大河ドラマ『どうする家康』(NHK総合 毎週日曜20:00~ほか)は超有名人・徳川家康が主人公とあって注目を浴びている。同じく家康が人気だった『青天を衝け』と『どうする家康』のリンクについて考えてみたい。第2回では最後の将軍と最初の将軍が繋がった瞬間があった。

  • 『どうする家康』徳川家康役の松本潤

大河ドラマで徳川家康が主人公になったのは40年前、1983年『徳川家康』(滝田栄主演)以来だが、主人公ではないながら大河にはなにかと登場してきた。過去、25人の俳優が演じ、3作に一度は出ていると『「どうする家康」はどうなる!? 戦国大河ドラマ名場面スペシャル』(NHK BSP)で紹介されていた。

直近で印象的だった家康は『青天を衝け』(2021年)。徳川幕府が終わる時代を描いていたこの作品、そのはじまりを作った家康(北大路欣也)が本編とは別枠のコーナー的に顔を出し、「こんばんは徳川家康です」と挨拶して時代背景を解説する趣向によって家康を印象づけた。あれから2年、『どうする家康』では徳川幕府がどうやってできたか、そのはじまりが描かれることとなる。

少年~青年期の家康(松本潤)は、その後、260年も長く続いた安定の世の中を作り出すとは想像できない、じつに気弱な人物である。プレッシャーを受けるとお腹を壊してしまうような心身共にデリケートな人物だが、第2回「兎と狼」では、早くも後に「東照大権現さま」(ナレーション・寺島しのぶ)と呼ばれる片鱗のようなものを見せる。徳川幕府のはじまりを思わせる第2回と、徳川最後の将軍が描かれた『青天を衝け』とはどこかリンクしていた。それは「光」である。

『どうする家康』第1回で、今川義元(野村萬斎)にもらって家康が身につけた金陀美具足がピッカピカに輝いていたが、第2回では家康が岡崎城に向かう途中、松平昌久(角田晃広)にだまし討ちにあい逃げ込んだ松平家の菩提寺・大樹寺で、光に繋がるものと出会う。「厭離穢土欣求浄土」という言葉である。

追い詰められて切腹しようとしたとき「厭離穢土欣求浄土」の言葉によって生きる決意をした、その瞬間の光が印象的だった。当初、この言葉の意味を「汚れたこの世を離れ、極楽浄土へ行け」と解釈して刀を腹に突き立てるまでは顔にやや影がある。信長に「その眼を忘れるな」と言われたことを思い出して生きようしたときの眼は真っ黒だが、「厭離穢土欣求浄土」の本当の意味を知ったとき、顔に当たる光の調子が違っていく。かすかに顔全体に当たって明るいのだ。

本当の意味とは「汚れたこの世をこそ、浄土にすることを目指せ」だった。この精神が長く続く徳川幕府のはじまりになったと考えていいだろう。

第2回の光の演出を担当した村橋直樹氏は『青天を衝け』でも光に凝っていた。例えば、第16回、徳川幕府、最後の将軍・慶喜(草なぎ剛)が「私は輝きが過ぎるんだ」と言う。そのため慶喜はこれまでずっと目立たぬように輝きを消してきたが、そうしてもなお消せない将軍の輝きを、演出の村橋氏は照明を強烈に当てて強調していた。

光を消そうとしていた最後の将軍からさかのぼり、光はじめる最初の将軍の誕生を同じ演出家が撮っていることは実に興味深い。さらに面白いのは、俳優たちも光り輝くことを意識していることである。

番宣番組『「どうする家康」信長に聞け!松本潤新春SP対談』で織田信長役の岡田准一が松本に「1年間、大河の主演としてみんなの光でなきゃいけない。現場で」「光よ、あなたは光よ、もう!」と言っていたり、『大河ドラマ主演SP対談 小栗旬×松本潤~今だからこそ、大河について話そう』で松本が「戦国のオールスターズが出てくる作品でほんとに華やかな話をやれるっていうのはある種なんかご縁があって選んでもらったんだなって」と語っていたりして、その発言を噛みしめるたび、光り輝く華やかな存在になるべく宿命づけられたジャニーズの松本潤と徳川家康が重なって見えてくる。

家康はまだまだ弱虫で「どうすればいいんじゃあ」と困ってばかり。彼を「俺の白兎」「俺のおもちゃ」と言ってじわじわ追い詰めて楽しんでいる信長のほうが圧倒的に輝いて見える。信長の場合は黒光りしているという印象ではあるが。松本のジャニーズの先輩である岡田は『軍師官兵衛』(2014年)で大河の主役を張った経験があるだけに貫禄十分だ。

信長の家康への言動に、この時代、珍しくなかった男色(衆道)を想像させるようなところがあってSNSをざわつかせているが、信長との出会いによって、単なる読書や人形遊び好きの少年ではなく、闘志を身につけたと解釈することも可能である。いまのところ弱く見える家康だが、今川家で学問も武芸も両方学ばせてもらっていたなかで、武の才能を隠していたのは用心深さがあったのではないだろうか。どんなに今川で恵まれた生活を送らせてもらっても、いつ命を奪われるかわからないことは、幼少時の経験からわかっているはず。でしゃばり過ぎずにいれば今川家で何不自由なく生きていけると思っていたとしてもおかしくはない。

それだけ知恵があるということで、人形遊びも、彼の器用さや、想像力や演技の巧さ(役を使い分ける)など、家康の幅広いポテンシャルの現れとして描かれていると解釈することも可能ではないか。深読みすれば、どんなに気楽な人質生活で家臣もちゃんとついているとはいっても幼少期に甘えられる母もいないのだから、ままごと遊びで自分だけの楽しい世界に耽るのも無理はないだろう。第1回で、瀬名(有村架純)と一緒に遊んでいた竹で組んだ小屋のような場所は2人の仲を反対する人たちによって壊されてしまったが、第2回で瀬名がその跡地のようなところで、家康の無事を祈っていた。

何かに祈るとき神社や寺や仏壇などに祈りそうなものである。これもまた光の象徴たるものだからだ。ところが瀬名がそういうアイコンがない場所で祈っているわけは、この場所こそが、家康の大事な、自分の世界を作りだす第一歩であるということの現れではないだろうか。安泰な人質生活を送っていた家康が、瀬名と出会い、瀬名と作り出したこの小さな家を模したような場所から、家康が自立していくことになる。ここが光の誕生地――そう思って見るとさらに『どうする家康』が言わんとしていることをかすかに感じられるような気がするのだ。

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