嵐の松本潤が主演を務める大河ドラマ『どうする家康』(NHK総合 毎週日曜20:00~ほか)。服部半蔵役の山田孝之や本多正信役の松山ケンイチがさすがの演技力で魅せている。

  • 『どうする家康』服部半蔵役の山田孝之

妖しい女・千代(古川琴音)が家康(松本潤)の家臣たちを誘う。若い平八郎(山田裕貴)や小平太(杉野遥亮)などは千代の色香に惑わされそうで危うい。やはり千代、ただの踊り子ではなさそうだ。眉を薄くしている感じも妖しさの度合いを高めている。

誰が家康を裏切るか――。裏切りに次ぐ裏切りのスリルある物語や時系列を入れ替えた構成は『コンフィデンスマンJP』シリーズなどに代表される古沢良太脚本の真骨頂である。とはいえ、ここまではそういう趣向を凝らすことにやや遠慮があったように感じるが、第8回「三河一揆でどうする!」(演出:川上剛)まで来たところで徐々に本領を発揮しはじめたようだ。

黄金の甲冑姿の家康が倒れ、夢を見ているのはいつのことなのか――ちょっと混乱することもあるが、慣れたらハマるし、そもそも『どうする家康』はこういう変化球を付与しないと、実は割とシンプルで、至極全うなメッセージ性があって、それがあまりにも道徳的だから、やや面白みに欠けてしまうのではないだろうか。

メッセージ性とは、指導者とはどうあるべきか、というものである。とりわけ、三河一向一揆編ではそれが色濃い。

良くも悪くも『どうする家康』は、未完の大器・徳川家康が指導者として成長していく物語である。少年時代、人質生活を余儀なくされた家康は、指導者としての野心も責任感も広い視野もなく、家臣たちへの思いやりにもやや欠けている。

家康は最初から道理を理解しているのではなく、実践で、どう生きるか学んでいる。いまは、家臣の夏目広次(甲本雅裕)の名前をちっとも覚えなかったり、服部半蔵(山田孝之)が忍びではなく武士だと主張しても彼の気持ちを受け止めようとしないで忍びとしてこき使ったりしてしまう。傍から見て困った人なのだが、何かと痛い目に遭いながら学んでいる途上なのだ。

不思議なことに通常のドラマでは主人公が目標に向かう過程や苦労がないものは批評されがちだが、大河ドラマでは主人公の過程や苦労や挫折を描かれることは少ない。成功や勝利、あるいは敗北、そのどちらかばかり描かれ、勝ちと負けの間はない。その時代に起きた重要事項を名場面としていかに印象的に描くか、それが楽しみになっている。

『どうする家康』はいまのところ、まったく華々しくない。本多正信(松山ケンイチ)や半蔵のほうがかっこいい。家康は前述したように、痛い目にばかり遭っている。その流れで、第8回では「我らは民に生かされておるのじゃ」という今川義元(野村萬斎)の教えを家康は身を以て知る。

本当の国の主は民なのだと言う義元だが、家康はまだその実感を獲得できていない。だから、家臣たちをぞんざいに扱い、一部も者たちは本證寺側につくのだ。渡辺守綱(木村昴)、土屋長吉重治(田村健太郎)、夏目広次、正信と続々と……。とりわけ正信の寝返り方は衝撃だった。空誓上人(市川右團次)の軍師となって家康の生命を狙う。

ふだんは皆、けっこう軽口を叩いてふざけているが(第8回では小平太が「進む者榊原小平太、退かざる者榊原小平太」「は! 榊原小平太は!」と張り切っているところや、仏様の罰が怖くないというところなど)、戦のシーンになると、容赦なく刀を振り回し相手を斬り殺していく。一向宗は死んだら極楽に行けることを救いにしているから死ぬのが怖くなく勇ましく戦うのだ。ここがポイントである。

空誓は生活に苦しい民を救ってはいるが、刹那的であり、今、食べて歌って、死ねば極楽という思考停止に民を陥らせているのではないか。はたしてこれで本当にいいのだろうか。ここ、かなりシビアな問題を扱っているのだが、みんなそんなことわかってるわい、押し付けがましいんじゃと思って見て、あるいは見ないようにしているのだろうか。なぜいま一向一揆のエピソードに3話分もかけているのか、とても興味深いではないか。

家康の旗印として有名な「厭離穢土欣求浄土」も本来は、汚れた現世から浄土へ行くと解釈とされていたが、大樹寺の登誉上人は「地獄のような現実を浄土に変える」という解釈にしていて、家康は、死んで浄土に行くのではなく、死なずにいま生きている世界を浄土にしようという考えのもとに行動するのである。いまはまだ、家康は自分の意思をそこまで明確にしていないが、やがてそういう意識になっていくのだろう。

裏切った正信の不敵な表情は松山ケンイチの迫真の演技で、なんとも乾いた非情さがある。家康の命令で忍び装束で目だけ見えているときの半蔵の眼力も只者ではない感が漂うし、軍師が正信と気づいたとき、ほんの少し顔を後方にずらすところにも半蔵の感情が伝わってきて、山田孝之の鋭敏な演技神経に魅入られる。それに比べると、家康の瞳は大きく美しいが、まだこれと意思が定まっておらず、揺らいでいる。

「我らは民に生かされておるのじゃ」というように、第2話では、鳥居忠吉(イッセー尾形)が、第5話では大鼠(千葉哲也)や穴熊(川畑和雄)が、そして、第8回では長吉にかばわれて、家康は一命を取り留めた。

「民に見放されたときこそ我らは死ぬのじゃ」

つまり、誰かにかばってもらっている家康には見込みがあるのだから、身を捨てて救ってくれた人たちのためにも家康がこれからどう生きるか考えに考え抜かないといけない。まさにどうする、なのである。

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