「翔太が自閉症とはっきり診断されたのは5歳でした」……Fucoママ(渡部房子)の末っ子長男・翔太さんは、1988年6月15日生まれ。療育手帳B、知的障害を伴う自閉症の青年です。言葉の理解は「教えても教えても限界あった」そうですが、現在、翔太さんは地元の一般企業に障碍者枠でパート社員として就職し、19年目を迎えています(2025年10月現在)。

生きるとは、働くとは、幸せとはなにか考えるシリーズ「生きる、働く、ときどき病」。今回はそんな翔太さんの成長記録を、『自閉症の息子が自立して生きる道』(KADOKAWA)よりお届けします。

「ごく普通の赤ちゃん」だと思われていたが、定期健診で発達の問題を指摘された翔ちゃん(第一話)。入学前にもいろいろありましたが(第二話)、小学生となった翔ちゃんの様子は……。

■信号機のない交差点をどう渡る!?

  • 下校訓練で利用した写真カード。通学路を帰る方向から各所で写真に撮り、下に「ここまで帰る」と文字入れ。ラミネート加工して穴を開け、リングでランドセルに(撮影:国貞 誠)/『自閉症の息子が自立して生きる道』(KADOKAWA)より

    下校訓練で利用した写真カード。通学路を帰る方向から各所で写真に撮り、下に「ここまで帰る」と文字入れ。ラミネート加工して穴を開け、リングでランドセルに(撮影:国貞 誠)/『自閉症の息子が自立して生きる道』(KADOKAWA)より

わが家と小学校のちょうど半分くらいの地点に、信号機のない大きな交差点がありました。

登校時は班のみんなと一緒ですが、下校時は翔太ひとりなので、この交差点をクリアするのが難関でした。

1年以上も私と一緒に渡っていたので、渡り方は示していたつもりでしたが、彼は私の動きを見て判断していたようで、自分で判断して渡れるようにはなっていなかったのです。

そこで、まったく車の通りがないときも私は動かずに立っていることにしてみました。すると、彼もじーっと私の横に立っています。

ほかの子たちは「何しよるん?」と言いながら、不思議そうに横断していきます。

それでも私が動かないので、彼も立ったまま。いくら経っても私が動かないので、彼は不思議そうに私を見上げて「帰ろうや」。

彼が動く気になったので、車を確認させて渡りました。

車の確認の仕方には少し悩みました。

横断歩道があっても止まってくれない車もあるので、「車が見えたら渡らない」と教えたほうが無難だと思いました。

すると、たまに止まってくれる車があっても、目の前に車が見えるので息子は渡れないのです。止まってくれた車の人も、彼が渡ろうとしないので困っていました。

でも、「車が見えたら渡らない」「車が止まってくれたら渡る」の2つを同時に理解させるのは、当時の彼には難しかったので、「車が見えたら渡らない」をまず徹底させることに。翔太も「うん。車が渡りませんね」と言っていました。

わかったのかどうか怪しかったので、交差点で2カ月ほどボーッと立つことを続けていましたが、私と一緒にいると、翔太はどうしても自分で見ようとはしません。

用心深いタイプだから、いけるかな。

ある日、彼を信用してチャレンジしてみることにしました。

下校の迎えで合流する地点を、交差点の対面にしてみたのです。

すると私を見つけた彼は左右の確認もしないで、道路を横断して走ってくる体勢をとるではありませんか。

「危ない! 止まって!」

車は一台も通っていませんでしたが、このときばかりは大声で止めました。

彼はハッとして立ち止まり、私を見てニッコリ笑って左右の確認をしました。ずっと向こうから車が来ていると、その車が通り過ぎるまでじっと待っていました。

その後も渡る機会は何度もありましたが、彼は何台も車を見送り、一台も見えなくなると、
「渡りましょう」
私に向かってそう言って、ゆっくりと道路を横断してきました。

「渡りましょう」は、ボーッと立っていた2カ月のあいだに、私が彼に言っていた言葉でした。彼にとってのゴーサインだったのかもしれません。

「ありがとうございました」とも言っていました。

ほかの子どもたちが、止まってくれた車に「ありがとうございました」と言っているのをちゃんと聞いていたようで、彼は注意深く見て学習していたんだなぁと嬉しくなりました。そのとき、翔太の視界に車はいなかったのですが(笑)。

その後も、友だちに促されたり、周囲の動きを見たりして、用心深く横断できるようになりました。

交差点から家に帰る途中に踏切もありましたが、ここには遮断機があったので教えやすかったです。

一度だけ、遮断機が下りかけたときに、その下をくぐり走り抜けた友だちに「翔ちゃん、はよ来い」と言われて身構え、私に止められたことがありました。

すると彼は友だちに向かって「もう! 危ないでしょ」と怒鳴っていました。私と一緒のうちに、そういうハプニングがあってよかったと思います。

彼は何度も「危ない!」を経験しながら、下校の仕方を覚えていき、入学式から1年7カ月かけて自主通学ができるようになりました。