昨日やりたかったこと

昨夏、転職の合間を縫って二週間ほどニューヨークへ遊びに行った。ブロードウェイで観劇三昧だった。当日券の行列に並び、立見席から特等席まで一日一公演以上は観た。客電が落ちるとともに始まり幕が閉じれば消えてなくなる「夢」だけにお金を使う毎日は心地良かった。ラブホテルみたいな作りの安宿に連泊し続け、朝食用にベーグルとビスケットを買い込み、夜食は斜向かいのデリ。昼は一日中散歩に費やして公園で手帳に日記を書きスニーカーを履き潰し、サンドイッチやファストな麺物で胃袋を満たした。

何でも好きなことをしていいよ、と言われた二週間を旅先でこんなふうに過ごすのならば、きっとこれこそが私の幸福なのだろう。そのために働いて稼ぐのだ、あるいは、生きるのだ。一日の終わり、小さな島にある大きな街のあちこちで夕暮れを迎えながら摑み取った、その確信から「食」の要素は見事に抜け落ちていた。

ニューヨークはおひとりさま女子が「ちょっといい食事」を楽しむには何かと都合が悪い。松花堂弁当の国に生まれ育った私は、いろんな味をちょっとずつ食べたい、どんなに美味しいものでも満腹になる前に切り上げて他の味も楽しみたいのである。東京の飲食店ならハーフサイズや適量の盛り合わせを都合してくれるが、肉でもピザでもサラダでも「一つの味を延々と食べ続けて腹を満たす」この国で、わざわざ一人でよいレストランに入って一皿頼んで食べきれずに残して帰る、というのは不毛に思えた。

劇場で隣り合わせた老夫婦から「えっ、このラブコメを、パートナーもなしに観にきたの、一人で!?」と驚かれたときには「ええ、好きだからです!」と答えることができたけれど、食に関しては肩肘張ってまで美酒美食を堪能する気は起きなかった。東京でなら牛丼屋やラーメン屋、バーから鮨屋や焼肉屋まで一人で入るこの私が、毎度毎度これだけ尻込みするのだから、げにカップル文化の霊圧とはすさまじい。

今日やりたいこと

今年の秋は、夫婦でニューヨークを訪れた。仕事で何度か来ているが地下鉄すら乗ったことがないという夫のオットー氏(仮名)をあちこち連れ回すと、前回とはまるで景色が違って見えた。最大の驚きは「ツーマンセルだと、見違えるほど食事が楽しい」という点だった。

オットー氏、街歩きの最初にとった行動が本屋を見つけてザガットを買うことだった。一期一会の旅ごはん、絶対にハズレを引いてはなるものか、という意気込みが感じられる。店でも同様に、いくらでもウェイターを待たせて吟味を重ね、前菜二つと軽めのメイン一つ二つを注文し、おすすめ攻撃を黙らせる。メニューを透視しながらつぶやく「このスープが高いのは量が多いだけだから二人で一カップで十分」「それは付け合わせに同じイモが来る確率が高いので別の皿にすべき」「あの店員が言うsmallは信用するな」「鮭は避けろ」といった予言がいちいち的確に当たる。

果たして、一つとして同じ味が被らない取り合わせの複数の皿が並び、日本人サイズ二名分の胃袋がちょうど満たされ、持ち帰るほどでもない量が残り、無駄金も使わず気持ちよく会計ができる程度の食事が、日ごと夜ごと完璧に遂行された。ほとんどオットー氏のメニュー読解力のおかげなのだが、私まで一緒に「賭け」に勝ったかのような快感を味わった。一人旅においてはベットする前から損を恐れて戦意喪失していたのに、二人ならどんなフレンチフライとも戦える!

今までにも二名以上で旅をしたことがないわけではない。しかし食に関しては、多数決で決まったさほど入りたくもない店で、消去法で選んだ食べたくもないメニューを注文し、届いてみれば隣の皿が羨ましいけど分けてくれとも言えない……といった苦い思い出のほうが多い。平時にいくら気心知れた間柄でも遠慮せずにはいられないのが旅の空、そうした小さな我慢や譲歩の積み重ねがまた、私を一人旅へと駆り立てる。

一人旅を愛する者はよく「傍らに同行者がいると旅の時間も見聞の視野も半分以上が塞がれてしまう」と嘆く。しかしながら、二人旅には一人旅では得られないオイシイ恩恵もある。トイレに立つとき荷物を見ていてもらえるし、一方を行列に待機させたまま他方が斥候に出られるし、おかしな土産物を買いそうになれば冷静に止めてもらえるし、オットー氏が地下鉄で居眠りすれば起きて見守ってやれる。そして「今夜は何を食べようかな」と迷うのが楽しみになる。

極限まで無駄を省いて独善的に旅程を詰め込むのも気楽だが、常ならざる時にまったく遠慮せずにすむ二人一組の相手とのコンビネーションによってまた別の喜びも生まれる。今回の二人旅では、お品書きをひらくとともに始まり箸を置けば消えてなくなる「夢」を堪能した。きっとこれも私の新しい幸福なのだろう。もちろん話題の新作ミュージカルもちゃっかり数本観ましたし。

明日やれたらいいこと

旅先の料理店で二人同時にメニューを閉じながら「We'll share everything.」と言うたび、妹の言葉を思い出していた。結婚相手を初めて引き合わせたとき、三名それぞれのメイン皿が到着した途端「一口食べます?」と自分のフィレ肉をいそいそ切り分けはじめたオットー氏を見て、「ごはんがシェアできる人でよかったね、お姉ちゃん……」と、しみじみ言ったのだ。たしかに、ごはんをシェアできない人とは結婚はできない。

いかな個人主義の私といえど、三人で入った店においしそうなランチメニューが三つあれば三種頼んでシェアすべきだと考える。空気を読まずに「俺は俺」と一人で一皿平らげる男は論外である。だが、駅弁など自己完結性の高い食事でまで他人の手元へ箸を伸ばしてくる輩も受け付けない。相手が女だからというだけの理由であらゆる食事代を全額支払おうとする男もいけすかないし、「なんでもいいとか言ってないで君も食べたいもの考えなよ!」と店選びから逆ギレする奴にも萎える。そんなことくらいで嫌いにはならないけれど、そんなことから食い違うようでは、好きになるのも難しい。

そう考えると、我々は食の相性がよいと思う。どの店に入って何をどう注文して分けて食べ、どちらが支払うか決めるまでの掛け合いに阿吽の呼吸を感じる。二人とも何でも食べるし、自炊への情熱が薄く外食がちで、といって贅沢な料理には興味がない。オットー氏は店の看板メニューやスタンダードな味が好きで、駄飯で腹一杯になることを嫌う。私は期間限定メニューやゲテモノが好きで、残すくらいなら無理して食べてしまう。だけど決定的に舌がズレているわけでもない。互いの好物を譲り合いながら、自分では選ばない皿を半分ずつ試してみるのはよい刺激になる。

今年の夏、挙式と披露宴を省略する代わりに、結婚パーティーを二回開催した。一度目は友人の発案で、共通の知人や親しい人々を集めた賑やかなもの。二度目は二人の家族だけを招いた10人規模のささやかな食事会だ。高砂も祝電もお色直しも要らないので、大きなテーブル一つを囲んでごはんが食べられるようにと思った。

食事会の最中、貸衣装のドレスを着て血の滴るステーキを頬張りながら、「あー、お葬式もこんなふうだったらいいなー」と思っていた。もちろん死んでからの私のことは私のことであって私のことではないので、今からつべこべ言うものではないのだけれど。そんな目で見ると、お子様メニューの甥っ子やソフトドリンクを飲んでいる姪っ子が老親以上に頼もしい存在と思える。

死の報せを受けてご無沙汰していた人たちが駆けつけてくれる賑やかな葬儀が終わったら、一緒に暮らしたことのある身内だけが一つテーブルで静かにごはんを囲むような、そんな弔いがよい。気心の知れた友人たちはそれぞれに好きなものを好きなだけ飲み食いし、家族の間にはいそいそ切り分けられた骨肉の皿がぐるぐる回る。「一つの味を延々と食べ続けて腹を満たす」くらいなら「We'll share everything.」が好きだから、いつか私がこの世からいなくなっても、その営みが続いていけばよいと思うのだ。

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。主な生息地はTwitter。2012年まで老舗出版社に勤務、婦人雑誌や文芸書の編集に携わる。同人サークル「久谷女子」メンバーでもあり、紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。「cakes」にて『ハジの多い人生』連載中。CX系『とくダネ!』コメンテーターとして出演中。2013年春に結婚。

イラスト: 安海