割れんばかりの爆音と独自のワードセンスを炸裂させながら、35年にわたり活動を続けているジェットロックンロール・バンド、ギターウルフ。Vo.Gtのセイジは長年ナレーションの仕事でも活躍しており、テレビCMでその声を耳にする機会もじつは結構多い(マイナビバイトCM『バイト探しサムライ お先篇』のナレーションなどを担当)。

  • ギターウルフ セイジ(中央)の地元島根への思い、ロックンロールへの思いとは

そんなセイジの地元・島根県松江市で、音楽フェス<シマネジェットフェス・ヤマタノオロチライジング2021>が2021年10月9日(土)に開催される。2017年にスタートした同フェスを実現するにあたり、デビュー以来世界を股にかけて活動を続けてきたセイジが直面した現実と、それを突破していった行動とは?そして今年のフェス開催に向けた思いを聞かせてもらった。ロックファンのみならず、すべての人に読んでいただきたい。

初めての日本ツアーで自分の地元・島根県を強く意識するようになった

――セイジさんは小5の頃から島根県松江市で育ったそうですね。

セイジ:生まれは長崎で、そこから大阪、広島に引っ越して、小5のときに島根県松江市灘町に引っ越しました。当時は小学校が宍道湖の湖畔にある良い風景の場所にあったりして、すごく良い環境でしたよ。

――バンド活動を始めてからは地元とはどう関わっていたのでしょうか。

セイジ:上京して原宿でギターウルフを結成して、ソニーと契約してブワァ~っとブイブイ言い出して。「島根スリム」という曲を作ったりはしていたけど、そのときまでは「俺は島根県人だ」っていうことは特には言ってなかったんですよ。自分たちは海外での活動が先だったから、それまでアメリカ、ヨーロッパツアーをすることが多かったんだけど、ソニーと契約したことで(1997年の日本メジャーデビューアルバム『狼惑星』)初めて日本ツアーをやって。そのときに山陰で凱旋ライブをやって、アンコールで初めて自分が島根育ちだっていうことを言ったら、お客さんがウワ~!って盛り上がったんだよね。そのときに地元でライブをやる素晴らしさをすごく感じて、そこから自分の地元・島根県というのを強く意識するようになったんです。

――「島根スリム」の歌詞に、「ロックンロールのリクエストさ 送られてきた電波はRC」とありますけど、これはRCサクセションのことですよね。

セイジ:もちろん。あの頃は深夜ラジオがブームで、「オールナイトニッポン」とか「セイ!ヤング」とか、日本中の中坊は深夜から朝5時ぐらいまで寝ないでラジオを聴いていたから。そんな中で、島根はBSS(山陰放送)が深夜0時で終わるんだけど、それぐらいになると東京から弱い電波が入ってくるんだよ。その電波を捕まえる作業っていうのがすごく良かったんだよね。

――慎重にラジオのチューナーを回して?

セイジ:そうそう(笑)。そうすると、ちょうど深夜1時から朝5時の間だけ、上手く受信できたんだよ。その放送の中で、「君はRCサクセションを認めるか!?」みたいな議論をしている番組があって。自分はそこから聴きだしたから、議論が白熱しているだけでRCサクセションって日本のバンドなのか外国のバンドなのかわからなくてさ。それで「雨あがりの夜空に」がかかったときに、「ああ、日本のバンドなんだ」って気付いたんだよ。

――その頃は、日本の音楽はあまり聴かなかったですか?

セイジ:俺たちの世代はみんなそうだと思うんだけど、洋楽がメインだったかな。でもやっぱりRCあたりから聴くようになった。いつも性的なことばっかり考えてる中坊の頭で聴いたらさ、あの歌詞って「なんでこんなにいやらしいんだろう!?」って最初に思ったよ(笑)。でもそれが、ブルースの歌詞にかけていたり影響を受けていることを知ったのは、東京に出て来てからだね。

――島根でラジオを聴いたりしていた経験がギターウルフの音楽の原点にもなっているわけですね。

セイジ:そうだね。ただ、バンドをやろうなんて思わなかった。島根にはスタジオもなかったしライブハウスもなかったし、バンドなんて免許でも持ってないとできないんじゃないか?ぐらいに思ってたから。もちろん本気でそんなことを思ってたわけじゃなかったけど、何か別の次元の人間がやるものだと思ってたから。たとえやりたくても、自分にできるようなものじゃないと思ってた。

「松江水郷祭」で観た「Cherry bomb」の強烈な印象

――当時、音楽フェスみたいなものも地元ではまったく開催されてなかったですか?

セイジ:うん、ないね。ないけど、島根には「松江水郷祭」っていう、宍道湖でやるでっかい花火大会があるんだよ。そのときだけ、ものすごい人数が宍道湖の周りに集まるんだけど、その昼間にイベントでアマチュアバンドがライブをしていて、ザ・ランナウェイズの「Cherry bomb」をやってたんだよ。それを観たときにすごくカッコよくて。そのときの強烈な印象があって、自分が感じたようなそういう思いを「シマネジェットフェス」で感じる兄ちゃんお姉ちゃんがいないかなっていうのもすごく期待してるね。

――そういう思いがフェスを始めるにあたってのきっかけの1つなわけですね。

セイジ:そうだね。「松江水郷祭」は大きなお祭りだから、色んなところから人が集まるし、クラスの気になっていた女の子とか、ちょっと美人な年上のお姉さんとか、男にとっても女にとっても心がワサワサして、誰も花火なんて観ちゃいねえっていう。そのときのそういうウェットな感情を基盤にしてる。俺がそのときにアマチュアバンドがやってた「Cherry bomb」を観てバンドをやったのかはわからないけど、確実にそこから「因子」はもらってると思う。

――ランナウェイズの存在もそのときに知ったんですか?

セイジ:いや、ランナウェイズは前から知ってた。ちょっとエッチなバンドがいるって噂は聞いてて(笑)。俺は剣道部だったんだけど、土曜日の練習の後に、先輩たちとみんなでレコード屋に行ったんだよ。みんながフォークのレコードの棚とかでワイワイしてるときに、俺1人でこそっと、噂のランナウェイズのレコードを探してさ。多分、性的な気持ちがあったと思うんだけど(笑)。それでレコードをパッと見たら、5人のお姉ちゃんがメンチ切ってガシッとこっちを睨んでるんだよ。「ウワ~!」と思ってたら先輩が近づいてきたからレコードを棚に戻したんだけど。ランナウェイズにはみんな破廉恥なイメージを持ってたけど、でも実際に見たレコードのジャケットは全然違ってさ。普通、キャンディーズとかピンクレディーはニコっと笑ったジャケットばかりなのに、この人たちはなんでこんなに睨んでるんだろう?って(笑)。それぐらい気合の入った姉ちゃんたちで。もちろん、当時人気だったフォークとかも素晴らしいと思ったし、イルカの「なごり雪」とかも素晴らしい歌詞だなと思うんだけど、でもやっぱり俺はこっちの因子の方が強かった。人間は色んな因子を受けて通り過ぎてると思うし、その中で自分のフィルターにかからずに通り抜けていくやつもあると思うんだけど、俺にはフォークの因子は通り抜けていって、ランナウェイズの因子は確実に留まったんだよ。それが、何年後かに東京に出てきて、「ベストヒットUSA」で「I Love Rock 'N' Roll」(Joan Jett & The Blackhearts)を聴いて、蓄積されてきた因子が爆発して、バンドを組むに至ったんじゃないかって思う。

――バンドを始めたときにすぐに海外での活動に目を向けたのもそういう影響があるからでしょうか。

セイジ:いや、それはまったく考えてなかった。できると思ってないし。ただ、最初に日本で始めた頃からギターウルフのスタイルはパンクロックでありロックンロールであり、もう1つガレージロックとも呼ばれていて。その頃にガレージロックのムーブメントが世界で起きていたんだけど、そういうムーブメントを起こしている人間はちゃんと東京のシーンも見ていて。あるとき、シアトルででっかいガレージイベントがあったときに声がかかって。外国人が日本のこんな小さなシーンに目を向けてるんだって!?ってビックリしたんだけど。1つのショーしか決まってなかったんだけど、それが終わったらアメリカのライブハウスに行ってドアを蹴破って「たのもう~!」って道場破りみたいな感じでライブをやろうと思って、みんな1ヶ月バイトを休んで行ったんだよ。だけど、1つライブをやったら、いろんな人から「うちの街でやらないか?」って声をかけてもらって。それで6本ぐらいライブをやって、最後にメンフィスでライブをやったときにプロモーターのエリックって人にデモテープを渡したら、日本に帰って3か月後ぐらいに、そのデモがレコードになって送られてきた。それがギターウルフの1stアルバム。

――へえ~!そういうデビューの仕方だったんですね。

セイジ:そのデモはいろんなところに発信していて、すべて無視されたんだけど、メンフィスだけが俺たちを認めてくれたんだよ。だから今でもアメリカの基地はメンフィスにあって、アメリカでライブをやるときの機材はメンフィスの倉庫に置いてある。そこから海外のツアー一辺倒で、「マタドール・レコード」(アメリカを代表するインディーレーベル)と契約したりしていたから、まさかソニーが俺たちに目につけてくれるとは思わなかった。