漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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また連載の担当が変わった。

私がまだ1人目なのに担当はすでに4人目である。

さっそく新担当から新しいテーマが送られてきたが、「エクセルにただ単語を羅列して送りつける」というやり方は全然良いと思っていないので、それを踏襲する必要は特にない、と最初に言っておく。

そんな、新担当の記念すべき第1回目のテーマは「ライフ・ワーク・バランス」だ。

私がこの言葉を知っていると思って出してきたなら「引き継ぎをちゃんとしていない」ということになるし、知らないのを前提で送ってきたなら「いきなり仕掛けてきた」ということである。

どちらにしても波乱含みのスタートだ。

当然「ライフ・ワーク・バランス」などという言葉は知らないのでググってみたところ、「生活と仕事の調和」だそうだ。

意味としては「国民一人ひとりがやりがいや充実感を持ちながら働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択、実現できる」ということらしい。

仕事にやりがい、などという言葉が出てきた時点で99%の人が解散してしまったと思う。私もナップザックに荷物を詰めているところだ。

確かに、カマドウマにかわいさを見出す人もいるように、仕事に楽しさややりがいを感じている人がいても「法に反していない変態」と同じで、全く問題ではない。

しかしやりがいとか度外視で生活のために働いている人に「やりがいをもって働け」というのはただの押しつけである。

さらにそこから、「やりがいがあれば、お金のことなんてどうでも良いよね」とか「まさか、お賃金大好き! なんて卑猥なこと言わないよね?」という、やりがい搾取に発展しがちなので、日本国民はさらに「仕事にやりがい」という言葉にアレルギー反応を示すようになってしまった。

現在日本には「働かないと食っていけない」という、腐敗したこの世界にふさわしいシステムのせいで、仕事に時間を取られ、生活が疎かになったり、最悪健康を害してしまったりという「ライフ・ワーク・共倒れ」になっている人が多くいる。

そんな現状を打開するため、仕事と生活のバランスを取り、健康で文化的な生活をしていこうというのが「ライフ・ワーク・バランス」だそうだ。

これだけの死傷者を出しているのに何故「仕事」自体やめようという話にならないのだろうか。 ヒグマと共存しようとして食われる人みたいで趣深い。

そのために行われているのが、働き方改革とかなのだろうが、有職者に聞いたところ「定時に無理やり帰らされた俺に変わって俺の仕事をする人がいないので、別の日か家で俺がやるしかない」という当然の理屈で「働き方改革で楽になった」という声はあまり聞かれない。

さらに有給休暇の取得義務ができたことで、盆や正月休みを有給休暇取得扱いにするというやってはならぬことを、我が配偶者がやらされていたと知って、イスから転げ落ちたのも記憶に新しい。

いくら「ライフ・ワーク・バランス」と言っても、組織に所属している限り、個人の努力でバランスは取りづらいのである。

では、私のような無職やフリーランスはバランス取り放題ではないか、というとそんなことはない。 逆に無職は、気を抜くと「ライフ」の方に全振りしてしまうのだ。

「ライフ」というのは主に「睡眠」と「ソシャゲの周回」だ。文字通り私の人生にはそれしかないのだから仕方がない。

会社であれば、眠いと思ってもそうそう寝ないだろう。 だが無職だと「眠いと思った瞬間にはもう寝ている」というプロシュート兄貴状態になってしまうのである。

良い生活に見えるかもしれないが、ライフ全力だと当然お賃金が手に入らず結局ライフが崩壊するという別の角度からの「ライフ・ワーク・ダブルKO」が起こるのである。

よって、日本で「ライフ・ワーク・バランス」を取ろうと思ったら、それが可能なホワイト企業に入るか、布団を燃やし、スマホを土に埋めてでも己を律する無職にならねばならない、ということだ。

会社にいる限り「ライフ・ワーク・バランス」なんて無理だと言っていても、いざ辞めたら「もっと無理だった」ということが判明するだけだったりするのである。

さらに、無職でワークとライフを崩壊させたあとで、社会に戻ろうとしてもすでに「朝起きて決まった時間までに会社に行く」という機能も崩壊しているためそれも「無理」だったりする。

どんな働き方でも今の世で「ライフ・ワーク・バランス」を取るのは至難の業である。 しかし「リスク」に関しては無職側の方が高い気がするので、会社を辞める時はよく考えた方が良い。

いろいろ崩壊させた無職からのアドバイスだ。