今回のテーマは「ベランダの作法」である。わが家のベランダは2階にあるが、完全に洗濯ものを干す以外の用途はない、たまにカメムシが死んでいるが、いつのまにか消えているので夫がなんとかしているのだろう。

夫と生活していると「意味が分かると怖い話」の定番中の定番である「井戸の話」を思い出す。ある家の息子が、次々と邪魔になった人間を井戸に捨てるのだが、死体はいつの間にか消えている。そしてある日、息子は母親を殺し、井戸に捨てたが、その死体はいつまでも消えなかった、という話だ。

この話の真意は、「あそこの県警の管轄なら仕方がない」とかそういうことではない。実は、井戸に投げ込まれた死体を処理していたのは母親で、その母親が死んだのだから、死体はいつまでもある、ということである。

誰が考えたか知らないが、よくできた話だ。私にもこういう発想力があれば、今頃もっとマシな生活を送っていたに違いない、と新年早々暗澹たる気持ちになってきた。つまり、夫が死んだら、カメムシの死骸はもちろん、今まで夫が知らぬ内に片付けてくれていたものが、そのままになる、ということである。ある意味、上記の話よりゾッとする。

某漫画で、年老いた父が大病になったことについて、主人公が「母でなくて良かった」と思ってしまうシーンを見た。これは好き嫌いの話ではなく、「何もできない方が残ったらやばい」という意味である。私は確実に、「残ったらやばい」側である。夫より先に死ぬか、今すぐ井戸に投げ捨てられるべきだ。

ともかく、ベランダは洗濯を干したり入れたりする以外は立ち入らない場所なのだが、1階のウッドデッキにはもっと立ち入らない。わが家にはウッドデッキがある。もちろん、私の提案ではなく、夫の要望でだ。なぜ夫がウッドデッキを所望したかというと簡単だ。「弟の家にあったから」である。

夫には先んじて家を建てたひとつ下の弟がいる。その家にウッドデッキがあるのを見て、「いいね!」と思い、自分の家にも建立した次第だ。その、底抜けの素直さはなんなのだろう。

弟はひとつ下、さらに、自分と同じ企業で働いている。比べられることも多いだろうし、実際、弟の方が給料が多い的なことを気にしていた時もある。そんな、目の上のたんこぶではないが、少なからずライバル心がある相手が先に建てた家にあるものを「いいね! 俺も俺もー!!」となってしまう神経がすごい。むしろ、そのウッドデッキが「いいね!」であればあるほど、「絶対ウッドデッキだけは建てねえ」とならないだろうか。

しかし、そういう対抗心があればいいというわけではない。むしろ、「ウッドデッキよりもっと個性的でオシャレなものを作る」となってしまう方が危険だ。10代の頃、「普通じゃ勝てないから、個性で勝負」と、珍妙な格好をして普通以下になる現象と全く同じである。夫がそういう思想だったら今頃、庭には太陽の塔がそびえ立っていたかもしれない。

そうして建てられたウッドデッキだが、屋根がなかったため、雨が降ると雨ざらしになるということがその後発覚した。当たり前だと思うかもしれないが、住むまで気づけないのが、家というものなのだ。

よって、これも夫の提案で屋根を取り付けたのだが、その工事費はいつの間にか私が折半することになっていた。額は15万。そんな、追い金まで取られたウッドデッキだが、私がそこに行くことはほぼない。それに関しては夫に、「あなたは、庭や家の周りについて興味がなさすぎる」と言われるのだが、逆に介入しない方がいいのではと思う。

新年に実家に行ったのだが、その惨状を見て「レベルが違う」と感じた。私の家は私の部屋だけが桁外れに汚く、他は夫の管理下なので割と片付いている。しかし、実家は「8割私の部屋」と言って過言ではない状態だ。

これは、私に「片付けられない遺伝子」を授けた親父殿が、あらゆる部屋に介入・侵食した結果である。庭はもちろん、自分の部屋以外からもあまり出ない私だが、それは逆に「悪を封印している」状態だ。解き放ってはいけないのである。

筆者プロフィール: カレー沢薫

漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。「やわらかい。課長起田総司」単行本は全3巻発売中。