カラフルに彩られたチームヒーローが、抜群のコンビネーションと必殺武器を用いて、邪悪な軍団を打ちのめし、世界の平和を守る――。これが第1作『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975年)から第44作『魔進戦隊キラメイジャー』(2020年)まで、45年にもわたって子どもたちの人気を集めてきた「スーパー戦隊シリーズ」の基本要素である。

新堀和男(にいぼり・かずお)。1955年、茨城県出身。1971年に大野剣友会へ入門し、『仮面ライダー』をはじめとするテレビ作品に出演。1972年の『正義を愛する者 月光仮面』ショーで初めてシン(主役)を演じ、その後『仮面ライダーX』(1974年)『仮面ライダーアマゾン』(1974年)を経て『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975年)のアカレンジャー・スーツアクターとして活躍する。現在はレッド・エンタテインメント・デリヴァー(RED)代表として後進の指導にあたり、多くの若手アクション俳優を現場へ送り出している

2019年12月13日から2020年2月16日まで横浜・放送ライブラリーにて開催された企画展「スーパー戦隊レジェンドヒストリー ~ゴレンジャーからリュウソウジャー、そして未来へ~」は、歴代「スーパー戦隊シリーズ」の歴史を一か所に凝縮し、1作ずつの内容解説や、放送された時代の流行、出来事などをまとめた「パネル展示」や、作品で使用された「小道具・アイテム」、秘密戦隊ゴレンジャーや歴代レッド戦士、巨大ロボといった「ヒーロー立像展示」、そして全シリーズから厳選したエピソードの数々をスクリーンにて上映する「スーパー戦隊レジェンドシアター」といったさまざまな趣向が、昔のヒーローを懐かしむ大人から最新ヒーローを応援する子どもたちまで幅広い年代の「スーパー戦隊」ファンの心をつかみ、連日大盛況となった。

ここでは、第1作『秘密戦隊ゴレンジャー』のアカレンジャーをはじめ、第3作『バトルフィーバーJ』(1979年)のバトルジャパンから第15作『鳥人戦隊ジェットマン』(1991年)のレッドホークまで、歴代"レッド戦士"のスーツアクションを務めたヒーロー界の"レジェンド"新堀和男にインタビューを敢行。チームヒーローの「センター」ポジションとなる"レッド戦士"として激しいアクションをこなしていたころの思い出から、後進の活躍を見守る「指導者」としての近況まで、力強い口調で語ってもらった。

――新堀さんは大野剣友会メンバーとして『仮面ライダー』(1971年)のころからスーツアクションを務めていたとうかがいました。

テレビの仕事で初めて、第1話から主役(ヒーロー)をやったのは『仮面ライダーアマゾン』(1974年)でしたね。その前は、中屋敷(鉄也)さんの後を受けて『仮面ライダーX』(1974年)をやっていた。あのころはまだ19歳くらいで、まだ仕事もそんなに多くなかったから、昼・夜と1日2回稽古していたんです。そのうち、こんど『秘密戦隊ゴレンジャー』ってのを大野剣友会でやるから、お前アカレンジャーをやれとカシラ(高橋一俊)から言われたんです。

――5人のヒーローのリーダーを務めることについて、どう思われましたか?

あのころ俺は20歳になったばっかりで、俺がリーダーなんてできるのかなあ?なんて最初は思いましたよ。なにしろ、周りのアオレンジャーやミドレンジャーは、中屋敷さんや(中村)文弥さんといった先輩がそろってるんですから。リハーサルのとき、俺がアカレンジャーだからみんなに指示を出すんですけど、初めのころはずいぶんやりにくかったですね。

――アカレンジャーを最初に演じられたときの印象を聞かせてください。

まず「マスクがデカいな」って思いました(笑)。あと、第1話冒頭のアカレンジャーはスーツがレザーで出来ていたんだけど、すぐに破れるもんだから早い段階で布製になりました。放送ライブラリーの「スーパー戦隊レジェンドヒストリー」会場で第1話を久しぶりに観返したけど、もう45年も前なんだよね。第1話のアオレンジャーは文弥さんが演じてるんですよ。その後、中屋敷さんがアオレンジャー、文弥さんがミドレンジャーってパターンが多くなってきます。中屋敷さんは同じ時期の『仮面ライダーストロンガー』(1975年)のアクションも担当していたけど、俺もストロンガーをやってたんです。観ているといろいろ思い出しますね。第1話ではアカレンジャーだけじゃなく、黒十字軍の毒ガス仮面とか武者仮面も演じたなあ。

――ヒーロー専任ではなく、怪人などいろいろな役も演じられていたんですね。

機関車仮面(第46話)のときは、人がたくさんいる新宿のど真ん中で、頭の上にスモークを乗せて煙を出しながら走ったことがありました。スタッフが俺の前と後ろについてくれて、ゲリラ撮影でやったんです(笑)。

――『ゴレンジャー』で第1話から第66話までアカレンジャーを演じられた新堀さんが、次に"レッド戦士"を演じたのは、大野剣友会をやめてフリーになったころの『バトルフィーバーJ』(1979年)のバトルジャパンでした。第1話から第7話まではビッグアクション、第8話よりJACがアクションを担当していましたが、その後もずっと新堀さんがジャパンを演じることになるんですね。

バトルジャパンからまた「スーパー戦隊」に入って、JACのメンバーと一緒にやっているうちに"飛び方"とかを教わったので、『電子戦隊デンジマン』(1980年)や『太陽戦隊サンバルカン』(1981年)のころは崖の上からジャンプできるようになっていました。『大戦隊ゴーグルファイブ』(1982年)は5人が並んで崖からジャンプするのが見せ場になっていたけど、あれって全員のタイミングをちゃんと合わせないと、ちゃんとそろわずNGになるんです。だから俺が「ハイッ!」って最初に合図をして、それに合わせて4人が飛ぶ、みたいな感じになっていきました。

――80年代のJACは大葉健二(『バトルフィーバーJ』『電子戦隊デンジマン』)さん、春田純一(『大戦隊ゴーグルファイブ』『科学戦隊ダイナマン』)さん、卯木浩二(『科学戦隊ダイナマン』)さんなど、変身前と変身後の両方を演じるアクションスターの方々をはじめ、現在では独立してアクションチームを率いている方や、アクション監督、アクションコーディネーターとして活躍されている方たちがしのぎを削って、非常にレベルの高いアクションを繰り広げていたようですね。新堀さんがレッドを演じていた当時、特に意識されていた方はどなたですか。

『電撃戦隊チェンジマン』(1985年)で副官ブーバを演じていたJACの岡本(美登)ですね。あいつとの絡みがあると、「くそーっ、お前には負けないぞ!」と、血が騒ぐんです(笑)。年齢が同じくらいでしたしね。立ち回りを撮る前でも、テストなんかほとんどやらなくてね、簡単に手を合わせたら、すぐ本番に入るとか、いつもそんな感じでした(笑)。

『チェンジマン』で覚えてるのは、長石(多可男)監督が撮った第52話「ブーバ地球に死す」での、チェンジドラゴンとブーバの一騎打ちです。長石監督は望遠で撮るのが好きですから、カメラが200mくらい向こうにあってね。夕陽がいい具合に沈んでいく瞬間を狙って、30分前くらいから俺たちは準備しておくんです。それで、いつものように簡単に手だけ合わせて、それ以上はテストでやらない。マスクを着けて「いくぞ岡本―っ!!」って叫びながら本番に入って、それで一発OKです。重要なシーンでは、あまり何度も立ち回りのテストをしないほうがいいんですよ。こちらとしても、最終決戦だ!という緊張感がありますから。