東京駅−神戸駅間を結ぶ東海道本線は、日本屈指の大幹線として知られる。東海道は江戸時代から五街道のひとつとして整備された。そのため、鉄道開業前から東海道は多くの人々が往来し、街道沿いには宿場町が設けられた。各宿場町に寄り添うように茶屋や商店が軒を連ね、たくさんの人出でにぎわった。

一部の区間を除けば、東海道本線の線路は五街道の東海道をなぞるように走っている。明治維新から150年以上が経過し、東海道本線も全通から130年が経とうとしている。人々の暮らしは大きく様変わりし、街並みも当然ながら当時とは大きく異なっている。そうした歳月による変化はあるものの、往時の宿場町の面影を残している町もいくつかある。そのひとつが、静岡県静岡市の興津駅だ。

  • 東海道本線の開通と同時に設置された興津駅は、山と海に挟まれた場所にある

静岡駅から東へ4駅の位置にある興津駅は、1889年に開業した。興津駅から静岡駅寄りに徒歩3分ほどの場所にある清見寺は、徳川家康が幼少期を過ごした寺としても知られる。東海道本線の線路は、この清見寺の境内を横切るように敷かれている。その様子は、放浪画家として名高い山下清も心を奪われた。山下は東海道本線と清見寺の風景をスケッチ画に描いた。

  • かつての宿場町の面影を今に伝える興津宿公園

興津が東海道の宿場町であったことを伝えるモニュメント

清見寺や周辺の住民たちは東海道本線の建設が決まった当時、鉄道がどんなものかを知らなかった。清見寺は社会の役に立つならば~ということで線路用地を提供。そんな経緯から線路が清見寺の境内を横切ることになった。

そうした清見寺や周辺住民の協力もあり、興津に駅が開設された。そして、東海道本線が走り始めると、東京から興津まで約3時間というほどよい距離・時間が奏功し、皇族や政府首脳が静養のために訪れる地になった。

皇太子時代の大正天皇は興津で海水浴を楽しんでいる。興津は避寒地としても人気を博し、侯爵だった井上馨は別邸「長者荘」を構えた。長者荘は興津駅から徒歩20分以上の距離にあり、とても駅近とは言えなかった。

  • 大正天皇が皇太子時代に海水浴に来ていたことを伝える碑

  • 興津宿の脇本陣だった水口屋は、昭和末期に旅館としての営業を終了。現在は鈴与グループ所有のギャラリーになっている

また、興津駅は普通列車しか停車しない。日々の政務に忙殺されていた井上にとって、そうした静かな環境は何事にも変えがたいものだったが、側近たちにとって連絡が取りづらいという悩みの種でもあった。なにしろ、興津駅−東京駅間は約3時間。井上に火急の用があっても、気軽に会いにいくことはできない。また、井上が上京するときも時間がかかってしまう。そうした不便を解消するため、井上のために最急行が興津駅に停車するダイヤが組まれたという。井上が長州閥の有力者でもあったことを示すエピソードといえるだろう。

井上は財界との結びつきが強かった。そのため、汚職の噂が絶えなかった。疑惑の目が向けられることは珍しくなく、維新の立役者でありながらダーティーヒーローとされた。長州閥の実力者で実績も申し分なかった井上だったが、そうした理由もあって遂に総理大臣のイスに座ることは叶わなかった。

  • 井上馨の別邸「長者荘」跡地は、静岡市の埋蔵文化財センターになり、一画には井上馨記念庭園が整備されている

しかし、長者荘で過ごす井上には、そうした中央政界の不人気とは真逆なエピソードが多い。井上が長者荘に滞在しているとき、周辺住民が井上を慕って訪問することが頻繁にあった。また、井上は周辺に住んでいる子供たちを呼び、庭で相撲をとらせるなど和気藹々とした関係を築いていた。相撲で一汗かいた後は、集まった子供たちにお菓子が配られたという。そうしたエピソードから、興津における井上の人気の高さを窺わせる。長者荘の跡地は静岡市埋蔵物文化センターになっており、長者荘を想起させる遺物は残っていない。しかし、清水清見潟公園には井上の銅像が建立されており、井上が地元住民に愛されていたことを実感させる。

  • 周辺住民の憩いの場・清水清見潟公園の一画には、井上馨を顕彰する石像が建立されておる

興津に別荘を構えた、もっとも著名な人物が最後の元老・西園寺公望だ。西園寺は興津宿の脇本陣となっていた水口屋にたびたび逗留。そうした縁から興津を気に入り、坐漁荘を構える。大日本帝国では、首相は元老からの推奏によって選出された。しかし、明治の元老たちは次々に没し、昭和期には西園寺一人しか残っていなかった。実質的に西園寺の指先ひとつで首相が決められる体制になった。そうしたことから、多くの新聞記者が興津駅前の飲食店で待機することになる。

首相が辞任すると、次の首相が誰になるのか? その情報をいち早くキャッチしようとする報道陣が東京から興津へと押し寄せるため、首相交代のムードが漂うと、興津の街は報道陣で大いににぎわった。一線から退いたとはいえ、西園寺を頼りにする政界人・財界人は多かった。特に日中戦争開戦前後の混沌とした時期には、坐漁荘への来客が絶えなかった。そうした来客も興津をにぎやかにさせた。

  • 西園寺公望の別邸「坐漁荘」は新たに復元された建物

井上・西園寺のほかにも、同じく明治期に首相を務めた松方正義や初代総理大臣・伊藤博文の養子となって伊藤家を継いだ伊藤博邦なども興津に別邸を構えている。坐魚荘は老朽化のために、1970年に愛知県の明治村へ移築された。

戦後の興津駅は、特に政治家が利用するような駅ではなかった。興津の街自体も漁村然とし、鉄道の利用者は多くはなかった。そのため、東海道本線の電車は1時間に1~2本しか運行されていなかった。しかし、1984年に島田駅–興津駅間にするがシャトルの運行が開始。これにより、運転本数は飛躍的に増加した。静岡駅を中心とした同区間の利便性は向上し、通勤・通学需要を掘り起こした。

興津は1961年に市町村合併によって清水市に編入され、その清水市も2003年に静岡市と合併した。現在、興津は静岡市の一部になり、街は清水・静岡のベッドタウンという趣を強くしている。

  • 清見寺を横切る東海道本線の電車

小川裕夫

静岡市出身。行政誌編集者を経て、フリーランスライター・カメラマン。取材テーマは、旧内務省・旧鉄道省・総務省が所管する分野。最新刊は『私鉄特急の謎』(イースト新書Q)。