜きで、公演の準備が順調に進んでいることが判明。久部の公演は絶望的かに思われた。ところが、ここから大逆転が起こり始める。

劇団「天上天下」で、トニーも実はセリフを覚えていたことが発覚。また、お笑いコンビのツッコミである彗星フォルモン(西村瑞樹)は、パトラ鈴木(アンミカ)からアドリブで蹴り倒され嫌がるが、久部と蓬莱は、フォルモンがツッコまれて魅力が輝くタイプではないかと見抜く。

抵抗するフォルモン。しかし次の立ち稽古では見事に新しい自分を披露し、大喝采を浴びる。寄せ集めの素人集団が一つに、まとまり始めた劇的瞬間だった──!

  • (C)フジテレビ

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テンポ加速…三谷作品の成功パターンへ突入

第2話から視聴者の「面白くなってきた」などのコメントが増え、ここが正念場と観た第3話。昨今の三谷作品には、「以前のような面白さがない」と酷評された作品もあったため、正直、不安もあったが、杞憂(きゆう)に終わった。「これぞ、三谷幸喜!」な展開だったのである。

「八分坂」の濃すぎる面々が、やりたい放題のカオス状況でトラブルを起こしまくるが、西浦正記氏の演出と三谷脚本の歯車がガッチリ噛み合い、とにかくテンポがいい。あっという間にエンディングのYOASOBIが流れた。ついに三谷作品の王道、成功パターンへと突入したのだ。

その成功パターンとは何か。今さら語るまでもないが、欠けた共同体が大混乱しながら結果的に力を合わせ再生・成功し、カタルシスとほっこりした温かみを与える展開だ。噛み砕いて言えばそれは、「フリ→すれ違い→回収(オチ)」の三段構成。今回の第3話では、「すれ違い」に当たる、「誤解や衝突」が実に面白おかしかった。

そして、第1話で賛否両論だった「世界観と人物紹介の綿密な描写」もここにきて効果を発揮した。視聴者がキャラクターそれぞれを認識しているおかげで、突拍子もない言動での、集団の空回りが違和感なく、「そこでそれ言う?」「それやる?」「ウソでしょ?」といった自然な笑いを誘ってくれるのだ。

特に挙げたいのは、これまであまりにも男の中の男だったトニーである。第3話での「芝居になると借りてきた猫のようになる」ギャップはとにかく良かった。小声のセリフも子猫のようで、とにかく愛らしい…。終盤では、ツッコミ役に頑固にこだわっていたフォルモンが、芝居で蹴り飛ばされることを自ら誘うようになる人間的成長が描かれ、これが、第4話への厚みのある引きとなった。

久部の困らせ方も上手い。「もうダメ」感が強烈すぎたため、ラストのフォルモンの成長やトニーの密かな努力により、この状況が一気に覆るのでは?…というワクワクを生むことに成功している。

  • (左から)菅田将暉、神木隆之介 (C)フジテレビ

    (左から)菅田将暉、神木隆之介 (C)フジテレビ

三谷幸喜の半ば分身…蓬莱省吾は「外部」的存在

ストーリーが動き出した中で、密かに目を引いたのが、三谷青年役に当たる蓬莱省吾だ。演じるのは神木隆之介。32歳にして芸歴30年。若きベテランだ。

蓬莱という役は、三谷幸喜の青年時代の半ば分身である。と同時に、この「八分坂」の「外部」的存在でもある。「八分坂」の「観察者」と言い換えてもいい。久部たちWS劇場の面々が盛り上がれば盛り上がるほど、団結力が増すほど、その「外部」性が際立つ。それがこの第3話では、かなり明確に浮き彫りになった。

この「外部」性はどこから来ているのか? 神木は過去、『らんまん』(NHK、23年)放送前の、渋谷PARCOで行われた「ほぼ日曜日」イベントでの糸井重里とのトークショーでこう語っている。「役作りって、自己満足でしかないんです。役とのバランスの取り方が、いまもこれからも、 大事になってくるんだろうなと思います」

その会話によれば、もともと彼はずっと「役になる」ことを意識してきたという。だが、ある時に「違うな」と思った。何が「違う」のか。彼は自身の役作りへの想いと、観客の受け取り方。そこに「ズレ」があることに気付いたというのだ。この間にまたがる「距離」を意識した芝居をするのがこれから大事になってくると語っていたのだ。

もしかしたら今回、この神木の「距離の心得」が、蓬莱のお芝居に生かされているのかもしれない。蓬莱は、『もしがく』の世界に確かに存在している。だがそれは、「八分坂」の面々の「外」にあるように感じられる。これが、神木隆之介という俳優が心得た「距離」を、役柄に反映させた結果だとしたら…?

「八分坂」の「外」にいるのは我々視聴者も同じ。共に「外部」である蓬莱は、それゆえ我らの「案内役」となり得ている。『もしがく』は84年の渋谷を舞台にしながら虚構性の高いファンタジーでもある。その虚構に重力を与えている存在が、神木隆之介かもしれない。

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