5月下旬、マイナビニュースが報じたテレビ宮崎(UMK)の役員人事に、大きな反響が集まった。長年にわたり夕方ニュースや報道・情報番組でキャスターやメインMCを務めるなど“UMKの顔”として活躍してきた榎木田朱美アナウンサーが、新社長に就任することになったのだ。女性アナウンサー出身の民放テレビ局社長は初の事例と見られ、期待の声が宮崎県内外から寄せられている。

新人時代から従来のアナウンサーの枠にとどまらず、開局50周年プロジェクトでは総合プロデューサーとして同局初の自社制作ドラマ『ひまわりっ~宮崎レジェンド~』(東村アキコ原作、平祐奈主演)を実現させるなど活躍し、社長にまで就任した榎木田氏は、どのように道を切り開いてきたのか――。

  • テレビ宮崎の榎木田朱美新社長=「&Labo by UMK」にて 撮影:長谷川朋子

    テレビ宮崎の榎木田朱美新社長=「&Labo by UMK」にて 撮影:長谷川朋子

背中を押してくれた一人娘の言葉「ママは私の誇りだよ」

前任の寺村明之社長(退任後は相談役就任)から社長就任の要請を受け、「本当に突然のことで全く想像していなかったので、驚き以外の感情が出てこなかったです」という榎木田氏。「全国唯一の3系列(フジテレビ系、日本テレビ系、テレビ朝日系)クロスネット局で、“喜びも3倍、苦労も3倍”という激務になりますし、世の中のリアクションがほぼ恐怖でした」と、不安の感情が大きかったという。

一方で、局として「Change & Challenge」(変化と挑戦)というスローガンを掲げる中で、開局50周年プロジェクトの総合プロデューサーとして同局初のオリジナルドラマ制作を指揮した実績などを評価した寺村氏から「この改革を一歩もニ歩も進めてくれるのは君しかいない」と言われ、「これはもう定めだと思って受けるべきなのかもしれない」という感情にも。

2日後の返事を求められ、「その2日間は生きた心地がしなかったです(笑)」というが、ここで背中を押してくれたのが、高校2年生の一人娘だった。

「彼女のことが一番大事だと思っていて、再来年に控える大学受験までは、そばにいてあげられる母親でいたいと思っていたんです。ところがその娘に今回の話を相談したら、“やっぱりママがなると思ったよ。これまでずっと最前線でやってきたのに断れるの?”、“受験はしっかり自立して頑張るし、みんなで応援するから。ママは私の誇りだよ”と言ってくれたので、これはもう頑張るしかないと思いました」

  • 『UMKスーパーニュース』より=2012年12月14日

女性キャスターがトップニュースを読むために

前述の50周年プロジェクトのほかにも、高校生のキャリア教育イベント「UMK高校生フォーラム」や、宮崎中心市街地のコミュニケーションスペース「&Labo by UMK」を立ち上げるなど、アナウンサーという枠にとらわれない活動をしてきた榎木田氏。その原点は、ニュースキャスターとしての新人時代にあった。

入社3年目で夕方のニュースを担当するようになったが、当時は男性キャスターがトップニュースを読み、女性キャスターは2番目や柔らかいネタが割り振られるのが当たり前の時代。そこで、トップになりそうなニュース原稿を自分で書けば読めると考え、現場取材を積極的に志願した。時には、「デスクに原稿をほぼほぼ書き直されたり、OAで落とされたりしたこともありました」と辛酸をなめながら、徐々に採用されるようになっていく。

選挙特番でも、「スタジオに華がないから、女子アナはスタジオで開票状況を読んでくれ」という時代に、「華になんてなるもんか!」と、事前に選挙事務所を取材。門前払いされることもありながら、粘り強く回って取材したネタを、開票状況に織り交ぜて伝えた。政治キャップから「時間が押すだろ! 余計なこと言うな!」と怒られることもあったが、諦めずに続けることで、こちらも評価されるようになっていった。

「当時、私が自由にできるチャンスを与え得ていただいた上司や皆さんの懐の深さのおかげで直接取材をして、皆さんの声を自分のコメントで伝えることができて、しかも自分が現場で感じたことをプラスアルファできることに、ニュースキャスターがしびれるほどの天職だと感じたんです。そんな思いでがむしゃらにやっていたら、自分で取材をして、原稿も書いて、気づいたら特番も作るようになって、どんどん役割を頂けるようになりました」

一つ一つの“現場”にこだわることで、チームのメンバーを信頼し、ニュースキャスターを18年、報道・情報番組のメインMCを7年と計25年にわたり務めてきた榎木田氏。「ニュース番組は一人ひとりの記者やカメラマン、アシスタントが作ってきた映像や原稿が並ぶのですが、それをしっかりつないで一つの番組として県民の皆さんにお届けするのがキャスターの役割で、とてつもないやりがいを感じました」といい、この経験がチームをまとめて様々なプロデュースを進めていくことにつながっていったのだ。