たった二晩で骨抜きに

夫のオットー氏(仮名)と結婚を決めて数ヶ月経った頃だろうか。ずっと原因不明の体調不良に苛まれていた。朝、起きるのがつらい。世の中すべてがだるい。あらゆる選択や決断が鈍る。ふとした瞬間に泣きたくなる。実際わけもなく涙がこぼれる。夜、一人うとうと眠りに落ちるときだけは心からリラックスできた。しかし、そんな時間は滅多に作れない。

二人で住む新居を探すため、二つの自宅を行き来しながら、あちこちの賃貸物件を内見していた時期だった。平日の日中まで予定をあけて都内を回り、そこからお互いまた仕事へ出かけたり、一緒に帰って夕食を摂ったり。休みの朝は「今日は何する?」という電話で目覚める。会えば終日、二人で過ごす。その前に片付けておくべきことは山ほどあった。

皿を洗っていて遅れる。洗濯物を取り込んでいて遅れる。着ていく服を選んでいて遅れる。ハッと気づいたら時間が過ぎていて遅れる。いつも私が遅刻した。用意周到型のオットー氏は大抵、小一時間前から現地にスタンバイしている。それが心苦しく、近くはない距離をタクシー飛ばして駆けつける。車中、なぜだか涙と胃液がこみ上げる。どうしてこんなに時間の使い方が下手なんだろうと自分を責める。このまま永遠に目的地へ到着しなければいいのにと願う。着けばオットー氏がニコニコ寄ってきて、その笑顔が胸に刺さる。自分も同じ表情を返そうとして、もう何も考えられなくなる。早く帰りたいなどと思ってはいけない、絶対に。

オットー氏によると、その晩の私は「忘れ物を取りにいったん家へ戻る」と告げた後、一時間以上も連絡がつかなくなったのだという。閉店時刻を過ぎてから待ち合わせの店にあらわれた私は顔面蒼白で謝罪を繰り返すばかり、何を話しかけてもずっと上の空だったそうだ。「どうしたの、何がしたいの?」と訊くと、涙声で呻くように「ひとりになりたい……」とつぶやいた。正直、ほとんど記憶にない。週末を一緒に過ごし、約48時間が経過したところだった。

オオカミ生きろ、犬は待て

昔から友達が多いとは言えないタイプだった。通学時間はなるべく本を読みたくて、あるいは好きに途中下車したくて、一緒に帰ろうと誘う同じ沿線の級友を上手にまくところから放課後が始まった。昼休みは寝たフリでやり過ごし、音楽を聴いていなくてもヘッドフォンをしていた。連休は基本的に家で過ごす。あるいは自転車に乗る。そして群集の中を求めて歩く。誰とも一言も話さずに週末を終えると満ち足りた気分になる。ひとりぼっちですべてを賄い、自分のためだけに時間を使う、そのことが嬉しい。

もちろん、少ないが友達はいる。たまにはみんなでわいわい騒ぐのも楽しい。けれど土曜の夜に気が置けない親しい人々と集まってさんざん飲んで騒いだら、日曜は一日中、遮光カーテンを引いた薄暗い部屋に引き籠もって十分に「充電」せねばならない。ストレス解消は、毛布にくるまってひたすら眠ること。落ち込んだときも一人で解決したい。慰めや助言を得るにも相応のエネルギーを消耗する。私にはそうした電力がつねに不足していて、他者から注入してもらうことはできない。

一方オットー氏は、何かつらいことがあったとき、人と交わることで癒されるタイプだ。私と同じく友達は限られているが、昔馴染みの親友や行きつけの店と、密度の高い交歓を好む。そしておそろしく無趣味である。用事がないと一日中、海外ドラマのDVDを何話分も観て、「一人でいる時間には耐えられない」と嘆いている。他者に寄り添って生きることを喜び、与えられたミッションを忠実に遂行する仕事に強い。「俺、犬だからなー」が口癖である。待つことは寂しくないけど、待つ相手がいない人生は寂しい、とのこと。

私の生態は犬よりは猫、というより、ナマケモノに近い。あるいは、ずっと群れを作らずに生きて死にたいと願う一匹狼。「ペアを組もうよ、わんわんわん!」と誘われて番いになってみたものの、近縁種だからこそ際立つ違いに戸惑うばかりである。

お部屋探しに大切なこと

先日、ウェブ上で「結婚不適合者」と題された匿名の記事を読んだ。彼氏を作っても月に一度デートすれば満足で、それ以上を求められると「時間が奪われる」と感じてしまう。毎日のようにくだらないメールをやりとりするのがしんどい。趣味の時間がとれないと体調が悪化する。きっとこのまま誰とも結婚できないのだろう、と綴る若い女性の手記だった。

他人事とは思えなかった。孤独を失ったら、私はきっと死ぬ。言うなればこれは「持病」のようなものだ。狭心症患者がニトロを手放せないように、糖尿病患者がインスリン注射を打つように、私が健やかに生きていくためには、「番いの相手」は要らずとも、「一人の時間」は必需品なのだった。そのことを理解してくれる人とでなければ結婚できない。自分の心を偽ってまで他者と関係を保ちたいとは思わない。口で夫にそう伝えるより先に、身体が動かなくなってしまった。

協議の結果、新居には「籠もり部屋」を設けることにした。寝室と居間が一体化した開放的な1LDKをすべて内見候補から外し、同等の面積で、間取りが2LDK以上に仕切られた物件を選ぶ。幸い条件ぴったりの部屋が見つかり、私は5畳半の個室を手に入れた。ルールは単純だ。二人でいるのが精神的につらくなったら、私は「籠もり部屋」のドアを閉める。扉が閉じていればその内側は「一人の時間」で、たとえ配偶者といえども干渉してはならない。ただし、事前に約束した食事の時間は守ること。

この話をすると「うちの夫と同じだ!」と言う友達が結構いた。物理的なシェルターを必要とする人は、なぜか女性より男性に多いようだ。曰く「最初は何に参ってるのかわからなくて、塞ぎ込んでるのを心配してずっと側にいてしまった」「籠もり部屋を作ってあげてからは二人でいても気性が穏やかになった」「部屋では趣味に没頭しているらしい。まったく理解できないけど、無理に知ろうとするよりそっとしておいたほうが夫婦円満」……そう、そうなのよ!

プライベートプラシーボ

もしこれが「あるある~」と頷かれる範疇の笑い話ならば。世の中には「不適合者だけど、結婚した」我々のような男女が、かなりの数、存在していることになる。ビョーキだから健常者のようには生きられない、と諦めるより、騙し騙し「持病」と付き合いながら、生きたいように人生を楽しめばよい。自分の心を偽ることはできないが、自分の病を欺くことなら、できるかもしれない。いつも心に常備薬があれば、病のほうを忘れられる。

実家を出て独立するまで、私は一人の空間を持ったことがなかった。二十歳を過ぎても姉妹で相部屋の二段ベッドを使っていた。静かな読書、耳栓代わりのヘッドフォン、昼寝のフリ、名曲喫茶、雑踏、自転車、どれもシェルターと同じ効果が得られる「偽薬」だ。ずっと一人で生きてきたわけではない。いつも家族と暮らしていたからこそ、孤独の確保に必死だった。一人暮らしが長くて忘れていたけれど、一人の時間とは本来「ある」ものじゃなく「作る」ものだった。新しい家庭を築いても同じことだ。

オットー氏は個室などまったく不要だそうで、陽当たりのよいリビングの一角に仕事机を置いて、何か作業に集中している。独りでいるのが耐えられない、孤独は気が滅入る、と言う彼にも彼なりの「一人の時間」があるのだろう。私にとっては部屋を持つことが「薬」になるように、同じリビングの片隅で別の誰か、たとえば私がのんびりテレビを観ていることが彼にとっての「薬」になるのなら、お易い御用である。

ちなみに「籠もり部屋」のルールには例外が一つあって、洗濯機が止まったときだけは問答無用でドアをこじ開け注意喚起することになっている。濡れた洗濯物が夜まで槽内に放置されたことがあり、すっかり忘れていた私が部屋から出てきて大激怒、のち猛省したからだ。以来、どんなに忙しそうでも干すべき洗濯物があるときだけは「孤独」を中断す……いや、待て待てオットー氏、次からは機転を利かせてそっと一人で干しておいてくれてもいいのよ!?

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。主な生息地はTwitter。2012年まで老舗出版社に勤務、婦人雑誌や文芸書の編集に携わる。同人サークル「久谷女子」メンバーでもあり、紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。「cakes」にて『ハジの多い人生』連載中。CX系『とくダネ!』コメンテーターとして出演中。2013年春に結婚。

イラスト: 安海