選手、スコアラー、査定担当、編成担当と役割を変えながら40年にわたり読売巨人軍に携わり、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)第2回大会では日本代表の優勝を支えた伝説的なスコアラーとして知られる三井康浩氏は、膨大な数の選手たちがプロの世界で戦うのを間近で見つめてきた。同氏にとくに印象的だった選手たちの姿を聞いていくインタビューの第1回は、「天才打者」と呼ばれた高橋由伸について。

  • 高橋由伸は、緊張で手が震えていた__。「若き天才打者」の称号に隠された練習量と柔軟な思考 /元読売巨人軍、チーフスコアラー・三井康浩

エリートコースを歩みプロ入りし、センスの塊のように語られることもあった高橋だが、じつは身近な人の前では不安や弱さを隠さない人間的な一面を持っていた。そして、それを打ち消すための練習量はチームでもずばぬけたものだったという。

■積極性と完成度だけでなく、自ら「考える力」を備えていた

高橋由伸は、慶大時代に東京六大学野球の最多本塁打記録(23本)を樹立し、1997年のドラフト会議で巨人を逆指名。当時の長嶋茂雄監督のもとで年々戦力を充実させ、松井秀喜や清原和博、広沢克(広澤克実)らが居並ぶ強力打線に1年目から加わり、打率.300、19本塁打という新人離れした成績を残す。

その後も安定した活躍を見せ、3度の日本一に主力選手として貢献。キャリア後半はケガに泣かされたものの、現役生活18年間の通算打率は.291、321本塁打という素晴らしい記録を残した誰もが知るスラッガーだった。引退翌年の2016年からは、第18代目となる巨人軍監督を3年にわたって務めたのも記憶に新しい。

――高橋選手の打者としての強みはどこにあったのでしょうか?
三井 相手投手の失投を逃さずヒットにできる積極性。また、左右に強い打球を打てる完成度の高さもあった。そして、自ら考える能力も高く、プロ入りした直後に構えを調整していたことが印象に残っています。

大学ではバットのヘッドを投手側に倒す長距離打者特有の構えでしたが、「球が速く変化球も鋭いプロの投手を打つために、スムーズにバットが出る構えにしたい」とバットを寝かす構えに自ら変えていました。アマチュアで輝かしい実績を残した打者はプライドが高いことも多く、これがなかなかできないんです。

――外から見ていると、完璧主義で天才肌の選手に見えました。実際のところは?
三井 完璧主義はその通りですが、天才肌というのは違います。彼は開幕戦などで「緊張して手が震える」などと不安を口にする一面もあり、それを圧倒的な練習量で打ち消すタイプでした。

——高橋選手がですか? 手が震えると。
三井 ええ(笑)。あれだけの選手でも開幕戦の一打席目というのは特別なものですし、かなり緊張するタイプだったのだと思いますよ。春季キャンプではすべての練習が終わってから、ティーバッティングをさらに1000球打つのがノルマで、汗だくになってそれを終えると、グラウンドに大の字になって倒れ込んでいました。

あれを見たファンは、「天才・高橋」というイメージとのギャップに驚いたはずです。とにかく、高橋には「圧倒的にバットを振る選手だった」という印象がいまでも残っていますね。

  • 1998年04月07日、高橋由伸は右中間にプロ入り初ホームランを放ち、ナインに迎えられる。このとき23歳。写真:毎日新聞社

■周囲に意見を求め、不振を脱しようとする姿勢

高橋の練習に対する姿勢は、「チームでもトップレベルだった」と三井氏は語る。ナイターがある日、選手はだいたい13時ごろ球場に来るが、高橋は11時には練習をはじめていたという。それを見て周りの選手も早出することが増えていったため、「チームの伝統をいい意味で変えた選手」と称える。

——高橋選手はシーズン中の練習もハードにやっていたのですか?
三井 早くから球場にやってきて、バットを振っていました。早出の練習がはじまったのにはきっかけがあります。彼はマスコミからの注目も高く人目を気にしていました。ましてや、もともと外で派手に遊ぶタイプでもない。ですから、他の選手と飲みに行ったりすることもあまりなく、わたしの自宅によく遊びに来ていたのです。2年目のある日、わたしが球場に向かう前にバッティングを見てくれといってきた。スコアラーの球場入りは早く、朝9時には球場に向かいます。ですので、7時に家の前の駐車場で高橋がバットを振り、わたしがそれをチェックすることにしたんです。

でも、高橋の存在に気づいた近所の人が集まってしまって……(苦笑)。それでわたしが「東京ドームに早く来るなら、練習に付き合うよ」といって早出練習がはじまりました。「あの高橋が早出をやっているぞ」ということがチームに与えた刺激はかなりのもので、彼よりも若い選手たちのあいだに、「早く球場にやってきて練習するのはあたりまえ」という考え方が広がっていきました。高橋は積極的にリーダーシップをとるタイプではなかったのですが、彼の姿勢がチームにもたらしたものは非常に大きかったと思います。

——三井さんと高橋選手。おふたりは、かなり近い距離感だったようですね。
三井 高橋は打撃コーチをはじめいろいろな人に意見を求める選手で、わたしもそのなかのひとりでした。ただ、ぐっと距離が縮まったときのことは覚えています。1年目、高橋は開幕から好調だったのですが7月末に少し調子を落としたのです。そのときに声をかけられたんですね。「いまの僕のバッティングって、どんな感じですか?」って。

わたしは、強い打球を打ちたいから強引に引っ張り気味になっていたことや、ボールを上から叩きゴロになりやすい打ち方になっていたことなどが気になっていました。

——高橋選手は、なぜそうした状況におちいっていたのでしょうか?
三井 巨人のドラフト1位という立場でしたし、加熱するマスコミの報道などがプレッシャーだったのかもしれない。開幕は7番だった打順も5番まで上がり、役割を果たさねばという思いが強くなっていたように感じます。なにせ巨人軍のクリーンアップを打つわけですからね。気負いはあったはずです。それで、「バックスクリーンにホームランを狙う感じで振ってみては? 一番ヒットゾーンが広いのはセンターなのだから」とシンプルな提案をしたんです。

引っ張り過ぎずボールを正面に打ち返すことと、バットをボールの下に入れフライを打つ感覚を取り戻してほしいという思いからです。アドバイスが正しかったのかはわかりませんが、高橋は調子を完全に取り戻しました。これが縁となり、わたしと高橋は話すことが増え、一緒に練習する時間も長くなっていったんです。

■データも活用し、ライバルチームのマークをはねのけた

高橋と一緒に壁を乗り越えた出来事がもうひとつあると、三井氏はいう。それは、ゴールデンルーキーを攻略しようと躍起になっていた野村克也監督が率いるヤクルトによる「高め」を攻める作戦への対応だった。

——高橋選手への他球団のマークは厳しかったのでしょうか?
三井 彼くらいの成績を残す打者については、どの球団からも分析され、なにかしらの対策をとってくるものです。そうした対策でずば抜けていたのは、やはりデータを駆使することで知られていた「野村ヤクルト」ですね。巨人とヤクルトは1990年代のセ・リーグの覇権を奪い合ったライバルでしたから、互いに裏をかきあう情報戦は熾烈なものがありましたよ。

——かなりの対策をヤクルトは高橋選手に対しとってきたのでしょうね。
三井 そうですね。首脳陣、そして捕手の古田敦也らは少し変わった攻め方をしてきました。高橋は高めのコースが得意で、失投を逃さずとらえる打撃をしていたため、多くの投手は失投を避けようと少し神経質になり、それが逆に高橋を有利にしている面がありました。しかし、ヤクルトは臆せず高めに投げてきた。彼らは「高橋は高めのボールを打っているが、力の入った強いボールはそこまで確実にとらえていない」と分析し、高めに力一杯ボールを投げ込む作戦をとってきたのです。

当然、高橋は高めが好きですから積極果敢に打ちにいく。でも、力のある高めはファウルになることが多く、高橋はいつもカウントを悪くしてしていました。カウントが不利になれば、必然的に打ち取られるケースも増えていきます。わたしはスコアラーの立場から、高めを打ちにいきたがる高橋にヘルメットを深く被らせ、「視界に入ってきたボールだけを打ちにいこう」と伝え、高めを捨ててもらった。そうして、ヤクルトの高橋対策を封じたのです。もちろん、ヤクルトバッテリーの攻めに関してのデータもしっかり覚えてもらいました。

——情報を用いた戦い、いわゆる駆け引きですね。
三井 新人王をとった高橋は、その後大きなスランプにおちいることなく成績を残し続けました。これはひとえに高橋の努力の賜物です。ですが、データを用いて方針を示すスコアラーの意見に耳を傾けたこともいくらか影響したのではないかと思っています。強打者には、どのチームも対策を練ってきます。それを見抜いて、こちらもまた対策する。

そうした対応を粘り強くしていかないと、成績を残し続けるのは難しいものです。高橋はそういった情報の活用にも興味を持ち、野球を探求し続ける選手でした。

——肉体も、頭脳も、野球に捧げていた。
三井 高橋はキャリア後半、ケガの影響で成績は伸びにくくなっていましたが、打撃自体は引退直前まで進化していました。引退の前年である2014年、打席で間合いをずらされて詰まらされていたボールに対し、うまく距離を保ちヒットにする打撃を自分のものにしていたんです。スタメンの機会も減り打席数も限られていましたが、「ああ、やっと高橋の打撃が完成したな」と思いましたね。

もちろん、練習量も引退までほとんど落ちることもありませんでした。いろいろな考えを取り入れながら試行錯誤を重ね、見つけた答えを猛烈な練習で自分のものにする——。そんな泥臭い努力を最後まで続けたのが、高橋由伸という選手だったと思います。

構成/岩川悟(合同会社スリップストリーム) 取材・文/秋山健一郎 写真/石塚雅人