1978年は、東映の特撮ヒーローおよびキャラクター作品が激減するという非常事態が起きた。唯一の特撮ヒーローとして孤軍奮闘したのが、アメリカ・マーベルコミックスとの提携によって生み出された『スパイダーマン』(1978年)だった。当初は1時間枠での大人向けドラマとして構想されたが、早い段階で特撮ヒーロー路線となった。本作の特色はなんといっても、スパイダーマンが乗り込む巨大ロボット・レオパルドンの活躍。ポピー(現:バンダイ)の商品戦略として、母艦からロボットへ変型する巨大メカニックを組み込んだことで、本作は好評を博した。

吉川氏は『スパイダーマン』のプロデューサーを務めたころ、渡邊亮徳氏、平山亨氏らと共に原作者スタン・リーに会い、彼のヒーロー哲学について感銘を受けたという。アメコミのヒーロー、とりわけスパイダーマンは無敵のスーパーヒーローではなく、人間的な悩みをかかえている平凡な青年にすぎない。「ヒーローでも悩み、苦しみはある」と定めて作品を作ってきた吉川にとって、『スパイダーマン』は自身の方向性を指し示すヒーローであり、最適な作品だったといえる。『スパイダーマン』のオープニング「駆けろ!スパイダーマン」とエンディング「誓いのバラード」はどちらも「作詞:八手三郎」となっているが、「駆けろ!スパイダーマン」は平山氏、「誓いのバラード」は吉川氏が作詞を手がけている。

『スパイダーマン』の終了が近づいた1979年、同時進行で動いていた企画が『バトルフィーバーJ』(1979年)となり、製作が決定した。平山氏から企画を引き継いだかたちとなった吉川氏は、『スパイダーマン』に続いて『バトルフィーバーJ』も担当。ここで共同プロデューサーについたのが、吉川氏の初プロデュース作『日本剣客伝』で助監督を務め、『仮面ライダー』シリーズや『超人バロム・1』(1972年)などの監督としても活躍した折田至氏だった。撮影現場と制作サイド(吉川氏)のつなぎ役となり、多方面に深い知識を有する折田氏と吉川氏のコンビは、本作以降も『宇宙刑事ギャバン』(1982年)や『超人機メタルダー』(1987年)『世界忍者戦ジライヤ』(1988年)など、さまざまな作品を生み出すことになる。

国産テレビドラマの黎明期より数々の俳優・女優たちと交流を深めていた吉川氏は、『バトルフィーバーJ』の若い戦士たちを束ねるポジション=「倉間鉄山将軍」役に、往年の東映時代劇の大スター・東千代之介を起用した。世界各国の特色を備える個性豊かな戦士たちをまとめるにあたって、「日本人」の心を持った俳優に鉄山を演じてほしかったと、吉川は後に起用の理由を語っている。

また、『バトルフィーバーJ』主題歌の作詞を、山川啓介氏に依頼したのも吉川氏の発案であった。吉川氏は、山川氏が詞を手がけた映画『野性の証明』主題歌「戦士の休息」を聴き、「ヒーローの勇ましさだけでなく、人間的な部分を強調した歌詞を書いてくれるのではないか」と思い、オファーをかけたのだという。山川氏もまた、ヒーローとは「高みにいる存在ではなく、子どもたちと同じ目線に立っていたほうがいい」といった思いを抱いており、吉川氏とはたちまち意気投合。山川氏は「吉川さんは確かな"ヒーローの哲学"と歌詞に対するこだわりを持っていた。それを理解したので、こちらも真剣に取り組むことができた」と語り、『太陽戦隊サンバルカン』(1981年)や『宇宙刑事ギャバン』(1982年)など、その後も吉川氏の手がける作品に参加し、心に残る名フレーズを生み出し続けた。

集団ヒーローの新形態に、巨大ロボット(バトルフィーバーロボ)の魅力を加えた『バトルフィーバーJ』は大ヒット。以後も『電子戦隊デンジマン』(1980年)『太陽戦隊サンバルカン』(1981年)とシリーズ化され、2020年の現在も子どもたちの人気を集める「スーパー戦隊シリーズ」の基礎ができあがった。吉川氏は『大戦隊ゴーグルV(ファイブ)』(1982年)の初期企画段階でシリーズを離れたが、その後も鈴木武幸プロデューサーが路線を引き継ぎ、「戦隊」を長寿テレビシリーズへと成長・発展させた。1993年半ば、石ノ森章太郎・原作の『秘密戦隊ゴレンジャー』を第1作、『ジャッカー電撃隊』を第2作と正式に定められ、第3作『バトルフィーバーJ』以降の八手三郎・原作のシリーズと合わせて「超世紀全戦隊」というくくりが誕生した。後に名称が再び変更され「スーパー戦隊シリーズ」に確定している。