"茶の湯"の所作や心得、教養を学び、また癒しを得ることで、ビジネスパーソンの心の落ち着きと人間力、直観力を高めるためのビジネス茶道の第一人者である水上繭子。本連載では、水上が各界のキーパーソンを茶室に招き、仕事に対する姿勢・考え方について聞いていく。

第7回は、シテ方宝生流能楽師として活躍する佐野弘宜さんにお話を伺った。能の家に生まれ、現在は東京、北陸を中心に活動を行っている佐野さんを通じて、能の特長と魅力、茶の湯との関連性を探りつつ、ビジネスパーソンに通ずる精神などを聞いてみたい。なお、今回は能舞台で佐野氏のお話を伺いたいと考え、茶室ではなくお稽古場にお邪魔した。

  • シテ方宝生流能楽師として活躍する佐野弘宜さん(右)と、聞き手の水上繭子(左)

能の世界から離れつつも能楽師に回帰

先代の宝生宗家と実父・佐野由於氏から稽古を受け、4歳のころには子役として初舞台を踏んだという宝生流能楽師、佐野弘宜さん。幼少期は子役を演じてきたが、大人の役に転ずる声変わりの時期に稽古を一時休止。父の跡を継がず、能以外の将来を考えつつも、しばらくは普通の学生として生活していたそうだ。

「子供のころから能の舞台に立っていましたが、その魅力が分かっていたか?というとなかなかそうではないです。やらされているという意識はどこかにありました。ですが、一度舞台から離れた生活を送ったことで、その良さを再認識できたのです。強制されて能楽師になるのではなく、選択肢を与えられたうえでこの仕事を選びましたので、今も頑張れているというのはあると思いますね」

もともとは音楽の先生になりたかったという佐野さん。能の良さを再認識したのは、高校生の頃だった。きっかけは観客として能を観劇したこと、そして能の見方や演目、自分の演じてきた役の意味を改めて調べなおしたことだったという。「能とはなんと良いものだったのか、これをやめてしまってはもったいない」……そう思いかえした佐野さんは、再び能楽師の道へと進み、現在に至る。

「高校では吹奏楽部でコントラバスをやっていましたし、ピアノや歌、さらにロックバンドもやっていました。現在は能楽師をしていますが、体験授業で小学校や中学校に伺ったりすると、音楽の先生になりたいという夢もちょっとかなったような気分になりますね」

  • 一度能の世界から離れ、再び能の世界に舞い戻ったという佐野さん

能は修飾をそぎ落としたマイナスの芸能

スマートフォンが1台あれば多くの娯楽を楽しめる時代。いかにしてデジタルデバイスのコンテンツにアクセスしてもらうかに尽力しているビジネスパーソンも多いだろう。だが、私たちは部屋にいるだけで新しい情報や刺激が得られる一方で、もっと自らの五感と身体を通して体験する時間を欲しているのではないか。肌触り、声色、音、匂い、気配のような感覚を研ぎすます能や茶道は、そのような求められ方をしていくのではないだろうかと水上は考える。

「能の習いごとは言葉で説明できないことがたくさんありすぎて、それでも僕らの世代は口で説明しようとするんですけど、父の世代からは『やったことを真似しなさい、理屈は自分で考えなさい』と教えられてきたわけです。理屈にできないんでしょうね。体から出る自然なものなので、それは説明するものではないと」

茶道も同じだと思う。おそらくすべてに理由や意味があって合理的にできているのだが、それは教本に書かれるようなものではなく、先生も一つひとつ教えることはない。だが、ある瞬間にふと気づきを得ることがある。これから習う人たちにはこの発見の喜びを知ってほしいと思う。発見の先に学びを深める楽しさがあり、さらには合理・非合理をこえたところに美があるからだ。

  • 能のお稽古のお話には茶の湯との共通点も感じる

「能は、余計な修飾をそぎ落とすことで観客の想像を掻き立てる『マイナスの芸能』です。世の中にはさまざまな芸能や表現があふれていますが、実は能が演劇としては最古です。もっとも古い演劇が一番演技や空間を最低限度まで突き詰めているのはなぜなのか。もちろん、時代背景として満足な舞台装置を用意できなかったのかもしれません。最初は神事的な意味もありましたので、そこから現在の表現に至ったのかもしれません。面白い問いですよね」

能の舞台の真後ろに必ずある「鏡板」と呼ばれる松の絵。これはその昔、神様が舞い降りるとされた春日大社の「影向(ようごう)の松」に向かって能を奉納していた名残だという。そのような成り立ちゆえ、歌舞伎でも、能や狂言から題材をとったものは「松羽目物(まつばめもの)」と呼ばれ、松を背景としているそうだ。

茶道も能楽ももともとは身近な娯楽

「能の発声を謡(うたい)といいますが、朗読劇に近いものがありますね。自分の物語を語ると言っても、全部を動きをつけて語るかというとそうではありません。亡霊がが自分の生きざまをただ座って謡だけで語る場面もあります」

佐野さんはこのように語ったのち、能の魅力を次のように説明する。

「能の演目の多くは、旅人(ワキ)が旅の途中、神々や、武士の亡霊、草木の精霊など、非現実的な存在と出会うものです。その中で、自分の生き様や景色を語る手段が謡であり、旅人はそこに引き込まれていくわけです。そしてご覧になるお客様は、旅人と自分を重ねることで、舞台の一員になることができます」

茶の湯も能楽も“高尚”、“敷居が高い”と感じられる方が多い。だが、茶の湯にしろ能にしろ、日本の古典は生活に根差したものだった。近年は観て楽しむエンターテイメントになってしまっているが、もともとは身近な娯楽だ。みずから体験すれば、むしろ気取らずに楽しめるようになるのではないだろうか。そして、本当の意味での楽しさや意味を知ることができるのではないかと思う。

  • 光栄なことに、能のお稽古も体験させていただいた

戦国武将が好んだ能とビジネスに通ずる理想

能は、とくに戦国武将に好まれた演劇だ。その背景には、争いのなかで死を目の当たりにする生き方が関係してくるだろう。能には勝った武将、敗れた武将の物語が演じられる「修羅物」と呼ばれる演目があり、構成にはある特徴があるという。

「能の場合は現代劇とは逆に、物語の最後に回想シーンが来るんですよ。謎の人物が現れて、誰それのいわれをおじいさんが語るわけです。そして『あなたはいったい誰ですか?』と問うと、『私は実は……』と正体が明かされ消えていきます。そして後半に亡霊の姿で現れ、自分がどうやって死んでいったかを語るのです。このような死生観が、戦国から安土桃山時代を駆け抜けた武将の心情にリンクしたのではないかと思います」

戦国武将が命をかける覚悟で大切なものを守り抜きたいと生きる一所懸命の精神は、ビジネスパーソンにも通ずる理想や手本、心得としてクローズアップされる。ビジネスの舞台で、組織のために、従業員のために、家族のために尽力する姿は、とくに男性的な感覚に強く訴えるものだろう。能で語られる物語は、現代のさまざまな困難を駆け抜けるビジネスパーソンの心にも響くのではないだろうか。

「ビジネスは真剣勝負の場です。私が能を舞う場合も、本番が水ものであることは変わりありません。ビジネスと共通していると思うのは、どんな状況も想定しておかねばならないことでしょうか。ものを考えながら舞っていてはちょっとしたことに対応できなくなるわけです。ですから稽古を何百回と繰り返し、“何も考えなくても舞台ができる”状態を作ります。とにかく何が起こっても対応できる準備、心構えをしておくこと。どんな仕事でも自分を知り、自分をコントロールすることで最大限の力が発揮できるのだと思います」