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初恋、結婚、就職、出産、閉経、死別……。
人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。
そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について
気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。
「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。
誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、
女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。
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おでかけしましょ

BBCドラマ『SHERLOCK/シャーロック』でアイリーン・アドラーがシャーロックに繰り返し送るメッセージの「お食事しましょ」は、「Let's have dinner」。これだけ聞けば他愛ないが、縷々綿々と続くメールの一つは頭に「I’m not hungry」とつき、それが単なる食事の誘いではないことを窺わせる。「お腹すいてないの。お食事しましょ」。こんなふうに間接的かつ直接的なメッセージを送れたら、どんなにいいか。

とはいえ、即座に文意を汲んで「やれやれ、物欲しげな女だ」とニヤニヤされるくらいなら、「空腹じゃないのに食事? ははは、君、おかしいねぇ」と一笑に付す男のほうが、よっぽど好もしい気もする。私自身そういうところがあるから、そう思う。「食事をするのが目的ではない食事をしましょう」。世の中にはそんな誘い文句があふれていて、しかし、気づかない人はまったく気づかない。「食事以外に目的があるのなら、最初からそう言っておいてくれよ!」と憤慨することだってある。いや、私だが。

大学時代のある日、先輩にごはんをおごってもらった帰り道、「今夜のこれは、僕としてはデートのつもりなので、最後だけでも、手をつなごう」と言われた。この強引な物言いに不覚にもときめいて惚れてしまったのだが、同時に落ち込みもした。誕生日が近いからメシでもおごってやるよ、と言われて、わーいわーいと普段着でついてきて、ちょっといいレストランでたらふく食って、最寄駅に着いて別れる直前まで、私はそれをデートと認識していなかったのだ。

ときめいて、落ち込んで、次におぼえたのは「だったら最初っからそう言ってくれればいいのに。デートだとわかってたら、もっとちゃんと、もう少し、デートのつもりで来たのに!」という、やり場のない憤りだった。とくに何が変わるわけでもないが、両者の間に「私たちは今、ただの食事でなく、デートをしている」という情報が共有されれば、少なくとも双方向性は生じる。あと、私がもっと甘酸っぱい気持ちにひたれる。そういう大事なことは事前申告してくれないと。だって、ごはんだけなら、誰とだって食べるわけだし。

若い心、はずむ今宵、囁くは

「初めてのデートは、いつでしたか?」という質問に、だから私は答えを見出せない。初恋ならば、一人でするものだから、好き勝手に定義できる。ファーストキスというのも、行為の定義が明確だから、思い当たる節はまぁ、一つか二つしかない。それに比べて「デート」なる言葉の曖昧さたるや……。件の先輩とデートらしきものをしたのは大学一年生のときだったと思うが、それが「特別」というよりは、それまでの人生18年、身近にほとんど男性がいなかったからに過ぎない。

長すぎる女子校生活を終えた私は、当時とにかく男性との接触に飢えていた。それは「モテたい」とは少し異なる、もっとプリミティブな気持ちだ。人類は男と女が約半数ずつのはずなのに、小中高12年間、我々は明らかに本来のバランスを欠いた状態にあった。カバンの中で片方に寄ってしまった弁当箱の中身をトントン叩いて元に戻すように、私はたくさん男友達を作った。すぐ隣に歳近い異性がいて、姿形も育った環境も私とはずいぶん違うけれど、話しかければ言葉が通じ、気が合えば親しくもなれる。そのことに静かに感動した。見知らぬ男子学生たちと円滑にコミュニケーションが取れると、外国人と気軽に交流する国際人にでもなった気分だった。

異文化接触には齟齬もつきものである。みるみる増えた異性の友達はほとんどが彼女持ちで、彼らの恋愛相談を聞いてやる代わりに私は、「そういうのやめたほうがいいよ、男はすぐ勘違いするからさぁ」といった教育的指導を受け、さまざまな身の処し方を学んだ。色気の有無にかかわらず、当時の私はあらゆる意味で無防備だった。

そうか、今後は男性と二人きりで何かを致すというシチュエーションも増えるのだな。と気づいてからが、また厄介だ。デートには、デートにふさわしい服装がある。あの日、先輩から二人きりで食事に誘われ、一昨日と同じジーンズを洗わずに穿いてきたのは、おそらく失策だったろう。バイト先の同僚に「あんたさ、接客業でスッピンはヤバいでしょ」と言われるのと同じことだ、明日から気をつけよう、二度と同じ過ちは犯すまい。私はもはや、男と女の両方がいる世界の住人だ。わかる、わかるぞ、間違っているのはわかる。だがしかし、「正解」が、わからない。

ずっと欲しかったポケベルの代わりに、大学生協の店先で初めての携帯電話を買った。もっとずっと欲しかったノート型パソコンも購入した。厚み3センチ超、月賦で30万円くらいだったが、当時の最高スペックだ。試験に受かり、バイト代を得て、望むものがどんどん手に入る喜びをかみしめていた。一方で、まったき自由が与えられているのに、望むものが何かすらわからないジャンルもあった。「欲しい服を買う、着たい服を着る」の範疇を超え、「デートに誘われたら、それにふさわしい服装を用意して臨む」というのは、その典型事例だった。

誰のために着飾るのか、何のために自分をよく見せるのか、そのために、どこにどうカネを使うのか。すべての選択はつながっていて、歯車が一つ足りなくても、思うように動かない。目の前のチャンスに無自覚で、到達したいゴールも不明瞭で、旗色も鮮明にせず、それで「言ってくれなきゃわからない!」もないもんだよな……と、今になれば思う。

すべてお膳立てされて手に持たされた弁当箱の片寄りを、自分ではない別の誰かのせいにしていいのは、せいぜい18歳くらいまでだろう。制服のスカートを脱いだら、次はどんな服が着たいのか、着るべきなのか、好かれたくてやることも、嫌われたくなくてすることも、自分で選んで、決めないと。恋愛がうまくいかない原因を自分以外の誰か何かに探すより、まずは胸に手を当てて考えてみることだ。

盛り上がってきた、エイエイオー

もうちょっとだけ大人になった今は、「デート」そのものが楽しい。憎からず思っている相手と二人きりで会うことが決まると、私はいつも「わーい、デートしよう、デートだー!」とはしゃぐ。たとえ相手が女性など、恋愛対象外の相手であっても。ただの待ち合わせを「デート」と呼ぶのは、そのほうが気分が上がるからだ。お食事しましょ、お茶しましょ。会うことそれ自体が目的ではない、なんでもない待ち合わせ。お互いたった一人の相手のために、予定を調整したり、店を選んだり、歩調を揃えたり、今のこの時間をちゃんと喜んでくれているか必死で心を読もうとしたり。そんなことが、くたびれつつも楽しいのである。逆に言えば、その楽しささえあれば、相手は何も恋人でなくともよい。そう感じるようになった。

二人きりの外出に誘われる。私はすかさず「お、もしかして、デートですね?」と切り返す。「そうそう、デート、デート~!」と楽しそうに応える相手の姿を見て、うん、この人はやっぱり親しいだけあって、私と非常によく似た気質で、そしてやっぱり私のこと、何とも思っていないよね、と確かめる。同性の友達と、職場の同僚と、社会的地位のうんと高い人と、あるいは小さな子供と、カギカッコ付きの「デート」宣言を重ねていくと、「わーい、デートだ、わーい」と笑い合えばそれだけ、会うほどにお互いが恋愛感情から遠ざかっていく。

下心つきの「初めてのデート」なら、こんなふうには誘わない。お礼がしたいとか、お祝いがしたいとか、ちょっと用事があるのでついでに声を掛けたらいつの間にか参加者が二人きりになっちゃってとか、何か理由をつけて相手を呼び出す。誘われたほうも誘われたほうで、「ねえ、これって、もしかして、そうなの……かな?」などとは到底言い出せず、何も訊けずに終わることもしばしばである。

恋愛の射程距離にばっちりおさまったまま、三度、四度とこうしたことが繰り返されると、モヤモヤが頂点に達して泡とはじけ、五度目には私のほうから、こう切り出している。「次は私が店を選ぶから、また一緒にごはん食べようよ。わーいわーい、デートだー!」……うん、そうだね、デートだね、と応じられたらそこで、始まる前から恋愛が終わる。デートはデート、恋は恋。「んもー、事前に言ってくれればいいのに!」と頬染めていた若き日の私は、どこにもいない。

最寄駅のホームに向かう階段を十数段のぼる間だけ手をつなぎ、改札のところでほどいた手をひらひら振って別れた。あの晩の出来事は今でもたまに思い出す。いつだって大切なのは、タイミングだ。誘う前から明言してしまうと、「デート」それ自体が持つワクワクに、恋愛が負けてしまう。といって、言わずにただ逢瀬を重ねていても、それはそれで恋愛に発展しない。「会っている最中に、これはデートであると強引に宣言してしまう」のは、なかなかいい手法だったのではないかと、今は思う。もちろん、まったく気づかない私に業を煮やして、こいつは鈍感だから口で言わなきゃわからないな、と気がついた挙句に、仕方なく言ったのだとは思うけど。

ただの最初、されど最初

ところで数年前、一緒にごはんを食べた帰り道、恋人でも何でもない男にいきなり道端でプロポーズされて、それを受けた。もう二年近く一緒に暮らしていて、最近はよく「デート」をしている。ぽっかりお互いの予定が空いた晩に、「じゃあ、デートしようか?」「しよう、デートしよう!」と言い合って食事へ出かけていく。普段着で近所の店へ行って、同じ部屋まで一緒に帰ってくるだけなのだけれども、我々が二人で「これはデートだ」と定義したら、情報が共有され、双方向性が生じて、それは「デート」なのである。

こうした新しい言葉の使い方(誤用とも言う)に慣れてくると、じつはそこにこそ、本質が隠れているような気にさえなる。突き詰めればデートとは、ただ「二人が互いに予定を合わせる」だけのこと。親のいないところで待ち合わせ、他の友達たちとの関係性とは別個に待ち合わせ、そうやって「初めて」の体験を迎える前後、その周辺に渦巻いていたあれやこれやは、単に不慣れだから生じていたことに過ぎないのではないか。その一喜一憂は、かつては楽しかったが、大人になると、正直ちょっと疎ましい。

たとえば『ムーンライズ・キングダム』という映画があって、素晴らしい作品なので敢えて結末部分には触れずにおくけれど、物語の主軸となる二人の少年少女の壮大な駆け落ちは、あれは「デート」と呼ぶのもはばかられるほど、周辺のあれやこれやが多すぎる。一方で、あの幼い恋の冒険活劇が終わってしまったら、もう「デート」ができなくなるかというと、もちろん、そんなはずもない。

「二人が互いに予定を合わせる」それだけで、わけもなくワクワクする気持ちに至るまでには、「初めて」のデートからあれやこれやを削ぎ落とし、紆余曲折、ずいぶん長い時間がかかるものだ。何度も何度も会っているうちに恋心のほうが昇華してしまうことだってあるだろうが、それでこそデート、という気もしなくもない。「初めて」が人生最高の「特別」な体験とは限らない、そんな「節目」なのかもしれない。

<今回の住まい>
山奥にある大学は、東京のはずれにある実家からもギリギリ通えてしまう距離にあったため、入学当初は片道一時間半、往復三時間以上かけて通学していた。キャンパスの近隣には何もなく、向かいに巨大なゴルフ練習場だけがあった。地方出身の学生たちは、その何もないキャンパスの近くに下宿して、何もない学生生活を楽しんでいた。ほぼすべての部屋を同じキャンパスの学生が借りているようなアパートもあり、宴会を訪ねて行くたび「トキワ荘ってこんな感じかな」と思っていた。そしてまた、トキワ荘に通いで来ていた漫画家たちの気持ちにも想いを馳せるようになった。住んでいないからこそ、住人たちの結束を殊更に眩しく思う。

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。

イラスト: 安海