負債総額3兆円 - 「飛ばし」と「簿外債務」が原因

  • 世間を大きく騒がせた「山一證券」破綻の影響とは?

    世間を大きく騒がせた「山一證券」破綻の影響とは?

平成9年(1997年)11月24日、「山一証券」が自主廃業を決定しました。かつてバブル経済を牽引した大手証券会社の経営破綻は、バブル崩壊後の日本経済悪化が「来るところまで来た」ことを示す象徴的な出来事となりました。日本経済は不況の域を超えて金融危機に突入し、「底割れ」の状況となっていったのでした。

バブル崩壊後の株価低迷で証券会社各社は収益が悪化していましたが、それに加えて山一証券の場合は、「飛ばし」と呼ばれる不正な取り引きによって膨大な損失が出ていたにもかかわらず決算に計上せず、数年以上にわたって損失隠しを続けていたことが明らかになっていました。こうした「簿外債務」は国内外合わせて3,000億円を超えていました。一連の不正は当時の会長と社長が行っていたもので、これに関連してこの年の7月には総会屋への利益供与容疑で東京地検特捜部などの強制捜査を受け、翌8月にはその会長と社長が責任を取って辞任していました(この2人は後に総会屋への利益供与や粉飾決算などの容疑で逮捕・起訴され、有罪判決を受けました)。

このため山一の信用不安が広がったことで資金調達が行き詰まり、自主廃業に至ったのでした。負債総額は3兆円。当時としては戦後最大の倒産となりました。約7,500人の社員は路頭に迷うことになり、社会的にも大変な衝撃を与えるニュースとなりました。

自主廃業を発表する11月24日の記者会見で、野沢社長が「私らが悪いのであって、社員は悪くありませんから」と号泣した様子は、平成を振り返るテレビ番組などで今でも時々放送されますが、その言葉はまさに前述のような経緯を物語っていたわけです。その野沢社長は、総会屋事件で会長・社長が辞任した後を受けて急きょ社長に就任した人なのですが、それまでは営業の最前線にいたため、総会屋事件や「飛ばし」などの不正行為に全く関わっていなかったことから後任社長に選ばれたそうです。そのため、社長に就任して初めて会社の深刻な状態を知ったと言われています。

平成9年11月から金融破綻相次ぐ

実はこの年の11月、山一の破綻の前に2つの金融機関の倒産が相次いで起きていました。まず3日、準大手証券会社の三洋証券が3,736億円の負債を抱えて会社更生法の適用を申請し、17日には都市銀行の北海道拓殖銀行が経営破綻し、預金・貸し出しや店舗など営業を同じ北海道の第二地方銀行である北洋銀行などに譲渡すると発表しました。バブル崩壊後、中小金融機関の破綻はいくつか起きていましたが、大手は初めてでした。11月は、まさに金融危機が始まった月だったと言えます。

そして翌年の平成10年(1998年)には、大手銀行の一角だった日本長期信用銀行と日本債券信用銀行が相次いで経営破綻するという事態に発展します。それまでの日本では「大手銀行の経営が破綻する」などということはだれも予想していなかったことで、日本の金融システムそのものが崩壊の危機に直面したと言っても過言ではありませんでした。

  • 金融危機の主な動き

    金融危機の主な動き

この背景には、バブル崩壊による不良債権の増大という問題がありました。バブル時代、多くの銀行は地価の値上がりを見越して土地を担保に多額の不動産向け融資を実行していましたが、バブル崩壊によって借金を返済できない、あるいは返済を延滞する融資先が増えてきました。中には倒産してしまい回収は不可能となった融資先も続出するようになります。こうした不良債権が年々増加していたのです。

当時の報道によれば、北海道拓殖銀行が経営破綻した年の3月末現在の不良債権額は9,349億円で、貸出債権に占める割合は13.4%に達していました。貸したお金のうち13.4%も焦げ付いて返ってこないわけで、これでは銀行経営が行き詰まるのはある意味で当然だったと言わざるを得ませんでした。

金融庁のデータによれば、全国銀行の不良債権額は金融危機が始まる前年の平成8年(1996年)には28兆5,000億円に達していました。ただその頃は、不良債権の明確な定義がまだあいまいだったことや、銀行自身が不良債権の実態公表に消極的だったことなどから、実際にはもっと多いという見方がありました。少し後のことになりますが、「日本の不良債権額は230兆円で、貸出金総額の37%を占める」とのレポートを発表した米国の証券会社もありました。

しかし公表データでも大変な金額に達しているわけで、平成14年(2002年)の不良債権額は43兆円まで増え、貸出金総額に占める不良債権の比率は8.7%まで上昇しています。これは銀行経営を揺るがすのに十分なレベルです。

  • 銀行の不良債権の推移

    銀行の不良債権の推移

なぜ、これほど不良債権が増大したのでしょうか。借金をまともに返せない企業が増加したことを意味しますし、銀行の側から言うと不良債権を損失として処理することを先送りしているうちに、不良債権額が膨らんでしまったというのが実情でした。バブル崩壊が不良債権を生み、それが銀行経営を圧迫するという構図ができあがってしまっていたのでした。バブルに乗って銀行が不動産融資に走ったツケが回ってきたと言っていいでしょう。それがバブル崩壊から7年たって、ついに大手銀行の経営破綻にまで発展したわけです。

大手銀行に公的資金投入、相次ぐ合併・統合

金融危機は深刻な事件を引き起こすことにもなりました。前述の山一証券の総会屋事件は、実は平成9年~10年に証券・金融業界全体に広がった事件です。野村証券や第一勧業銀行なども強制捜査の対象となり、その最中に当時の第一勧銀頭取が自殺する事態となりました。

またその捜査の過程では、大手各銀行の大蔵省担当者が大蔵省幹部を接待していた汚職事件が明るみに出て、接待場所が「ノーパンしゃぶしゃぶ店」だったことから話題を呼びました。平成10年(1998年)に、大蔵省がそれまで一手に握っていた金融行政を分離して金融監督庁(後に現在の金融庁)が発足したのも、この事件がきっかけです。

このほか、経営破綻した北海道拓殖銀行や日本長期信用銀行、日本債券信用銀行の首脳らが粉飾決算や背任などの容疑で逮捕・起訴され、破綻の刑事責任を追及されました。

このような金融危機に対応して危機を乗り切ろうとする動きもようやく出てきました。平成10年(1998年)10月に国会で「金融安定化法」が成立し、金融機関への公的資金投入に道が開かれました。金融システムの崩壊を防ぐには公的資金、つまり国がお金を出して金融機関の資本不足を埋める必要があったのです。国のお金は国民の税金ですから「バブルで儲けた銀行に国民の税金を使うのはけしからん」という反対論もありましたが、個別銀行を救済するためでなく、日本の金融システムを守るのが目的であり、それはやむを得ない措置でした。

この結果、大手銀行にはすべて公的資金が投入され、経営改善に動き出しました。不良債権の処理はなかなか進みませんでしたが、後の小泉内閣の下で平成15年(2003年)頃にはメドがつくようになります。

これと並行して金融危機後の数年間で起きたのが、大手銀行の相次ぐ「合併・統合」でした。どの大手銀行も単独でこの危機を乗り切ることは困難な情勢だったためで、三井住友銀行のように旧財閥の枠を超えた合併や、第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行の3行統合など、従来の常識を越えた再編劇となりました。今では、合併・統合を経験していない大手銀行は一つもありません。これも金融危機がいかに深刻だったかを物語っていると言えます。

  • 大手銀行の経営破綻と合併再編

    大手銀行の経営破綻と合併再編

デフレに突入、日本経済は一段と低迷へ

このように、平成9~10年の金融危機は日本経済にとって大きな節目となりました。金融は経済活動の血液のような存在です。血液がサラサラで、きれいに流れないと体全体の健康に問題が生じるように、金融危機によって実体経済も悪化しました。金融危機に対応して多くの銀行は、少しでもリスクがあると思われる融資は控えるようになります。これは「貸し渋り」と呼ばれました。このため企業の資金繰りが厳しくなって業績が悪化し、倒産する企業も増えました。

しかも折悪しく、金融危機の起きた平成9年(1997年)の4月から、消費税が3%から5%に引き上げられ、消費は冷え込んでいました。これに金融危機が重なる結果となり、バブル崩壊後に悪化していた景気は一段と沈んでいきました。消費者の財布のヒモは堅くなり、スーパーやコンビニなどで値下げが広がりました。

ここから日本経済はデフレに突入していきます。消費者物価指数は平成10年(1998年)の後半から前年比マイナスに転じ、以後、長年にわたって下落基調が続きました。一時的には原油価格上昇の影響(平成20年: 2008年)でプラスとなる時期もありましたが、基本的はアベノミクスが始まる平成25年(2013年)頃まで下落基調が続きました。

  • 消費者物価指数の推移(生鮮食品を除く)

    消費者物価指数の推移(生鮮食品を除く)

物価下落は一見すると消費者にとって喜ばしいことのように思えます。しかし物価下落は、商品を生産する販売する企業にとっては売上高が減ることを意味します。売り上げが減れば利益も減りますから、各企業はそれをカバーするため諸経費や設備投資、そして人件費などを削減します。そうなると需要が減り、ますます物価に下落圧力がかかります。人件費削減は家計収入の減少や雇用不安となり、消費を冷え込ませ、それがまた物価下落につながるという構図が生まれます。

こうしてデフレは経済全体を収縮させることになるのです。デフレに入り込んでしまうと、人々のマインドもあまり前向きでなくなり、経済活動が積極的でなくなる傾向が強まります。このような状況が、まさに日本経済の低迷を長引かせる最大の原因となったものです。

このデフレからの脱却は、平成24年(2012年)に発足した安倍内閣の経済政策=アベノミクスの最大の目標となっています。最近では消費者物価は上昇が続いており、デフレという状況ではなくなっていますが、それでもまだ「デフレ完全脱却」には至っていないのが実情です。その意味では、デフレからの完全脱却宣言をいつできるようになるか、その時こそ、バブル崩壊の長年の経済低迷から決別する時になるでしょう。

執筆者プロフィール: 岡田 晃(おかだ あきら)

1971年慶應義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞入社。記者、編集委員を経て、1991年にテレビ東京に異動。経済部長、テレビ東京アメリカ社長、理事・解説委員長などを歴任。「ワールドビジネスサテライト(WBS)」など数多くの経済番組のコメンテーターやプロデューサーをつとめた。2006年テレビ東京を退職、大阪経済大学客員教授に就任。現在は同大学で教鞭をとりながら経済評論家として活動中。MXテレビ「東京マーケットワイド」に出演。