漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今回のテーマは「後悔」である。

珍しく俺のためにあるようなテーマだと思ったが、よく考えてみれば意外と「後悔」はそんなにない、ということに気づく。

それを考えると太宰治が人間失格の冒頭で後悔ではなく「恥の多い生涯を送ってきました」と書いたのは改めて秀逸であると言える。

後悔というのは「あの時ああしておけば良いことが起こったはず」という、選択肢次第では俺の人生はもっと良いものになっていたに違いないと思える者だけが持てる感情である。

何をどう選んでも結局俺はこうなっていただろうという諦めきった人間には後悔すら贅沢品なのである。

おそらく人間失格の主人公もそんな心持ちだったのではないか。

しかしその状態を「恥の多い生涯」と端的に表現するのはさすがである。

太宰自身もこちらが治を救うべく何回ループしても毎回女と心中してくれそうな信頼感があるので説得力が違う。

よって私も恥は多いが後悔というのはあまりない。

しかし決して「何をしても俺はこうなっている」という諦めではない。むしろ「最善の選択をしたことでこの程度で済んでいる」という、自らの慧眼と幸運に感謝しているぐらいだ。

フィクションの過去改変モノというのは大体「前より良くなる」ことを前提として書かれていることが多いので、こちらも「あの時に戻れればもっと良い人生が送れる」と思い込みがちだが、それは自分を過信しすぎだろう。

むしろ自分のチートにあぐらをかいてさらに努力を怠り「小2まで地元じゃ神童と呼ばれていた」が口癖の前歯がない人になるに決まっている。

ちなみに子どものころ神童と呼ばれる人間は何万といるらしい。

それに人生は何が起こるかわからない、不慮の事故などで突然亡くなってしまうこともある。

つまり、今生きている時点で「死亡フラグは回避できている」ということである。

うっかり過去なんかに戻ってしまったら逆に回避できていた死亡フラグを立ててしまう恐れがあるということだ。

つまり「他の選択肢を選んでいたらもっとひどいことになっていた」と思えば後悔など起こらないのである。

しかし「後悔が多い人生」というのもそんなに悪いものではないのではないかとも思う。

後悔が多いということは、それだけやりたかったことや選びたかった選択肢が多かった人生と言える。

世の中には、ウンコ味のカレーかカレー味のウンコという選択肢しかない人間もいるし、最悪ウンコ味のウンコしかご用意されていない人間も存在するのである。

そういう人間は「どれも選んでもウンコ」なため、後悔という感情も起こらないのである。

後悔しているということは「数ある選択肢の中から自らの意思でわざわざウンコを選んだ」ということであり、最初からウンコ一択だった人より恵まれているし、理不尽でもないと言える。

それに「やれなかった後悔」の中には「今からでもできること」もあるのではないだろうか。

もしそれを今できるのにやっていないのであれば、もし過去に戻れたとしてもやらないと思うので、後悔する必要もないのである。

このように人生における大きな後悔というのはあまりないのだが「3秒前の行動に対する後悔」というのは頻繁に起こる。

何せ不注意なため「3秒前もう少しグラスを右に寄せていれば、俺は今雑巾を持って床にはいつくばっていない」という後悔が非常に多いのである。

しかし、この3秒前の些細な行動に対する後悔も馬鹿にはならない。

進路など大きな選択は大きな後悔につながるが、それはあくまで自分の後悔である。

だが、3秒前一瞬わき見をしたという行為が他人を巻き込んだ大きな後悔になることもある。

どれだけ悔やんでも過去に戻ることはできない。トラック転生にワンチャンかけても、それはトラック運転手側のでかい後悔になる可能性の方が高いのでお勧めはできない。

よって、後悔する時間があったら、今机にあるグラスをもう3センチ安全圏に移動した方がいい。

私ももし時間が戻るなら「もう寒くなったから平気だろう」と出しっぱなしにして腐らせたミートソースを冷蔵庫に入れるが時はもう戻らない。

もし今出しっぱなしにしている食料がある人は今すぐ冷蔵庫に入れにいくべきだ。

さもなくば食材を冷蔵庫に入れずこんな文章を読んでいたことを後悔することになる。

時間は後悔ではなく、今後後悔しないための行動に使うべきなのだ。