FXの大相場の数々を目撃してきたマネックス証券、マネックス・ユニバーシティ FX学長の吉田恒氏がお届けする「そうだったのか! FX大相場の真実」。今回はリーマン・ショックの「その後」を解説します。
米国の中央銀行であるFRBが、非伝統的金融緩和策のQE(量的緩和)で資金供給を急拡大に動いた頃から、米国の株価指数であるNYダウは底入れ、反発に向かいました。ただ、未曽有の規模での米ドル資金の供給は、大量の米ドル売りとなり、米ドル安・円高をもたらした可能性があったのです。
「円高過敏」日本を襲った「超円高」再燃
米ドル/円は1990年代半ばにかけて、1米ドル=100円を大きく割り込み、80円まで下落したことがありました。1993年からスタートした民主党のクリントン政権が、東西冷戦終結を受けて、経済不均衡解消に取り組む中で円高容認政策をとったことがきっかけとされました(これはこれでとてもドラマティックで、まだFXが始まる前でしたが、個人的にとても好きな為替大相場ヒストリーの一つなので、別途番外編として書いてみたいと思います)。
1米ドル=100円を超えた円高は「超円高」と呼ばれましたが、リーマン・ショック後の「100年に一度の危機」の中での株安が2009年3月で一段落した後、為替相場は「超円高」が再燃し、さらにその更新、「超・超円高」を試す動きとなっていったのです。
日本は為替相場にとても敏感な国と言われてきました。それは、輸出大国で、貿易黒字大国といった時代が長かった影響が大きかったのでしょうか。長く海外駐在した知人が帰国すると、「外国では、日本みたいに朝昼晩のニュースで、現在の米ドル/円レートは、なんてやらないよ」と話したりします。為替相場に馴染みがある→だからFXが日本で人気となったということは、あるかもしれませんね。
そして為替相場に過敏なお国柄だからこそ、為替相場を気にするあまり、他の政策が後手に回ることも少なくなかった可能性はあります。たとえば、これまでの文脈からすると、円高ならそれをさらに加速させる可能性のある日本の金利引き上げなどできず、経済的に必要かは度外視して円高阻止のための日本の金利引き下げをやったりした可能性があったわけです(将棋でいえば、飛車を可愛がって王将取られ、みたいな感じですね。そんなことも、番外編で紹介しましょう)。
さて、話が随分と遠回りした感じになってしまいましたが、そろそろ元に戻しましょう。そんな円高過敏の日本で「超円高」再燃となったら、それをどう阻止するかといった期待が高まるのは火を見るより明らかなところでした。
ただここまで「リーマン・ショック編」を読んでくれた読者の方からするとおわかりだと思いますが、事の始まりは「100年に一度の危機」から脱出するための米国の大規模な金融緩和を受けた米ドル安であり、円高はその結果の可能性があるわけです。米国も良かれと思ってやっている金融緩和、その結果としての米ドル安・円高。ただし日本は「円高過敏」の国。
このように整理してみると、当時の日本政府、そして通貨当局の財務省などはとても複雑な立場だったような気がします。「しょうがないだろう」とも言えなかったでしょう。というか、本当は言っても良かったのかもしれません。神ならぬ身が「しょうがない」と思ったところで、円高も止まる時には止まるのですから。
ただし、神ならぬ身だからこそ、円高がとても止められそうにないとなると、「これは構造的な円高」、「1米ドル=70円どころか50円になってもおかしくない」などの意見も増えていったのです。この連載を丁寧に読んでくれている読者なら気が付くかもしれませんが、「構造論の説明が出てきたら転換点」、それがこのケースでも結果的には当てはまったのではないでしょうか。