新しいキャリア、新しい場所…。新しいことにトライするには、苦難や苦労がつきものです。ただ、その先には希望があります。

本連載は、あなたの街の0123でおなじみの「アート引越センター」の提供でお送りする、新天地で活躍する人に密着した企画「NewLife - 新しい、スタート -」。

第22回目は、CGモデラーの成田昌隆さんにお話をうかがいました。

  • 証券マンから転身を遂げたCGモデラ―の成田昌隆さん

    第22回目は、証券マンから転身を遂げたCGモデラーの成田昌隆さん。アメリカからオンラインで取材に対応いただきました

Change
45歳でCGモデラーに転身。
『スター・ウォーズ』シリーズに参加

「世界中の人たちに見てもらえるのが醍醐味。だから、下手なものは作れません」

『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』以降、『スター・ウォーズ』シリーズに参加しているCGモデラーの成田昌隆さん。

  • 『スター・ウォーズ』シリーズにCGモデラーとして参加している成田昌隆さん

2次元の絵を基にコンピューター上でスター・デストロイヤーをはじめとした宇宙船などを立体化し、脚光を浴びています。

  • CGモデリングを担当したスター・デストロイヤー

    成田さんがCGモデリングを担当したスター・デストロイヤー

そんな成田さんがCGモデラーに転身したのは、45歳のとき。

「下手なものは作れない」との言葉から伝わってくる真摯さに、人生を前に進めるヒントが垣間見えました。

Background
10歳で洋画の魅力に気づくも、遠すぎたハリウッド。
転職後の渡米が人生を大きく変える

自分はいつもウルトラマン役で、友達が怪獣役。ガキ大将を気取っていました(笑)。


そう懐かしむ成田さん。幼少期は年下の男の子3人を引き連れ、土が盛られた建築資材置き場で日が暮れるまで怪獣ごっこに明け暮れていたそうです。

  • 幼少期の成田さん

    幼少期の成田さん

時は1970年代。ネットやゲームはなく、特撮の真似を外遊びでするのが子どもたちの日課でした。そんな中、成田少年は模写に勤しむようになります。

アニメや特撮のキャラクターの絵を描くのが好きだったんですが、テレビに映る本物に近づけないと気が済まない性分で(笑)。

納得がいくまで毎日のように描き続けていましたね。


  • 成田さんが4歳頃に描いた絵

    成田さんが4歳頃に描いた絵

このときの「模写」が今の礎を作ってくれたと成田さんは目を細めます。

それとプラモデルが楽しくて、ジオラマもよく作っていましたね。雪を小麦粉で表現するなど、自分なりにこだわっていました。


  • 成田さんが実際に作られたプラモデルのジオラマ

    成田さんが実際に作られたプラモデルのジオラマ

特撮と絵、プラモデルにジオラマ。
10歳のとき、この幅広い趣味に「洋画」が新しく加わります。

オードリー・ヘプバーン主演の『シャレード』をたまたまテレビで見て、洋画の魅力に気づいたんです。当時はなかなか映画を見られなかったので、テレビで放送されるときは、またとないチャンスで。

内容を一生懸命ノートに記録して、それを脳内で映像として繰り返し再生していました。


  • 『タワーリング・インフェルノ』の記録ノート

    特に好きだったという『タワーリング・インフェルノ』の記録ノート

将来は映画に携わりたい」。
洋画の虜になるうち、そう思うようになったそうですが、漠然とした夢が輪郭を帯びることはありませんでした。

エンターテインメントの世界、ましてやハリウッドはあまりにも遠すぎて、自分事として考えられなかったんです。

そもそもどうすればハリウッドで働けるのかという情報も少なすぎて……。

大学に入って大きな会社に就職して、という一般的な進路に自然と折り合いを付けました。


  • 進路に自然と折り合いを付けたと話す成田さん

高校生になると受験勉強に励み、地元の名門・名古屋大学 電気電子学科に進学。
ミュージカルサークルに所属し、エンターテインメントに生きる素晴らしさを全身で味わいますが、やはり趣味の範囲を出なかったと振り返ります。

  • 成田さんがミュージカルサークルに所属していた頃

    写真最上部が成田さん

そうして卒業後は大手電機メーカーへ。
就職先に選んだ理由は、人工衛星を作っていたことだったそうです。

宇宙への興味ーー。
それは『スター・ウォーズ』の影響でした。

人工衛星からの電波を受け取るパラボナアンテナ制御装置の設計・開発を担当していました。

出張で海外にも行きましたが、英語がほとんど話せない状態だったので、大変でしたね(笑)。


  • 出張で生まれて初めて海外を訪れた際の成田さん

    出張で生まれて初めての海外へ

宇宙に関連する仕事ということで前向きに取り組めていたそうですが、あるとき成田さんに一抹の不安が芽生えます。

当時は、長時間労働が当たり前の時代でそれが普通だったんです。ただ、これがいつまで続くのだろうと……。

働き方に疑問を感じ始め、転職を考えるようになりました。


  • 転職を考えるようになったと話す成田さん

こうして成田さんは証券会社に転職。

企画部門に籍を置き5年にわたって勤めると、アメリカ駐在を希望し、1993年に渡米します。この渡米が、成田さんの人生を大きく変えるきっかけとなりました。

  • アメリカ駐在時の成田さん

    アメリカに着任して間もない頃の成田さん

Setback
『トイ・ストーリー』を見てCGアーティストを志すも、
3年で夢を諦めることに

転機の兆しは2年後の1995年。
きっかけとなったのは、映画『トイ・ストーリー』を見たことでした。

映画の世界に対する憧れは子どもの頃から変わらず持っていたのですが、どうすれば自分がその業界に携われるかは分かっていませんでした。

それが『トイ・ストーリー』を見て、コンピューターを使った仕事が映画にもあるんだと初めて気づかされたんです。


  • コンピューターを使った仕事が映画にもあると気づいた瞬間

「自分はコンピューターでメシを食ってきた人間、CGを覚えれば映画の世界に入れるかもしれない」。そんな思いが成田さんの中にこみ上げてきたといいます。

エンドロールに日本人の名前があり、それにも衝撃を受けて。

こんなに素晴らしい映画に日本人が関わっているのかと。

それからは映画の見方が変わって、エンドロールで日本人の名前を見つけるたびに「自分は何をやっているんだ」と焦りを感じるようになりました。


  • 焦りを感じるようになった

そんな焦燥感に駆られる中で迎えた1997年。
仕事の一環で訪れたコンピューターゲームのカンファレンスで、CGモデラーとしての一歩を踏み出す出会いに恵まれます。

たまたま個人向けCG制作ソフトのデモが行われていて、眺めていると『トイ・ストーリー』の作り方を理解できたんです。

「これなら自分にもできる!」と思って、その場で購入しました。それからは、仕事が終わると寝食以外の時間はCG制作に費やす日々。1年に1本のペースでアニメーションショートフィルムを制作しました。


  • 成田さんが最初に作ったCGモデル

    成田さんが最初に作ったCGモデル

成田さんは活動初年度から積極的に制作会社へのアプローチを開始。
しかし現実は厳しく、不採用が続いていました。そうして迎えた3年目、満を持して臨んだ面接で愕然とさせられます。

面接官から「もう1本、見せてほしい」と言われて……。

今では中学生でもCGを簡単に制作できる環境が整っていますが、当時はソフトウエアや機材も高額。モデリングからアニメーションまですべて一人で制作するのですが、コンピューターの処理能力もとても遅かったですね。そのため、働きながら制作するには1年に1本が限界。

「また1年後か……」と思い落胆しましたね。


失意の底に沈むと、追い打ちをかけるように不幸が襲います。

「父がガンになった」と日本から連絡があり、1か月で急逝しました。

その10日後に娘が生まれたこともあり、夢を追いかけている自分に嫌気が差して、CGを遠ざけるようになりました。


  • CGを遠ざけるように

こうして成田さんの挑戦は、3年で幕を閉じたのです。

Debut
小さなCMの仕事から回り回って映画の世界へ。
退職から1年で映画のクレジットに名前が載る

しかし、映画の神様は成田さんを見放しませんでした。CG制作の道を諦めて6年が経ったある日、ある人物から連絡が入ります。

その人は面接会場で出会った日本人のCGアーティストで。

彼から映画製作会社『ドリームワークス』に入社できたと一報があったので、事務所を見学させてほしいとお願いしてみたんです。


  • 「やはりCGアーティストにチャレンジしたい」と感じたという成田さん

やはりCGアーティストにチャレンジしたいーー。

ロサンゼルスにあるドリームワークスに足を運ぶと、蓋をしたはずの想いが沸々と再燃したといいます。45歳にして、約束された不自由ない暮らしとキャリアを捨て、退職を決意しました。

葛藤や不安はまったくありませんでした。

「何度でもやり直せる」「実力主義」といったアメリカ特有の風潮を肌で感じていましたし、むしろ「やってやるぞ!」と意気込んでいました。


アメリカの風に背中を押され、腰を据えてCGモデラーを目指すことにした成田さんは、専門学校に入学。しかし収入はなく貯金は減る一方だったと回顧します。

とにかく仕事をもらわなければと必死でしたね。勉強と制作会社への売り込みを同時進行で行いました。

入学後、完成した自信作を30社ほどに送ったのですが、返事を待っている間は地獄でした。中学と小学生の子どももいたので「もしかしたら、家族にとんでもないことをしてしまったのではないか」と、退職の後悔がよぎったりもしました。


  • CGの専門学校に通っていた頃の成田さん

    専門学校に通っていた頃の成田さん

1か月半後、自動車のパンフレットを作る会社からオファーが舞い込んだときには、ほっと胸を撫で下ろしたそうです。映画の仕事ではなかったものの、成田さんは受諾。すると、少しずつ人生が回り始めました。

フリーランスとしてコマーシャルを作る会社の仕事を点々としていたのですが、当面の目標にしていたVFX(Visual Effects)制作会社「デジタル・ドメイン」から声をかけてもらえて。

コマーシャル部門からのオファーだったため、このときは映画には結び付きませんでしたが、『アポロ13』や『タイタニック』を手がけた会社です。仕事場に向かう車の中では嬉しくて大泣きしましたね。


  • 仕事場に向かう車の中で嬉しくて大泣きしたと話す成田さん

コマーシャルの分野で地道に働くうち、映画との縁は突然やってきたそうです。

ニューオリンズで開催されていた世界最大のCGカンファレンス『SIGGRAPH(シーグラフ)』で仕事を探していると、『メソッド・スタジオ』というVFX制作会社から連絡がありました。

『エルム街の悪夢』のモデラーを探していると。
この作品が自分の映画デビュー作となりました。


  • 成田さんがメソッド・スタジオのクルーと一緒に撮影した写真

    メソッド・スタジオのクルーと一緒に撮影した写真

『エルム街の悪夢』の公開初日、ひとりで映画館に観に行ったという成田さん。

メソッド・スタジオからは50人以上のクルーが関わっていましたが、誰の名前がエンドロールで流れるかは公開されるまでわからなかったそうです。

自分の名前を見つけたときは目が霞みましたね。


  • 自分の名前をエンドロールで見つけた

会社を退職した際、「1年以内に何かしらの仕事を得て、5年以内に映画のクレジットに載る」というビジョンを描いていたそうですが、たった1年で早期達成を成し遂げたのでした。

Origin
遠くて手が届かなかったILMに在籍。
力を注いだことが、すべて今につながっている

その後、メソッド・スタジオで『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉』を請け負い、デジタル・ドメインでは『アイアンマン3』でリードモデラーを担当。やりがいと責任ある仕事を任され、成田さんは映画の世界で実績を積み重ねていきました。

しかしその最中、暗雲が立ち込めます。

ちょうど『アイアンマン3』の制作途中でしたが、イギリスやカナダなどが国を挙げてハリウッドのVFXの仕事を格安で受注し始め、米国のほとんどの会社は倒産したり海外に移転したりして映画の仕事がなくなっていったのです。


  • 成田さんのご自宅のデスク

    当時の成田さんのご自宅のデスク

ただ、唯一健在だった会社がありました。1975年にジョージ・ルーカスが設立した「ILM(インダストリアル・ライト&マジック)」です。

難しい仕事だけはILMに残っていて。映画の仕事をするためにCGモデラーになったので、ロンドンやバンクーバーへの移住も考えました。けれど、家族の事情もあり、住み慣れたアメリカを離れられませんでした。

「自分みたいな新人が……」とILMに対して気圧される気持ちはありましたが、背に腹は代えられないとの思いで門を叩いてみたのです。


  • ILMの門を叩いた思いを語る成田さん

結果、中国のテーマパークに設置するアトラクションのCGを制作する仕事を3か月限定で任されることに。「これがラッキーだった」と成田さんは追懐します。

そのときのスーパーバイザーが『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を担当することになっていて、モデラーに選んでもらえました。


2013年、正式にILMに移籍。
映画に魅せられて約40年、遠くて手が届かなかったILMに仲間入りを果たしました。

  • ILMのオフィス

    ILMのオフィスにはオプチカル・プリンターなどの映画に関連する貴重なものがディスプレイされているそう。(左のデス・スターのジオラマは成田さんが趣味で作った作品)

以降、『スター・ウォーズ』シリーズに5本参加。成田さんがモデラーを担当するミレニアム・ファルコンは、2019年2月にCG業界のアカデミー賞「VESアワード」で最優秀モデルにノミネートされるなど、作中でも圧倒的な存在感を放っています。

  • 成田さんがモデラ―を担当したミレニアム・ファルコン

    成田さんがモデラーを担当したミレニアム・ファルコン

これからも映画に携わり続けるのが夢です。CGモデラーを引退した後は、いつか監督をしてみたいですね。


「メイキングを覗けたり、特別な試写会に招待されたり、毎日ワクワクが止まらない」。映画に携わる喜びを語る成田さんは少年のような笑顔を浮かべました。

もっと早くCGモデラーになっておけばよかったとは思いません。

例えば、一度諦めた時期、子どもと一緒にプラモデルを作るのにハマって全米模型コンテストで優勝できたのですが、その経験もモデラーに求められる造形力に寄与しています。

大学でミュージカルに興じたことも、証券会社でエンジニアとして働いたことも、すべてが今につながっています。人生を何倍も楽しませてもらっている感覚ですね。


  • 人生を何倍も楽しませてもらっていると笑顔で話す成田さん

自動車のパンフレットから始まった成田さんのCGモデラー人生。

どこかで腐っていたら、今日の栄光は無かったかもしれません。

「機械のように働くと、同僚からは『マシーン』と呼ばれている」と笑いますが、目の前のことに愚直に力を注いできたからこそ、新しい扉が次々と開いたのでしょう。

  • CGモデラー 成田昌隆さん

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