1980〜2010年代の読売巨人軍で選手、スコアラー、査定担当、編成担当といった役割を務めながら40年間を過ごし、チームを行き交う多くの人々と交流してきた三井康浩氏。野球世界一を決めるWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)第2回大会では、日本代表をサポートし優勝を経験した。

  • 名将・原辰徳との縁。「わかりあえるとは思わなかった」存在が、ときを経て「戦友」になった /元読売巨人軍、チーフスコアラー・三井康浩

その三井氏にとって不思議な縁で結ばれた「戦友」、それが原辰徳監督である。ほぼ同時期にプロ野球選手となり、関係性を変えながら長きにわたって続いた交流について聞く。

■ONとの比較に苦しみ続けたスター・原辰徳

「ON(王・長嶋)」が去った後の巨人の主軸を支えたスラッガー・原辰徳が鳴り物入りで巨人に入団した1981年、三井氏は巨人軍のプロ野球選手として3年目のシーズンを迎えていた。学年でふたつちがい(原が年長)の同じ内野手、そして長距離砲。重なる部分もあったプリンスを、三井氏はどんな目で見ていたのだろうか。

――現監督である原さんの選手時代と三井さんは、選手時代に重なる部分もありましたよね。
三井 1年目の春、報道陣を引き連れた原さんの練習を初めて目にしたとき、当時二軍監督だった岩本尭さんが近づいてきて、わたしに聞いてきたんですよ。「原にはバッティングで勝てそうか?」って。同世代の打撃が売りの内野手同士ということもあって、発奮させようとしたのでしょうか。

そのときは「勝てます!」って答えたんです。身の程知らずと思われるかもしれませんが…当時は二十歳そこそこでしたし、打撃には自信がありましたから。

――しかし、まもなく三井さんは腎臓疾患を患い現役引退を余儀なくされました。一方の原選手はスター街道を歩み、巨人軍の主軸になっていきます。
三井 引退後のわたしは球団に拾ってもらいスコアラーになり、原さんたちに分析データを提供する立場になるわけです。当時の一軍のスター選手たちは、誰もわたしの言葉なんて聞いてくれません。レギュラーでバリバリやっていた原さんも、他の選手同様にプライドが高く、なかなかわたしたちスコアラーの話を聞いてくれません。

当時は、いまのようにスコアラーの立場がチーム内で確立されていませんでしたからそれは当然のことですし、逆の立場だったとして、「2歳年下の一軍経験のないスコアラー」の言葉を素直に聞き入れるわけがないなという思いもありました。先輩スコアラーに愚痴をこぼすと、「選手たちが知らない情報を集めて話をすれば聞いてもらえるんだ。それができてないから、おまえは相手にされないんだ」と怒られましたよね。

先輩スコアラーの誰もがそうだったように、実績の有無は言い訳に過ぎないわけです。「集めてきたデータ、情報に価値があれば聞いてもらえる」と考えるようになってからは、より気合いを入れてスコアラー業務に取り組むようになりました。そういう意味で、あのとき突き放してくれた原さんは、自分に火をつけてくれた存在でした。

――しかし、当時の巨人ファンは厳しく…原選手はレギュラーを獲得するもののONレベルの活躍を期待するファンからは、物足りないという声が絶えませんでした。
三井 ON時代のファンたちは、タイトルを何度も獲得するくらいのレベルに達さないと認めてくれませんでしたよね。だから、タイトルとは縁遠かった現役時代の原さんはいつもつらそうに見えました。とくに現役中盤に入りアキレス腱を痛めてからは大変そうでしたね。1992年の7月、神宮球場でのヤクルトとの首位攻防戦でこんな出来事がありました。

2対4で追いかける9回表、1死1塁で原さんに打席が回ったんです。キャッチャーの古田敦也は、原さんをのけぞらせるような厳しいコースを求めて揺さぶります。3ボール1ストライクとなったところで、ピッチャーの伊東昭光が甘いコースに真っ直ぐを投げ込んだ。原さんはこれを逃さずバットを一閃。打った瞬間、誰もがホームランだと確信する打球が舞い上がると、原さんはバットを高々と放り投げたのです。

この年の春、原さんはかつてないほど苦しんいました。チーム内では、入団以来初となる二軍行きの話も出たほどでした。そんなフラストレーションを溜める日々を脱して、自分の打撃を取り戻してみせた歓喜が、あの猛々しいバットフリップを呼んだのだと思います。

――原さんは、「ONと比較される」というポジションに立った、唯一といっていい選手ですよね。それだけでも凄いことなのかもしれません。
三井 ボールを遠くに飛ばすセンスはいうまでもなく素晴らしいものでしたし、守備におけるスローイングの確かさも、「これぞ巨人のホットコーナーを守る選手だな」と思わせるものがありました。生涯成績の打率.279、382本塁打、1093打点という打撃成績も数字として見れば立派ですから。

でも結局、選手時代の原さんとは最後までわかりあえなかった。わたしの力不足ということも多分にあったのだと思いますが、ONの幻影とひとりで戦わず、わたしたちスコアラーのことをもう少し頼ってくれたら、もっと力になれたかもしれないという思いはいまでもあります。

■指導者として現場復帰。一変したイメージ

1995年をもって引退した原は、野球解説者を経て1998年の秋からコーチとして再び巨人軍のユニフォームに袖を通すことになる。スコアラーとしてさらに力をつけていた三井氏との関係は、選手時代とはちがったものになっていく。

――3年間のブランクを経て原さんが戻ってきたことで、「コーチとスコアラー」という関係がはじまります。 三井 グラウンドに戻ってきた原さんとは、最初からいい関係を築くことができたんです。一度ユニフォームを脱ぎ、解説者として異なる世界を経験した原さんは、わたしのようなスコアラーの声も真摯に受け止めてくれるようになっていました。選手生活を終え、野球との対峙の仕方が変わったのでしょう。

ちがった角度から野球について考える機会もあったのだとも思います。その後、原さんは2000年にヘッドコーチに、2002年からは監督に就任します。わたしも同時期にチーフスコアラーに昇格していたので、原さんとはチームの戦略についてかなり深い話を重ねる関係になっていきました。

――原監督は経験を積むにともない、監督としての風格が漂うようになっていった気がします。
三井 初めて監督を務めた一次政権(2002〜2003年)では、わたしに他球団の分析を行ってほしいと盛んに指示していました。ライバルチームがどんな考え方に基づいた戦い方をしようとしているのか、コーチングスタッフの連携がうまくいっているのか、そういうことを知りたがっていました。

でも、二次政権(2006〜2015年)では、相手よりも自分のチームの分析を重視するように変わっていったんです。監督としての自信を深めるとともに、周囲を意識し過ぎてバタバタすることがなくなっていった印象がありました。わたしは二次政権の最初の2年までスコアラーとして一緒に戦わせてもらいましたが、原さんの戦術眼の鋭さや組織をまとめ導く力は、毎年のように増していったように感じます。

野球について、監督という仕事について、もの凄く研究をしたのでしょう。現役を引退したのちに、またちがった意味でどっぷりと野球に浸ったのが原さんという人ではなかったかと思います。

■ともに世界を制し「戦友」になった

原監督が長期政権を築くなか、2007年をもって三井氏は現場を離れ球団フロントへと働き場を変えた(査定室長に転身)。道を異にしたふたりだったが、その道は思わぬ舞台で再び交わることとなる。2009年の第2回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本代表監督に原監督が選ばれ、そのサポートを三井氏が担当することになったのだ。

三井 わたしは2007年をもってユニフォームを脱ぎ現場を離れました。フロントに入ることになったわたしに原さんは、「いいか、ネクタイを締めたら、いままでみたいにすぐ喧嘩するなよ。我慢しろよ」とアドバイスしてくれたんです。誰にも媚びず、我が道を突き進んできた若大将にまさか処世術を教わることになろうとは(笑)。

でも、ユニフォームを脱いだわたしのこれからを、本気で気づかってくれていることがうれしかった。

――原監督が「喧嘩するなよ」といったのは、よく衝突することがあったということでしょうか?
三井 衝突とまではいきませんが、いうべきことはいっていたほうでしたから。原さんはそういうわたしのスタイルを忌避することなく、どちらかといえば好んでくれていた気もします。

――そして2009年、WBCの日本代表監督に原監督が就任。三井さんも一時的に現場復帰し、そこに加わることになりました。「日本代表監督とスコアラー」というまた新しい関係が生まれたのですね。
三井 これは、原さんがわたしに声をかけてくれたことで実現したのですが、WBCでの原さんはとても頼もしかった。日の丸を背負い、世界の強豪を相手に戦うわけですから、普通ならプレッシャーを感じるはずです。でも原さんはまったく動じる様子がなかった。

キューバのアロルディス・チャップマンという豪速球投手を攻略するべく、アウトになってもいいとからと走者に大胆なリードをさせ揺さぶる奇抜な作戦をわたしが立てたときも、そのプランを信じブレることなくやりきってくれたことはよく覚えていますね。

巨人軍という、圧倒的なまでの注目を浴びるチームで長年プレーしてきた経験。引退後にいっそう深めたと思われる野球への見識。それらに裏付けられた指揮官の自信は、チーム全体に伝播していたように思います。負ければ終わりというプレッシャーのかかる状況でも、誰もが前向きに勝利を信じていられたのは、原さんがいたからです。

――いまの巨人も、若い選手が萎縮せず自信をもってプレーするチームになってきていますよね。
三井 あの雰囲気づくりにはモデルがあるように思うんです。1994年の中日と優勝を懸けて最終戦を戦った「10・8」決戦を前に、当時指揮をとっていた長嶋茂雄監督がチームに声をかけたんですよ。「大丈夫。明日は俺たちが勝つんだ。大丈夫」って。

すると、その言葉はすぐにチームを覆って、一気に「勝てるぞ!」というムードになったんです。そのとき一番雰囲気が変わったのが原さんだった。ガチガチに入れ込んでいたのが、どこか力が抜けて自信を漂わせるようになったのです。いまの原さんのチームにかける言葉を聞いていると、あのときの長嶋さんと重なってくるんですよ。現役時代はONとの比較に苦しんだ原さんですが、指揮官としては十分に渡り合えるし、もしかするとそれ以上の存在になりつつあるのではないでしょうか。

原さんが選手だった時代――若手スコアラーだったわたしとわかりあえなかった頃には、まさかこんなに長く深い関係になると思いもしなかった。人生わからないものですが、彼のような偉大な「戦友」を持てたことは、野球人としてのわたしの誇りになっています。

構成/岩川悟(合同会社スリップストリーム) 取材・文/秋山健一郎 写真/石塚雅人