鴻海が買収決定、しかし契約延期で一波乱?

シャープが台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業に買収されることが決まりました。鴻海は4890億円でシャープの株式の約66%を買い取るとともに、主取引銀行が保有するシャープ株のうち1000億円を買い取るなど、合計6600億円の支援を行います。シャープに対しては、政府と民間企業26社が出資する官民ファンドの産業革新機構も支援策を提案していましたが、シャープの取締役会は最終的に鴻海案受け入れを決定しました。

これでシャープは鴻海の傘下で経営再建をめざすことになります。ただシャープ側の買収受け入れ決定直後に、鴻海は「はっきりさせなければならない内容がある」として買収契約の一時延期を表明しました。最終決着までまだ一波乱あるかもしれません。

今回のニュースで多くの人が関心または疑問に思うのは、(1)シャープはなせ鴻海の傘下入りを決めたのか(2)シャープの技術、日本の技術が海外に流出してしまうのではないか(3)そもそもシャープはなぜ経営危機に陥ったのか(4)これでシャープは経営再建ができるのか――などでしょう。これらについて考えてみましょう。

鴻海とは愛憎半ばする関係?

まず(1)の点ですが、その答えは、鴻海の方が条件が良かったことにつきます。鴻海の出資額は前述の通り6600億円ですが、産業革新機構が示していた支援策では出資額は3000億円でした。出資のほかに2000億円の融資枠を設定するとの案も含まれていましたが、あくまで融資ですし、だれがどのように融資するのかはあいまいです。つまり鴻海が産業革新機構の2倍以上のお金を出してくれるわけで、あまりにも条件が違いすぎました。

しかも鴻海は電子機器の生産受託サービス(FMS)の世界最大手で、売上高15兆円にも上ります。「鴻海」というブランドの最終製品を生産しているわけではないので一般消費者にはなじみが薄いのですが、アップルのiPhoneの生産を受託するなど、世界中の大手電機・ハイテク企業を顧客に持つ超優良企業です。シャープにとっては、鴻海の傘下に入ることで豊富な資金力と幅広いネットワークを活用できるメリットもあります。

実はシャープと鴻海との関係は4年前に始まっていましたが、一時は関係が悪化するなど、いわば愛憎半ばする間柄でした。2012年3月にシャープの経営不振が表面化し、鴻海が約10%分を出資すると合意したのが始まりです。出資額は当時の株価で670億円の予定でしたが、その後シャープの株価が大幅に下落したことから、鴻海は出資比率の拡大を要求、これをシャープ側は拒否したため両社の関係は悪化し、翌2013年3月に鴻海の出資見送りが発表されました。

この時期には、鴻海の郭会長の対応が高圧的としてシャープ側の反発を買ったとも言われています。しかしその一方で、シャープが建設し稼働していた大阪府堺市の大型液晶工場を鴻海との共同出資会社(SDP)に移管し、パートナーとしての関係も続いていました。

シャープと鴻海の関係

こうした経過から、シャープの経営陣の間には鴻海の傘下に入ることには抵抗感もあったといわれており、当初は産業革新機構の方が有利だったのもそれが一因のようです。しかし今年に入って郭会長が支援額を大幅に引き上げ、積極的なプレゼンをしたことで形勢が逆転したのでした。

技術の流出は大丈夫?

しかしここで気になるのが(2)の点です。確かに、シャープのすぐれた技術が鴻海グループのものになるわけですから、技術流出を心配する声が強まることはうなずけるところです。しかし鴻海グループ入りはシャープの経営判断ですから、それを第3者や国が阻止することはできるものではありません。

それに少し突き放した言い方をすれば、すでに堺のSDPの共同運営などを通じてシャープの技術は事実上は流出していると見た方がいいのかもしれません。一般的に言っても、中国や韓国などのライバル企業は日本企業の技術者のスカウトや半導体製造装置メーカーの技術などを通じて、かなりの技術や情報を得ていると見た方がいいでしょう。

いずれにしても新興国の技術水準の向上という流れはもう変えられるものではなく、日本企業はそれをも上回る独自の技術や商品開発が必要と覚悟せざるを得ない時代に入っているのが現実です。逆に言えばそのことが、日本企業がグローバル競争に勝ち残る道なのです。

経営危機の理由 - 液晶の強みがアダとなって弱みに

そしてそれが、(3)の「シャープはなぜ経営危機に陥ったのか」という点にも関係してきます。経営危機の原因としては、あまりにも液晶に偏り過ぎたこと、その液晶事業への設備投資が過大だったことなどが指摘できます。液晶事業はシャープの絶対的な強みでした。それがアダとなったわけです。

液晶以前のブラウン管テレビ時代、実はシャープはブラウン管を自前で生産していなかったため他の電機メーカーからブラウン管を購入してテレビを生産していました。そのため長い間、家電メーカーとして2番手・3番手企業に甘んじていましたが、逆にそうだったからこそブラウン管をいち早く捨てることができて、液晶で世界を席巻するまでになれたのです。

弱みだったことが強みになったのでした。ところが今度は、その強みとなった液晶に頼りすぎたことが経営不振を招いたのですから、皮肉なものです。強みだったことが一転して弱みに変わってしまったのです。「失敗は成功のもと」ということわざがありますが、「成功は失敗のもと」でもあります。

このような急激な環境変化に素早く対応することが必要なのですが、それに立ち遅れるとあっという間に窮地に陥るわけで、これはどの企業にとっても大きな教訓です。

シャープの経営危機が表面化した2012年、当時の会長だった町田勝彦氏にじっくり話を聞く機会がありましたが、「シャープの技術に自信を持ち過ぎていた。すべて自前でやることにこだわり過ぎていた」としみじみ語っていました。町田氏はまさに「液晶のシャープ」を作り上げた人で、「選択と集中」「オンリーワン経営」という言葉も町田氏が言い始めたものです。その人の言葉だけに印象的でした。

町田氏は経営危機の責任を取って2012年に会長を退任しましたが、その後も経営危機から脱することはできませんでした。一時は2014年3月期決算で黒字を回復しましたが、液晶依存から脱却して新しい成長の柱をどのようにして育てるかという明確な戦略を打ち出せないままに終わってしまいました。これが自力再建できなかった原因です。

シャープの"DNA" - 創業者精神に期待

それでは(4)のポイント、今後シャープは再建できるのでしょうか。鴻海の郭会長は強力なリーダーシップの持ち主のようですので、かなりの成果を上げることが予想されます。しかしそれでも本当に再建に成功するかは未知数です。

ここで期待したいのは、シャープが持つ"DNA"です。シャープはその社名の由来となったシャープペンシルに始まり、ラジオ、電卓、電子レンジ、太陽電池、そして液晶など、時代に先がけて数々の技術と商品を開発してきました。そのような技術力の高さとベンチャー精神にあふれた社風が、同社の強みでした。それは創業者の早川徳次にまでさかのぼり、長年にわたって培われてきたものです。

早川徳次については以前この連載で書きましたが(第28回「"どん底"からの復活 - シャープは創業者・早川徳次氏の精神を取り戻せ」)、あらためて簡単にご紹介したいと思います。

創業者・早川徳次の生涯とシャープの歴史

早川徳次は不屈の人でした。1893年(明治26年)に東京・日本橋で生まれましたが、幼少のころに養子に出され、養子先の継母から壮絶な虐待を受けて育ちました。彼は実の両親の顔を知らず、自分が養子であることを知らないまま育ったそうです。8歳の頃、近所の金属加工職人の家に住み込みででっち奉公にあがり、腕を磨いて18歳で独立しました。1912年(大正元年)のことで、シャープはこれを創業の年としています。

その3年後に発明したのがシャープペンシルです。特許を取って輸出にも成功し、大ヒット商品となりました。工場を建設し、従業員200人を超す企業に成長していきました。

ところが1923年(大正12年)の関東大震災で妻と二人の子供を亡くし、自らも瀕死の重傷を負いました。工場も焼失してしまい、すべてを失ったのです。しかしそれでも早川はあきらめませんでした。心機一転、大阪に移り住んで再起を図りました。阿倍野区に小さな家を借り、そこで金属加工の下請け仕事を始めました。その場所が現在のシャープの本社です。

しばらくして、日本でラジオ放送が始まることを知った早川はラジオの試作に取り組みました。当初はラジオや電機の知識はまったくなかったそうですが、1925年(大正14年)にラジオ受信機の製作に成功しました。これが国産初のラジオで、放送開始と同時に爆発的な売れ行きとなりました。こうして今日のシャープの基礎を作り発展していったのです。

早川徳次は1970年(昭和45年)まで社長をつとめましたが、終戦後間もなくの1950年(昭和25年)に倒産の危機に直面したことがあります。この時、早川は苦労の末に危機を乗り切り再建を果たしました。そしてその後、テレビの国産第1号、電子レンジ国産第1号、世界初のオールトランジスタ方式の電子式卓上計算機などを次々と世に送り出していったのでした。

早川のこのような人生を知ると、だれでも勇気づけられるはずです。早川が壮絶な少年時代を耐え、関東大震災ですべてを失っても再起したことを考えれば、今のシャープも苦境を乗り越えられるはずです。鴻海の傘下入りを機に、シャープが創業者精神を取り戻してよみがえることを期待したいものです。

執筆者プロフィール : 岡田 晃(おかだ あきら)

1971年慶應義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞入社。記者、編集委員を経て、1991年にテレビ東京に異動。経済部長、テレビ東京アメリカ社長、理事・解説委員長などを歴任。「ワールドビジネスサテライト(WBS)」など数多くの経済番組のコメンテーターやプロデューサーをつとめた。2006年テレビ東京を退職、大阪経済大学客員教授に就任。現在は同大学で教鞭をとりながら経済評論家として活動中。MXテレビ「東京マーケットワイド」に出演。