坂本龍馬が刻んだ足跡をたどる

長崎は、初物の街でもある。かつて西洋へ向けてのゲートシティであって、すなわち"端"(エッジ)であったから、日本においてここを発祥とする文物や事象は当然のごとく多い。前回、出島の中に立つバドミントン発祥の地の碑を見た。今回も、日本のエッジとして新しいものを受け入れた街という視点から、長崎を見ていこう。


長崎の"はじめて物語"を語るにあたり、忘れてはならないのがあの坂本龍馬である。坂本龍馬というと、出身地の土佐(高知)や活躍した京都、江戸はもちろんのこと、ほかには薩摩、神戸……といった地名が浮かんでくることだろう。龍馬好きの方には改めて説明するまでもないけれど、龍馬は実は長崎とも縁が深いのだ。

長崎の運上所の跡。運上所とは開国から幕末期の税関のようなもので、明治に入り1872(明治5)年には長崎税関と改称された。ちなみにこの地は1865(慶応元)年、英国人貿易商トーマス・グラバーが蒸気機関車を日本で初めて走らせた、日本の鉄道発祥の地でもある

実はこの運上所も、龍馬が長崎に足跡を残した場所。1867(慶応3)年、長崎で英国人水兵2名が殺害される「イカルス号事件」が発生し、運上所で裁判が開かれた。この裁判に、龍馬は「才谷梅太郎」の名で立ち会っている

「長崎・龍馬」と二つのキーワードが並べば、浮かんでくるのは「亀山社中」である。亀山社中は土佐藩を脱藩して後の龍馬が中心となって結成した商社であり、日本初の株式会社ともいわれる。

亀山社中は龍馬が1865年に設立した貿易商社的結社である。貿易といって何を扱っていたかというと、銃器・弾薬や軍艦などの斡旋が主であったようだ。設立にあたって薩摩藩の資金援助を受けていることを考えれば、武器や海事関連に携わった意味もおのずから知れてくる。亀山社中は激動の幕末史において、表に立った薩長とはまた異なる役割を果たすことになった。世に名高い「海援隊」は中岡慎太郎の陸援隊と並び称されることもあり、単なる浪士海軍だと考えている人が多いかもしれないが、この亀山社中が母体となって後に結成されたもので、同じく貿易結社としての側面も重要だったといえる。

亀山社中跡を示す碑。門の前に建っている。中の建物は、現在は入ることができない。代わりにといってはなんだが、「亀山社中ば活かす会」によって近所に「亀山社中資料展示場」が開設されている

坂本龍馬は、やはり海の人である。海援隊はいうに及ばずだが、勝海舟が推進した幕府の神戸海軍操練所にも関わり、さらには有名な船中八策のエピソードもある(史実として龍馬が携わったかどうかはともかく)。海の人ということは、あの時代、世界の人でもあったということだ。そんな龍馬にとって、開国以前は世界に向けた唯一の窓であった長崎は、世界に通じる特別な街であったのかもしれない。

坂の町の丘の上から世界を見つめる

亀山社中は長崎市の中心部に比較的近い場所にある。だから直線距離でいえば、歩いてもなんてことのない距離である。ただし、ごく簡単にアクセスできるかというと……実はそうもいえない。なぜかといえば、長崎は坂の町、そして亀山社中も坂を上っていった丘の途中にあるからだ。

長崎の町から亀山社中へ向かう道順は、このように手製の案内板でガイドされている。これまで無数の龍馬ファンが、この案内板を頼りに坂を上っていったに違いない

市街地からのルートとしては大きく二つある。一つは観光地として有名な眼鏡橋に近い寺町から上っていくルート。禅林寺と深崇寺の間からスタートする「龍馬通り」という道がそれだ。歴史観光散策ルートとして整備され、亀山社中跡を通ってさらに上ると、長崎の海と町を一望にできる風頭(かざがしら)公園まで通ずる。この公園には龍馬像も建っている。もう一つは路面電車の「新大工町」電停からのルートで、こちらについては後述する。どちらのルートを通っても、坂を上っていくことは避けられない。たとえば夏の暑い陽射しのもとでは、けっこうこたえる。ともに所要は10分前後。ただしこれは健脚具合に依存することはいうまでもない。前者の龍馬通りルートのほうがいくらか近いかもしれない。

今回、僕がたどったのは新大工町電停からの道。電停から歩道橋を渡り、川を越えると、くねくねと住宅地の間を縫う道となり、やがて若宮稲荷神社の入り口あたりから上り階段に。ハッキリ言って観光ルートといえないような日常生活の道だけれど、それでも電停の近くから角々に「亀山社中跡」という看板と矢印が設けられているので、ほとんど迷うことなく坂を上って亀山社中跡までたどり着くことができた。

亀山社中跡のすぐ手前、視界が開け長崎の町を見下ろせる爽快な丘の上に、「龍馬のぶーつ像」というモニュメントがつくられている。西洋へ向けた日本のエッジに立ち、世界を見つめる龍馬の想いに、ここに立てばあなたも共感を覚えられるかもしれない。

1995年、亀山社中創設130年を記念し「活かす会」によってつくられた「龍馬のぶーつ像」。龍馬は「日本で最初にぶーつをはいた」男といわれているらしい

新大工町電停から亀山社中跡へ上る道筋に現れる、若宮稲荷神社参道の階段と鳥居群。訪れた日、階段脇の木で近所の子どもがセミを捕っていた。坂の町・長崎のディープな素の姿に触れられる一帯だ

こうして苦労して上った急坂の上に、かつて亀山社中があった。その建物は2年前まで内部が公開されていたが、2006年3月で閉館となり、現在は外から眺めることができるのみ。門の中に入ることもできない。この地でできることといえば、門の前に立っている「亀山社中の跡」の碑を写真に収めることと、あとは建物が面する道にたたずんで、龍馬の昔に思いを馳せることくらいだ。

しかしながら、当時龍馬がいたという場所に実際にいるだけでも、なんだか楽しく感じるのだから不思議なもの。龍馬の時代は、150年近い時間が過ぎているとはいえ、実は案外身近な時代なのかもしれない。まあ、本人たちの写真が残っているという事情はもちろん大きいのだけれど。

とはいえ、単なる気分だけでなく、龍馬にまつわる資料を見たいという人もいることだろう。亀山社中跡の公開が停止されて以降、少々歩いたところに「亀山社中資料展示場」という施設がつくられた。かつて亀山社中跡で展示されていた資料や当時の写真などがあるので、興味がある方はそちらにも足を伸ばしてみることをおすすめする。

亀山社中跡から寺町方面へ下りていく「龍馬通り」。写真でもわかるかと思うがかなりの急坂である。この辺りは道幅が狭い急な坂道ばかりで、実際に生活している人々の苦労も想像できる

龍馬通りには、龍馬にまつわるメッセージ風の川柳(?)や、龍馬関連人物のガイド板などが立っている。歴史散策ルートとしてもおもしろい道だ

というわけで、今回は龍馬と長崎とのつながりを象徴する亀山社中を中心に見てきた。このほかにも、エッジ都市・長崎には日本初のものが数多くある。最後にそれらのいくつかを取り上げていこう。

また、写真では紹介しきれなかったが、長崎市には「国際電信発祥の地」「日本最初の罐詰製造の地」「我が国最初の気球飛揚の地」などもあることを追記しておく。なお、「写真」についても日本では長崎が最初という説があるが、これには横浜発祥などの異説もあり、定かではないようだ。残念。

(上)龍馬通りを下りきった辺りは寺町と呼ばれる界隈で、文字どおり寺が数多くある。有名な眼鏡橋までも10分かからない道のりだ(右)屋台とおばちゃんおばあちゃんたちのマッチングが素敵な長崎名物チリンチリンアイス。シャーベット風のサッパリ感があって、とくに暑い日にはうれしいアイス

長崎名物の食い物といえば?……真っ先に浮かぶのは、ちゃんぽんかカステラかトルコライスか。写真は長崎ちゃんぽん発祥の地「四海楼」と、そこのちゃんぽん。おいしい。けれど町中の店と比べると値段はやはり高い

四海楼の真ん前に建つ、「わが国ボウリング発祥の地」碑。長崎で発行された日本初の英字新聞に日本初のボウリング場開店の広告が掲載されたことをもって、日本ボウリング発祥の地とされているそうだ。すぐ近くに「ボウリング日本発祥地」という別の碑も建っているが違いは不明

龍馬にも大きな影響を与えたといわれるトーマス・グラバーの旧邸。長崎の観光名所の一つ「グラバー園」に建つ。同園にはほかにも、長崎ちゃんぽん有名チェーンの店名の由来となった英国人実業家フレデリック・リンガー旧宅など、国の重要文化財が建ち並ぶ

長崎は日本における西洋料理発祥の地ともいわれている。グラバー園内には「西洋料理発祥の碑」が建ち、開国当時の西洋料理を再現したオブジェも展示されている

長崎大学医学部キャンパスの壁に「祝 西洋医学教育発祥150年」の文字。長崎は西洋医学発祥の地だが、同時にコレラなど伝染病が初めて日本に流入して悩まされた地だともいわれる

長崎の空の玄関口・長崎空港。大村湾に浮かぶ島を埋め立て、1975(昭和50)年に完成した。いまでこそ海上空港というと関空やセントレアなどいろいろあるが、当時は事情が違う。長崎空港は日本初どころか、世界初の海上空港である

次回は、黒潮に削られる断崖の島・青ヶ島をお送りします。