教育・福祉・文化など幅広い社会事業活動~約600団体を設立・支援
前号では、渋沢栄一が「合本主義」に基づいて多くの経済人と協力して約500の企業を次々に設立し、日本経済発展の基礎を築いたことを見てきました。
当時の日本にとってどのような産業が必要かをみきわめ、その各産業の中心となる企業を設立していったわけですが、さらに渋沢栄一は企業という枠を超えて幅広い社会事業でも先頭に立って活動してきました。そのために設立または支援した団体・組織は約600にものぼります。
まず栄一が設立した第一国立銀行を先頭に、各地で銀行が設立されたことから、銀行経営者の団体である択善会を明治10年(1877)に設立しました(後に東京銀行集会所)。これは、現在の全国銀行協会の源流となります。
また各産業界の経営者組織として明治11年(1878)には東京商法会議所(現・東京商工会議所)を設立し、初代会頭に就任しました。いずれも、同じ業界や経済人同士の情報交換や相互協力を図るだけでなく、当時の日本で根強かった「官尊民卑」を打破し民間企業家の地位向上を目指してのことでした。
栄一の社会事業はそれだけにとどまらず、マスコミ、国際親善から教育、福祉、さらには文化などの分野にまで及び、その活動範囲の広さに驚かされます。
このうち、東京養育院はホームレスや孤児、病人など生活困窮者の保護のため明治政府が明治5年(1877)に設立した医療福祉施設(現在の東京都健康長寿医療センター)で、栄一は明治9年(1876)に院長に就任、以後、昭和6年(1931)に亡くなるまで55年間にわたり院長をつとめました。
その間には、東京市議会で養育院廃止論が出たこともありましたが、栄一は論語の教えを引用し「政治は仁を行うことが肝要で、貧窮者を助け貧富の差をなくすことは公益である」と訴え続けました。そのおかげで養育院は廃止されることなく存続し、現在の東京都健康長寿医療センターとなっています。栄一は必ず月に1度は養育院を訪問して、子供たちにお菓子を配り入院者の話を聞いていたそうです。
パリで出会った赤十字と慈善事業
栄一はまた、現在の日本赤十字社の前身である博愛社の設立(明治10年)にも参加しています。これには、パリ万博での経験が大きく影響していました。栄一が幕末の1867年に開催されたパリ万博に幕府代表団の一員として参加したことは前々回に書いた通りですが、この時、欧州で設立されて間もない赤十字の存在を知ったのです。
この時、同万博には幕府とともに出品していた佐賀藩の代表だった佐野常民と知り合いました。「敵味方なく救護するという赤十字こそ近代国家の証」と深く感銘を受けた佐野は、明治10年に西南戦争が起きた際に、その精神を日本でも生かそうと博愛社を設立。佐野は栄一に協力を依頼し、栄一も参加したのでした。博愛社はその後、日本赤十字社に改称し、栄一は現在の理事に当たる常議員に就任するなど支援を続けました。
後年、栄一は「パリに行った時、パリ市民に声をかけられてチャリティバザールを初めて知った……帰国後しばらくしてから慈善事業をするきっかけになった」と述べています。東京養育院や博愛社などはその表れで、栄一の社会事業活動はすでに明治初期から始まっていたわけです。経済活動と社会事業は車の両輪だったことがわかります。
『論語と算盤』で示した「道徳経済合一説」
栄一はただ単に利益を追求するためにやみくもに企業を作ってきたわけではありませんでした。当時の日本が近代化のために必要とするものは何か、いわば社会的要請にこたえるような企業を設立し事業を展開することが、社会に利益をもたらし、企業の持続的発展につながると常に考えていました。つまり「公益と私利」は両立すると考えたのです。
そして「利益追求は仁義道徳に基づくものでなければ永続しない」という信念を持ち、企業人に高い道徳心と企業倫理の確立を求めました。
これを「道徳経済合一説」と言います。
栄一に協力した経済人は皆、彼のこうした思想をよく理解したうえで一緒に仕事していました。つまり、「合本主義」と「道徳経済合一説」は一体のものだったのです。
栄一の講演などの口述記録をまとめた『論語と算盤』から、彼の言葉をいくつか拾ってみましょう。
これは、現在の企業の社会的責任を重視するESG(環境・社会・ガバナンス)やSDGs(持続可能な開発目標)に通じる考え方です。以下、3つの視点から見てみましょう。
現代に通じる3つのポイント~コンプライアンス、SDGs、アフターコロナへの対応
第1は、コンプライアンス(法令順守)とガバナンス(企業統治)の重要性です。現在でも企業の不祥事は絶えませんが、その多くは目先の利益追求を優先したことが原因となっているケースが大半であり、結局、そうした企業は社会からの信頼をなくすことになります。まさに、「正しい道理の富でなければ、その富は永続」しないのです。
第2は、この「永続」という視点が、今日のSDGsに通じるということです。
このSDGsについては特に近年、その重要性が高まっており、国連は地球環境問題や貧困・飢餓克服、ジェンダー平等、経済成長など17の目標を設定して取り組んでいます。
これらの目標実現のためにはコストがかかりますし、短期間で簡単に達成できるものではありません。しかし企業にとっても、SDGsなど社会貢献に取り組んでいくことが求められる時代になっています。むしろ、それによって企業自身も持続的成長を図ることができるということなのです。
ここで、興味深い調査をご紹介しましょう。人材情報のディスコが昨年8月に実施した調査によると、2021年卒の学生が就職先企業を決めた理由で1位となったのが「社会貢献度が高い」との回答だったのです。その割合は30.0%にのぼり、「将来性がある」(28.5%)、「職場の雰囲気がいい」(26.5%)、「給与・待遇が良い」(25.9%)などより高くなっています(いずれも複数回答)。
第3は、アフターコロナへの対応です。現在、テレワークやさまざまなオンライン化が広がり消費者ニーズも変化していますが、それらはコロナ収束後も継続していく構造的な変化です。企業の経済や事業戦略もそれに対応していく必要があります。その対応の成否がアフターコロナ時代の企業の命運を分けると言っても過言ではありません。
栄一は当時の日本にとってどのような産業が必要かを考え、その各産業の中心となる企業を設立していったわけですが、こうした社会の変化、あるいは時代の変化を見きわめたことが、日本経済を発展させたのです。
栄一の言う「国家必要の事業」を今日に当てはめれば、アフターコロナの時代に必要な事業、経済構造の変化への対応と言えるでしょう。
以上、3回にわたって渋沢栄一の残した業績や考え方を見てきました。激動の時代を生き抜いて新しい時代を作った渋沢栄一から、私たちも元気と知恵をもらってコロナ禍を乗り切りましょう。