貴様には十年早い(法律的な意味で)

生まれて初めてプロポーズを受けたのは7歳の夏だった。母と妹と三人で、父親の単身赴任先であるタイのバンコクを訪ねたときのことだ。

父のクライアントに招待された夕食の席で、食後、配膳を仕切っていた若い給仕長が我々の会話に加わって私の傍らに跪き、流暢な英語を片言の日本語に切り替えて、「美しいお嬢さん、どうか日本に帰らないで、ここで僕のオヨメサンになってください」と言った。すっかり驚いた私は、顔を真っ赤にして部屋から飛び出し、廊下を走って洗面所まで逃げた。

おそらくは父への「接待」の一環だったのだろう。上等なレストランの宴会個室で、スーツ姿の重役たちに、奥様もお嬢様もお美しいだの何だのさんざんお世辞を言われた後、デザートとともにダメ押しの座興。期待通りの初々しい反応に、場は大いに盛り上がった。帰途、子煩悩の父親はすっかりデレデレで、母親は、まだ幼い女児を笑い物にしたオッサンどもに憤慨していた。妹は疲れて寝てしまい、私は眠れなかった。

まっすぐに見上げてきた黒い瞳と、白い制服姿が今も忘れられない。たとえセクハラ紛いの座興であろうとも、私にとってそれは、初恋よりファーストキスより早く訪れた、初めてのプロポーズだったのだ。

男が女に跪いて求婚する。まるで映画のような出来事が、まさか我が身に起こるなんて。とてもよく憶えている。私は、拒絶するためにその場から逃げたのではない。日中に観光した寺院にも見劣りしない金ピカの洗面所で、「どうやって受けるか」をぐるぐる悩んでいた。

今ここで彼の申し出に応じたら、明日にでも婚約だろうか。移住して二学期から現地の学校へ転校し、この国で一緒に暮らすのか。英語に加えてタイ語も勉強しなければ、花婿とろくに会話もできない。年齢差や文化の違いは障壁になるだろうか。親戚にはなんと挨拶すればいいだろう。何歳から法律婚できるのか。せめて大学卒業くらいまでは養ってもらわないと。それより早く子供を産めと言われるかな。どんな苗字になるのだろう、そうか、まずは彼の名前を訊かなくちゃ。

思えば、「結婚と恋愛はイコールで繋がれるものではない」と最初に教えてくれたのも彼だ。両親の仲睦まじい姿を見て育ち、運命の出会いと燃えるような恋愛だけが男女に結婚をもたらすのだと思っていた。しかし恋心が芽生えるより先に、いきなり「結婚するか、しないか」の選択を迫られることだってある。

人生が自分一人のものでなくなる瞬間は唐突にやってくる。これは7歳の私にとって大きなカルチャーショックだった。32歳の私にとっても。

失敗は成功のマザー

憤慨した母親にそそくさと引き離され、人生初の求婚者には返事を伝える暇もなかった。次こそは自分の意志で、もっとちゃんとリアクションするぞ! もしもイイヒト見つけたら、自分からだってプロポーズしちゃうぞ!……と幼心に誓ったものである。

ところが求婚というやつは、やってみると案外難しい。かつて私も恋人たちに、結婚を望んでいる旨やんわり伝えたりしたことならあるけれど、遠回しな物言いをいくら重ねても、なかなか真摯に向き合ってもらえない。しくじるたびに、あの男を思い出した。跪いて、ちゃんと目を見て、絶対の確信をもって言わないとダメよね。映画みたいに、彼みたいに。

なかなかその機会が持てぬままフッたりフラれたりを繰り返し、人生二度目のハッキリしたプロポーズも、受け身に回ることとなった。仕事仲間と食事をした帰り道、「君のことが好きなので、人生のパートナーにもなってくれませんか」というようなことを言われた。跪かれはしなかったものの、ちゃんと目を見て、直截に。

またもや突然の申し出だったが、私だって当年32歳、いつまでも7歳児のままではない。「あ、はい、そうですか……そうでしたか……」と意味不明の相槌を打ちながらも、道端なので洗面所へも逃げられず、その場で検討を開始した。

仕事はどうなる、衣食住は、年齢や信教や文化の違いは、互いの家族は、法律婚の有無は、出産や育児は……。もろもろ不安は尽きぬものの、心配はほとんどない相手だ。「自分一人でも生きて死ねるように」設計してきた現在の生活を大きく揺るがすほどのデメリットも感じない。7歳の頃に比べたらずいぶん大人になって余裕ができたもんなぁ、と、至極当然のことに感心しながら、新たな疑問がわき上がる。

我々二人に残された時間はあとどのくらいあるだろう。私はそのうち、どれだけを手放しで彼に差し出せるだろう。もう働けないと言われたら、彼の分まで私が稼げるだろうか。子供が欲しいと言われたら、産み育てる努力ができるだろうか。目の前で彼が死にかけていたら自分の命と引き換えにしてでも助けようと思えるか。私と結婚することで、彼は自分で思っているほど幸福になれるのか。他の誰かと一緒になる以上の幸福を、私は彼に与えてやれるのか。私はこの申し出に見合う相手なのだろうか。

7歳の自分はなんと子供だったことか、と、また至極当然のことを思った。バンコクの給仕長、あの男が何を与えてくれるかばかり考えていた。自分が失いそうなものは何か、犠牲に見合う権益はあるか、ほとんどが損得勘定で、私一人の身に起こる変化のことにしか考えが及んでいなかった。

今は違う。跪く彼が与えたものを、私が奪い尽くすような関係ではいけないと思う。マイナスの我慢ではなくプラスの相乗効果を重ねて高め合える関係でなければと思う。「結婚」とは、個と個が結びついて、二人で営むものなのだから。

二週間ほど猶予をもらって考え続け、「失うものを最小限にしよう」「愛は気長に育もう」「つねに対等であるよう努めよう」と話し合い、まずは結婚を前提に交際することが決まり、舌の根も乾かぬうちに即、やっぱり早いとこ結婚しようという話になった。

みなさんのおかげです

おそらく私は、自分で自分に人生の伴侶をもたらすことはできなかっただろう。独身時代、結婚するしないの選択にやたらと肩肘張っていた原因も、結婚後、弾みをつけて転がっていく新婚生活にしみじみおぼえる棚ボタ感も、根は同じこと。つまりは他力本願なのだ。誰でもよかった……とまで言うつもりはないけれど、もし7歳時点で私自身の心の準備が万端であれば、跪くあの男の白い制服の肩に手を置いて、そちらの申し出に応じていた可能性は十分にある。

夫のオットー氏(仮名)は今でも「プロポーズするの、すごく緊張してドキドキしたんだからね~!」と言い続けていて、その心拍数の高まりが、現在に至るまでの家庭内恋愛気分を高めているご様子。一方の私は「いやぁ、二度目にして初めてプロポーズを受けてみて、腹が据わったというか、不安定だった情緒がずいぶん穏やかになったよなー」と逆方向へ喜んでおり、残念ながらその手の吊り橋効果はゼロである。

我々二人が結婚できたのは、オットー氏のおかげ。「結婚してよかったなぁ」「夫のことが好きだなぁ」と思うたび、私の人生にそれをもたらしてくれた、オットー氏に感謝する。そして、ずっと他力本願に生きてきた私の心にそれでも少しは準備ができていたとしたら、それはあの、バンコクの給仕長のおかげ。どっちに転んでも「私のおかげ」要素は皆無だが、第一の男に感謝しつつ、彼の分まで、第二の男を幸福にしようと思う。

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。主な生息地はTwitter。2012年まで老舗出版社に勤務、婦人雑誌や文芸書の編集に携わる。同人サークル「久谷女子」メンバーでもあり、紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。「cakes」にて『ハジの多い人生』連載中。CX系『とくダネ!』コメンテーターとして出演中。2013年春に結婚。

イラスト: 安海