小形氏によるとカトキハジメ氏が『ZZ』のMSをリファインしているが、それを楽しんでやっているという。既存のものにとらわれず、新しいものに挑んでいく姿勢や、『ガンダム』というものの幅を広げていく上で『ZZ』が果たした役割は大きく、『ガンダム』がシリーズ化する土台を作ったと小形氏は語る。福井氏もガンダムチームなどは平成ガンダムのルーツになっていると指摘。『Z』の路線で進んでいたら、閉塞していただろうという見解は、『ZZ』の存在抜きで『V』(『機動戦士Vガンダム』)後にGガンダム(『機動武闘伝Gガンダム』)を作れたかどうかを考えると、まったくもって同感である。

現・サンライズ社長が語るZZ

後半戦は、『Zガンダム』、『ZZガンダム』でプロデューサーを務めていた内田社長が登場。当時30歳前後で、初プロデュースが『Zガンダム』だったという内田社長は、当時の苦労をこう語る。

内田氏:まず『ガンダム』の続編を作れる、という喜びを感じてやっていたので、苦労というのはあまり感じなかったです。でも、当時は『ガンダム』の続編というものはなかったので、どういうものを作れば正解なのか、手探りでやっていました。ふたつの越えなければいけないハードルがあって、ひとつは富野監督が目指している作品作りとスポンサーのガンプラを売りたい意向、そして子どもではないファンに向けてという3つの要求をどうまとめるのかということ。

もうひとつは横の敵との戦いです。当時サンライズは「『ガンダム』の続編は作らない」ということを明言していまして、そうなると『ガンダム』の後を担うロボットアニメとして『マクロス』(『超時空要塞マクロス』)と『トランスフォーマー』(『戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー』)という大きなものが出てきていた。この二作品はガンプラに対抗しうる商業的成功を収めていて、これらを『Zガンダム』でどう凌駕していくか、という課題があったわけです。

また、富野監督のライバルは『マクロス』や『トランスフォーマー』だけでなく、大人の鑑賞に耐えるガイナックスの『オネアミスの翼』や宮崎駿氏の『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』でもあったという。これらに対するカウンターとして作っている面もあったそうだ。

藤津氏:当時の話を伺いたいんですが、『Z』から『ZZ』でガラリと雰囲気を変えよう、という話はどんな経緯だったんですか?

『機動戦士Zガンダム』、『ガンダムZZ』のプロデューサーでもあった現サンライズ社長の内田健二氏

内田氏:先ほどの福井さんたちが考察、分析していたものが、当時の富野監督の中にもあったんだと思いますね。私の記憶では、『Zガンダム』を作ったら『ガンダム』は終わりだ、となっていたんですが、放送半ばぐらいでスポンサーからもう1年『ガンダム』を作ってほしいと言われまして。私はプロデューサーとして次は違う作品を考えていて、でも新人プロデューサーですからスポンサーに強いことは言えないわけです。で、富野監督が断ってくれるだろうと思っていたんですが、提案があるんだったらやろうと、承諾したんです。

福井氏がスポンサーから『Z』とは変えてくれというオーダーはなかったんですか? と訊ねると、『Z』の段階で富野監督の強い意志があって『ZZ』ではスポンサーもある程度お任せにしていたようだ。しかし、主人公をアムロにしてほしい、アムロとシャアの息子が戦う話にしてほしいなど、トンデモ案が提案され、困ったらしい。そうなっていたら、福井氏はアムロとシャアの孫が戦う話をユニコーンでやりますよ、と笑っていた。

強烈! 全盛期の富野エピソード

当時、内田社長がプロデューサーとして接した富野監督の話は凄まじかった。絵コンテのあがらない富野監督の所に制作進行が行ってもまったく進まないので、内田プロデューサーが一晩つきっきりであったとか、福井氏いわく、当時の話を聞けば聞くほど富野監督の強烈な逸話がゴロゴロしている。しかし、そんな激烈な制作現場で何年も4クールのロボットアニメをやってきたことで、若いクリエーターがいろいろなチャレンジをして育っていったと内田社長は語る。今川康宏氏、高松信司氏、川瀬敏文氏、赤根和樹氏ら、今では監督として活躍している面々が鍛えられた場であったと。

また、バウの腰に書いてある"龍飛"の文字は富野監督が書き加えたらしい。作画時に作業が困難になるものをデザイナーが書いたら非難されるので、バウの設定画を描いた出渕裕氏は設定画に「この文字を書いたのは私ではありません」と但し書きをつけたという。百式の百も同じく。……続きを読む