1991(平成3)年の信楽高原鐵道列車衝突事故の遺族を発起人として誕生した「鉄道安全推進会議」(TASK)が6月23日に解散した。1993年に設立され、26年間の活動期間だった。鉄道事故の再発を防止するため、国に航空機事故並みの事故調査機関の設置を求める活動を行ってきた。願いが叶い、2001年に航空・鉄道事故調査委員会(後の運輸安全委員会)が発足。その後は他の遺族会とも連携を深め、さらなる安全を願ってきた。

  • 信楽高原鐵道のラッピング列車「SHINOBI-TRAIN」(写真:マイナビニュース)

    信楽高原鐵道のラッピング列車「SHINOBI-TRAIN」(SKR310形)

鉄道に限らず、あらゆる乗り物の安全は事故と対策の積み重ねで確立されてきた。鉄道では、車両火災事故を教訓に木造車体から金属製車体へ更新された。隣の車両に移動できる貫通路も、車両火災で逃げ遅れ、焼死した犠牲が教訓になっている。車社会でも、事故の多い交差点には信号機や横断歩道が設置されている。対症療法だけでなく、過去の事故の教訓から危険性を予測し、設備が取り付けられる。

単純な原因の事故なら改善も簡単だ。ただし、単純な事故が減ったとしても、事故はゼロにならない。技術の進歩とその過信、安全装置の使い方を間違えるなど、複雑な要因で事故は起きる。しかし、かつての鉄道事業者と監督官庁である国の対応は、「責任者を処分し、遺族に金銭的な補償をする」という旧態依然の状況だった。

処分や補償も必要なことではある。けれども事故原因の核心が解明されなければ、また同じ事故が起きてしまう。そのたびに責任者をクビにして、金銭で解決し続けるのか。この悪しき循環を断ち切るべく、鉄道安全推進会議が発足した。責任や補償を追求する遺族会とは別に、原因の究明と改善を求め、将来の事故を防ごうという運動だった。

■わずか12ページの報告書に失望

鉄道安全推進会議が設立されるきっかけとなった信楽高原鐵道列車衝突事故は、1991年5月14日に発生。単線の信楽線内で、信楽発貴生川行の上り列車と、JR京都駅から直通してきた信楽行の下り列車が正面衝突した。原因は貴生川行の列車の出発が遅れ、列車同士のすれ違い場所である信号場に到着していないにもかかわらず、信楽行の列車が信号場を発車してしまったこと。別の見方として、信楽行の列車がすれ違い場所で待機している状態を確認せずに、貴生川行の列車を発車させた。

  • 信楽高原鐵道列車衝突事故の概略図

こう書けば単純だけど、実際は複雑だ。背景として、信号システムがたびたび故障を起こし、そのつど人手による代用信号を使っていたという。信号システムに関して、運用する上で不便だとして、国に届け出ずに勝手に改造していたことも指摘されている。当日は信楽町でイベントが開催されていた。JR線から直通列車が乗り入れ、JRの運転士も交替せずに乗り入れたけれども、信楽高原鐵道での信号システムや無線システムを熟知していなかった。

そもそも、すれ違い場所となる信号場も、イベントの増発を見越して急造で設置され、運用訓練が不足していた。当然ながらトラブルの対応についても具体的な取り決めがなかった。他にも、信楽高原鐵道が慢性的な人員不足で増発と信号故障の両方に対応しきれなかった、すれ違い場所で信号の故障を駅に知らせようとしても、地上に設置された無線機箱の扉に鍵がかかっていて使えなかった……など、機材や手順などに不具合が多数あったという。

これらは後の調査で明らかになったけれども、事故の翌年、1992年に運輸省(当時)がまとめた報告書は本文がわずか12ページだった。こうした役所の報告書では、前段で「JR西日本とは」「信楽高原鐵道とは」などという「基本的事項の確認」が綴られる。核心部分のページ数はもっと少なかっただろう。責任者の所在を示しただけの報告書が「事故の終結宣言」という役割だけなら、今後の事故防止につながるはずがない。

■独自に海外の事例を視察、国に提言

1993年に発足した鉄道安全推進会議のメンバーは、独自に海外の事例を視察した。朝日新聞の2019年6月23日付の記事「遺族の声、国の仕組み変える 信楽事故遺族の団体が解散」によると、「アメリカやイギリス、オランダの調査機関を視察。組織体制や調査の仕組みを調べ、本やシンポジウムを通じて国内に紹介した。運輸大臣や国会議員と面会し、調査機関の必要性を訴えた」という。シンポジウム開催にあたって、1985(昭和60)年に発生した日航機墜落事故の遺族とも連携した。

それはどれほど辛い行動だったろう。メンバーのほとんどが遺族だ。筆者が当事者だったとすれば、補償金をもらい、十分な供養をしたところで、事故については忘れて穏やかに暮らしたいと考えたかもしれない。なにか行動を起こせば、それはいつも悲しみを思い起こさせる。事故の記憶に立ち向かうには、強い信念と正義の心が必要になる。それができただろうか。

日本の事故調査組織としては、戦後の1949(昭和24)年に海難審判庁が発足している。この組織の歴史は古く、明治時代の農商務省の商務局管船課までさかのぼる。海の事故を調査、審判する部署で、開国時代の日本では国際的にも必要な組織だった。

次に発足した事故調査組織は航空事故調査委員会である。1971(昭和46)年7月3日に東亜国内航空のYS-11型「ばんだい号」が墜落。同年7月30日には、全日空機と自衛隊訓練機が空中衝突し、全日空機が空中分解して乗員乗客162名が死亡する雫石事故が起きた。連続した事故を受けて、1カ月後に国の中央交通安全対策会議は「訓練機と空路の分離」など緊急対策を定めた。そして事故原因の科学的調査、安全性の向上、関係機関に勧告する組織として、1974年に航空事故調査委員会が発足した。

鉄道安全推進会議は、鉄道においても海難審判庁や航空事故調査委員会と同様の組織を国に設置するように活動してきた。そんな中、2000(平成12)年3月8日、営団地下鉄(現・東京メトロ)日比谷線中目黒脱線衝突事故が起きる。地下区間から中目黒駅に進入する直前の急カーブで最後部の車両が脱線し、対向線路側にはみ出したところへ、反対方向から進行する電車の側面をえぐるように衝突。死者5名を出した。

2001年、鉄道安全推進会議の会長(当時)、臼井和男氏が参議院で意見を述べた。これがきっかけとなり、航空事故調査委員会に鉄道の調査組織を加える形で航空・鉄道事故調査委員会が発足した。その後、2005年4月に発生したJR西日本福知山線脱線事故を教訓に「運輸安全一括法」が可決。事故調査の業務範囲の拡大、体制と機能が強化された。

神戸新聞の2019年3月6日付の記事「信楽事故遺族組織『TASK』6月解散 鉄道安全訴え25年」では、福知山線脱線事故において遺族と鉄道安全推進会議(TASK)のメンバーが国交省に対して被害者支援の充実を申し入れ、2012年に同省に公共交通事故被害者支援室ができたことが記されている。

2008年10月、航空・鉄道事故調査委員会と海難審判庁の原因究明部門を統合し、運輸安全委員会が発足した。原因に関係する機関だけでなく、関係者に直接勧告できる権限を持ち、独自に事務局員の任免と規則の制定ができるなど、公正中立のために独立性と権限が強化された。また、従来は警察などによる調査結果は非公開となる案件が多かったけれども、委員会は被害者への情報提供も実施できる。

こうして、事故に対して利害関係によらず、原因の調査、究明、事故を防ぐための勧告をできる組織ができた。日本は欧米並みの「事故調査、安全先進国」となった。

2011年、中国で高速鉄道の衝突脱線事故が発生。原因究明が満足に行われないまま、事故車体が埋められた。原因が解明されなければ対策もなされない。同じ事故が起きるおそれはある。一方、日本には運輸安全委員会がある。事故が起きても、新たに安全策が作られる。自動運転など新たな技術が登場しつつある現在、新たな事故がないとはいえない。しかし、これまでに残された教訓と、未来に警鐘を鳴らす組織がある。

鉄道安全推進会議の解散方針は2019年3月に報じられていた。京都新聞の3月7日付の記事「信楽高原鉄道事故遺族ら設立『鉄道安全推進会議』解散へ」によると、「重大な鉄道事故の原因究明に関する法律や調査のあり方の転換に役割を果たし、被害者の立場から公共交通の安全に大きく貢献してきた」とした上で、「一定の役割を果たした」とのこと。まさしくその通り。遺族も減少する中、「信楽高原鐵道事故の慰霊祭参加が主な活動」だったという。

慰霊祭は毎年5月14日に事故慰霊碑前で行われる。神戸新聞の5月14日付の記事「信楽鉄道事故28年 追悼法要に遺族参列は1人、高齢化進む」によると、鉄道安全推進会議の共同代表、下村誠治氏は「遺族間のネットワークを引き継いだ活動」を続けたいとのこと。JR西日本と信楽高原鐵道は「来年以降も法要を続ける」としている。

「鉄道安全推進会議」の活動によって、その後の多くの事故は「教訓」へと昇華できた。彼らの活動によって防止された事故もたくさんあったはず。悲しみを乗り越え、私たち交通利用者の安全を願い、行動してくださった人々に、心から感謝したい。