日本プロ野球界に多大なる功績を残した野村克也氏が2020年2月に逝去して、もうすぐ1年が経とうとしています。歴代2位となる通算657本塁打、戦後初の三冠王など、現役時代の実績もあまりに偉大ですが、引退後は、解説者や監督として数多くの名言を残したことでも知られます。そんな野村氏が好んで使った、人生に役立つ「格言」をいくつかピックアップしました。

  • 「我以外皆我師(われいがいみなわがし)」。名将、野村克也氏が好んだ「人生に役立つ格言」

    監督や解説者として数多くの名言を残した野村克也氏。選手として通算657本塁打、戦後初の三冠王ほか、偉大な実績でも知られる。(写真:毎日新聞社)

■「我以外皆我師」

多くの人はみな仕事を持っている。そして、プロ野球選手なら野球、クルマのメーカー勤務ならクルマという狭い世界に生きている。言うなれば、誰もが井の中の蛙かわずなのだ。もちろん、それぞれの世界に全力を注ぎその道を極めていくことは大切なことである。しかし、極めれば極めるほど井の中の蛙では限界が訪れてしまう。

だから、他の世界の人の話も聞くのである。人の話を一生懸命に聞くことによって自分が無知であることを自覚し、さらに成長できる。この姿勢こそが大事ではないか。

「我以外皆我師(われいがいみなわがし)」

これは、剣の奥義習得を目指した宮本武蔵を描いた際に、作家・吉川英治さんが記した言葉だ。武蔵は、武士としてさらなる高みを目指すために、あらゆる商いの人々の話に素直に耳を傾けたという。 

神が人間に耳をふたつ、口をひとつつくられたのは、「話す倍だけ人の話を聞け」という啓示ではないか、とわたしは考えている。わからないことがあれば人にどんどん聞くことだ。聞かぬ恥、無知無学の恥のほうがよほど恥ずかしいものである。

他人の話に耳を傾けようとしない者は、たとえ20歳であろうと、実質は80歳、90歳の老人となんら変わりはない。年齢を重ねたから老いるのではない。人は、理想をなくし、理想を追い求める努力をしなくなったときに老いるのである。

■「小事が大事」

わたしの好きなことわざのひとつに、「小事が大事」というものがある。人間はいきなり大きなことを成すことはできない。どんな大事業や偉業も、小さなことをコツコツ積み重ねてはじめて達成できるのだ。

図らずも、2004年にメジャーリーグの記録となる262本のシーズン最多安打記録を達成したときのイチローが、インタビューで同じことを答えていた。

「頂点に立つことは、小さなことの積み重ねだ」と。

「アリの一穴」という言葉もある。これは、どんなに堅固に築いた堤でも、アリが掘って開けた小さな穴が原因となって崩落することがあるという意味だ。些細な不祥事が原因で、巨大な組織が崩壊するときによく使われる。

わたしは、小さなことや些細なことを疎かにしないという意味で、「アリの一穴」も「小事が大事」と同じように自分の野球のモットーにしてきた。

小さな失敗ほど厳しくチェックしてきたのは、それが理由である。人は、小さな失敗はたいしたことではないと思って見逃すことが多いものだ。しかし、大きな失敗は、結局、小さな失敗の積み重ねの結果で生じる。小さな失敗は大勢には影響がないと思うのは固定観念であり、先入観。それが人を誤らせる原因となる。

だからわたしは、小さな失敗ほど細かくチェックしてきたのである。

■「我を知らずして外を知るといふ理あるべからず。されば己を知るを、物知れる人といふべし」

大切なのは、「己を知る」ことである。

いまの自分にはなにが足りないのか、どこが弱いのか、どこを磨けばいいのか。正しく己を知ることができるかどうかが、未来を左右する大きな礎になる。わたしがプロ野球の世界で結果を残すことができたのは、「自分には野球選手としての才能がないから、読みを磨くしかない」と思えたからだった。

もしわたしが、己を見極めないまま野球を続けていたならば、結果を残すどころか、プロ野球人生は短命に終わっていたことだろう。

「我を知らずして外(ほか)を知るといふ理(ことわり)あるべからず。されば己を知るを、物知れる人といふべし」

これは、鎌倉時代後期から南北朝時代の歌人・随筆家である吉田兼好が書いたとされる日本を代表する随筆『徒然草』の一節である。自分を知らない者が、他のことを理解できるわけがない。自分を知っている者が、本当にものを知っているという意味である。平たく言えば、自分を知らない人間が大成する道理はないということだ。

つまり、すべては、己を知ることからはじまる。己を知れば、身につけなければいけないことや自分を活かせる場所、または方法が見えてくる。自分にとっての正しい目標が定まれば、そこに向かって前進するのみである。

■「物数を極め、工夫を凝らす」

いまの若い選手を見ていると、基本は備えているがそれを活かす基礎が身についていない者が多いと感じる。基本とは技術のこと、基礎とは技術習得の土台となる体と意思の強さのことである。

基礎をつくるためには、習慣による努力が不可欠だ。それを怠った「基本があっても、基礎がない」選手には、本物の強さは備わらない。

「物数を極め、工夫を凝らす」。

こう説いたのは、能を大成した世阿弥である。世阿弥は、能の最高到達点を花にたとえ、その花には2種類あると言った。

それが、「時分の花」と「まことの花」である。

「時分の花」とは、若いときだけの一時的な花のこと。少年期には、ただそこに立っているだけで匂うような華やかさがある。青年期には、名人を相手にしても負けぬ若々しさがある。しかし、それらは一時的なもだ。一方、「まことの花」とは、一時の若さや流行に左右されない花のこと。「まことの花」になるためには、たえず初心を忘れず、努力や工夫を怠ってはならない、と世阿弥は説いた。

基本をしっかりと叩き込まれてプロに入り、ルーキーイヤーから活躍した選手はいくらでもいる。だが彼らはまだ、「時分の花」に過ぎない。そして、「時分の花」には賞味期限がある。その期限がくる前に「まことの花」になるには、物数を極め、工夫を凝らすことができるかどうかにかかっている。

■「人生、絶望するなかれ」

「人生、絶望するなかれ」

これは、天台宗の僧侶であり小説家でもあった今東光さんの型破りな説法書『毒舌身の上相談』に出てくる言葉だ。今さんからは、「つまずきは絶望ではない。絶望=死なら、軽い風邪か、はしかといったところだ。人間、誰しもつまずく。つまずいてはじめて出発できると考えるべきだ」という話を聞いたことがある。

たとえ挫折を経験しても、絶望まで感じることはない、ということだ。

そもそも、一度も負けない人など世の中にいるのだろうか?

負けを活かして、明日の勝利へ結びつければいい。肝心なのは、明日につながる負け方を知ることである。これは野球に限らず、どんな分野でも大切なことだろう。勝ち続けているように見える人も、どこかで負けを経験しているはずである。どこかで壁にぶつかり、はね返されるという経験を何度もしているからこそ、頂点にのぼり詰めることができたというのが本当のところではないだろうか。

負けることは、けっして恥ずかしいことではない。

勝つにはどうするべきかを考えられるのは、負けを経験したからこそである。そのことを肝に銘じて、知恵を絞り、努力する者が勝者になれる。負けたくらいで絶望を感じているようでは、なにもはじまらないのである。

※今コラムは、『野村の結論』(プレジデント社)より抜粋し構成したものです。