範頼「次は何を植えようか」 善児「マクワウリなんかがいいな」 この会話に震えた。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(NHK総合 毎週日曜20:00~ほか)の第24回「変わらぬ人」(脚本:三谷幸喜 演出:安藤大佑)では蒲殿こと範頼(迫田孝也)が善児(梶原善)に暗殺された。

  • 『鎌倉殿の13人』大姫役の南沙良(左)と巴御前役の秋元才加

「マクワウリ」という言葉がそこはかとなく文学的。「マクワウリなんかがいいな」と言いながら範頼の腹部に小刀を刺す善児。マクワウリを包丁で割ったときあふれ出る種のイメージが画面に映らない範頼の残酷な死を想起させるような気がした。

人のよさそうな兄上大好きな彼が頼朝(大泉洋)が亡くなったと早合点して鎌倉を守ろうと動いたことが仇になった。あれこれ因縁をつけられる範頼が不憫で不憫で……。義経(菅田将暉)と同じく楽しげに農作業に精を出して権力争いに目もくれない様子を示していたにもかかわらず頼朝はほんとうに非情である。SNSで範頼を惜しむ声がたくさんあがっていた。が、このレビューでは主としてもうひとりの悲劇の死を遂げた大姫(南沙良)について考えたい。

大姫の描写は八重(新垣結衣)と似ているように感じる。2人とも最後まで生きることを選んだように見えるからだ。しかも悲しいことが起こる直前、どちらも三浦義村(山本耕史)がそばにいてわりと重要な会話をしている。

八重は、伝承では早いうちに入水自殺したという説のある人物だが『鎌倉殿』では最後まで生きる希望を諦めない人物となった。大姫も彼女について記された作品はたいてい木曽義高(市川染五郎)との許されない恋の末、悲劇の死を迎えたように描かれている。『鎌倉殿』でも悲劇の死ではあるが、そこまでの過程の印象が少し違う。

義高亡き後、彼への想いの強さによって心が壊れて見えた大姫だったが、年月が経つと、あんなにも大切だった義高の記憶がいつのまにか薄れていく。思春期にありがちな空想の世界に入り込み、自分を『源氏物語』の「葵」と呼んでほしいと言い出したり、妙なおまじないに夢中になったりして、父母をはじめとした大人たちに反抗していた大姫。だが実は全成(新納慎也)の霊媒を嘘と見破ることもできるほど頭はクリアである。子供は実はすごく賢いものだということがとてもリアルに見えた。もしかしたら、これも徐々に視界が開かれてきたという現れかもしれないが。

大姫は巴御前(秋元才加)に義高を忘れていくことが怖いと相談にいく。巴は義仲(青木崇高)を愛し最後まで共に戦った。ひとり生き残ったいまは和田義盛(横田栄司)の愛情に支えられ「人は変わるんです。生きてる限り前に進まなくてはならないのです」と大姫を諭す。2人が話をしているとき、義高が抜け殻を集めていた蝉の声が物悲しく響く。

仲良さそうにじゃれあうような巴と和田を見て、生きようと考えたのか大姫は、頼朝がすすめる一条家に嫁ぐことを決意する。とはいえ、和田義盛には妻がいたはずで、その妻がおとなしくて不満とはいえ、ないがしろにして巴とじゃれあっていることについてはスルーされ、和田がかなりいい人に見えることがいささか気になることを一応ここに記しておきたい。

話を戻そう。巴も生きることを選んだ。八重、巴、大姫……悲劇の人物として語り伝えられてきた女性たちが生きることを選ぶ、その生きる意志の強さが『鎌倉殿』の特性だと感じる。

だが大姫はせっかくその気になったものの、ことはうまくいかない。丹後局(鈴木京香)の意地悪に合い、結果的に京で苦労して病気に罹って……。

史実的に大姫が亡くなるのは変えようがない。せめて大姫が一度は生きることを選び、「好きに生きるということは好きに死ぬということ」と悟ることで決して大姫は可哀相ではないのだと感じる最期だった。薄れかかった義高の想いをやっぱり取り戻し彼と共にあの世に行く決意を長い時間かけてしたと思えばきっと大姫は幸福だ(このときも蝉が鳴いている)。自害はしないで天命に従った点が大事なのだと思う。

蒲殿の場合、不運にも兄の機嫌を損ねてしまい、誰も助けてくれないとき、抗うことはない。

そもそもの発端である比企能員(佐藤二朗)に会いに行くも風邪を引いたと居留守を使われるとあっさり諦めてしまう。たぶん風邪は嘘だとわかっていただろう。抗って揉めごとを起こさないところが上品でご立派だ。そのおかげでしばし生きながらえることができたが、頼朝の疑心暗鬼が大き過ぎて不運な最期となった。

能員を焚き付けているのは妻の道(堀内敬子)である。能員ひとりだったらもしかしたら蒲殿をかばったかもしれない。良いか悪いかは別として第24回では女性陣の強さが際立った。丹後局と北条政子(小池栄子)の女のバトルも見応えがあったし、すすり泣く時政(坂東彌十郎)をキッと見るりく(宮沢りえ)もたくましい。安藤大佑演出はいつも女優が美しく撮られている。照明とアングルが考え抜かれて絵のようだ。だからよけいに女のドラマが際立つのだ。

頼朝は「罪深く御仏に見離されている」とまで言われはじめ精彩を欠きはじめている。女性が生きる姿を多く描くことで北条政子の時代がひたひたと近づいてきているように感じる。

まったくの余談だが、八重と大姫の死の前に関わっている義村が、この回発した「外曽祖父」(がいそうそふ)という言葉が山本耕史がメフィラス役で人気の『シン・ウルトラマン』の「外星人」(がいせいじん)と似て聞こえたのは筆者だけではないはず(「がい」しか同じではないのだが)。

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