
2010年代のヒップホップシーンに鮮烈なインパクトを残したDIYコレクティブ、ブロックハンプトン。その中で、ひときわ異質な存在感を放っていたのがベアーフェイス(Bearface)だ。トラックメイカーとしてサウンドを支える一方、甘美で翳りを帯びた歌声は、グループの音楽に独特の陰影を与えていた。
そのベアーフェイスこと、北アイルランド・ベルファスト出身のキーラン(Ciarán)が、本名を掲げて4年の歳月を費やした初のソロアルバム『Roisin』を完成させた。プリンスやディアンジェロの官能、ジミ・ヘンドリックスの荒々しいギター、UKジャングルの重低音、インディロックの無防備な親密さ──それらが痛いほどに伝わってくる、鮮烈なサウンドだ。異なる時代と文脈を持つ音楽が、互いの輪郭を侵食しながら、ひとつの生々しい感情へと収斂していく。歪みもノイズも、今にも崩れ落ちそうな歌声も。
『Roisin』というタイトルも示唆的だ。アイルランド語で「小さなバラ」を意味するこの女性名は、母親が「もし女の子だったら、Ciara Róisínと名づけていた」と語った名前に由来するそう。自らのルーツを見つめ直すと同時に、現実には与えられなかったもうひとつの名前を作品に託すこと。そこには、ベアーフェイスという名のもとで築いたキャリアをそのまま引き継ぐのでも、単純に本来の自分へ立ち返るのでもない、アイデンティティの複雑な再編集がある。
興味深いのは、かつて世界的な成功を経験した彼が、今や「音楽を作り始める前の自分が夢中になれるアルバム」を生み出すことに価値を見出している点。成功を知ったからこそ、もう一度、音楽に恋をする。キーランに、創作の原点やアイルランドというルーツ、そして成功の先に見つけた新たな音楽との関係について聞いた。
ジャンルを超えて見つけた自由
―ブロックハンプトンでは、シンガー、ギタリスト、プロデューサー、ソングライターと、さまざまな顔を持っていました。個性の異なるメンバーが集まるなかで、自分の役割をどのように捉えていましたか?
キーラン:メンバー全員がいろんなことをやっていたから、俺自身の役割も曲によって違ったし、時間とともに変わっていった。その都度、自分なりに順応しようとしていたと思う。初期の頃はそれぞれの役割がかなり固定されていて、俺も決まったスタイルで歌うことがほとんどだった。だから、自分が歌えそうなトラックがあれば、そこに歌を入れるという感じだったんだ。でも時間が経つにつれて、もっと自分の幅を広げて新しいことにも挑戦するようになった。バンドの中でいろんな役割を担えるように、自分自身も変わっていこうとしていたんだよね。
―そこからソロになって、初めてできるようになったことは何でしょう?
キーラン:今は自分が影響を受けてきた音楽をもっと自由に追求できるようになったし、その世界を思う存分掘り下げられるようになったと思う。ブロックハンプトンでは、それがうまくハマるときもあれば、そうじゃないときもあったから。でも今は、何の制約もないんだ。本当に自分のやりたいことを何でもできる。それがソロになって一番自由を感じるところだね。
―その影響の源について聞かせてください。子どもの頃はローリン・ヒルやドクター・ドレーから、ビョーク、ブルース・スプリングスティーンまで、幅広い音楽に親しんで育ったそうですね。R&Bやラップとの出会いも含めて、音楽の好みはどのように広がっていったのでしょうか?
キーラン:子どもの頃から両親の影響でいろんな音楽に触れていたんだ。特にR&Bやラップに関しては、母親の影響が大きかったと思う。そうやって小さい頃から音楽が好きになって、成長するにつれてどんどん自分で掘り下げるようになっていった。ネットでいろいろ調べたり、新しいCDや雑誌を買ったりして、自分のペースで新しいアーティストや音楽を発見していったんだ。友達から教えてもらうこともあったし、ギターを弾くようになってからはいつも新しい曲を覚えたいと思ってた。そうやって曲を練習するうちに、いろんなアーティストの音楽をさらに深く聴くようになったよ。だから基本的には、そういう積み重ねの中で自然と幅が広がっていった感じかな。
―これまで、特に強く影響を受けてきたアーティストを挙げるとしたら?
キーラン:間違いなくプリンスとディアンジェロだね。それから、ジミ・ヘンドリックスも大好き。子どもの頃に父親が聴かせてくれたアーティストの一人で、ギターを習い始めた頃は、俺にとってギタリストの最高峰といえばジミ・ヘンドリックスだった。ニルヴァーナも子どもの頃から大好きだったね。今ぱっと思いつくのは、そのあたりかな。
―『Róisín』にはR&Bならではの身体的なグルーヴがある一方で、「Galvarino」のような曲には、インディのシンガーソングライター作品に通じる親密さも感じられます。あなたの中では、こうした異なる音楽性がどのようにつながっているのでしょうか。
キーラン:俺の世代やもっと若い世代には特にそういう傾向があると思うけど、少し上の世代にも言えることだし、俺の両親もそうだったように、みんないろんなジャンルの音楽を聴いて育っているんだよね。だから、自分で音楽を作るうえでも、ジャンルの違いをどう捉えるかは、乗り越えなきゃいけない課題だった。以前は、ひとつのアルバムの中でいろんなジャンルを行き来することに不安を感じることもあったよ。でも、自分自身はいろんなスタイルの音楽が好きなのに、作品はこういう音じゃなきゃいけないと決めつけるのはやめようと思ったんだ。むしろ、異なるジャンルを組み合わせたり、そのまま並べたりする方が面白いんじゃないかって。結局のところ、どんなジャンルの音楽を作っても、自分が作る以上は自分らしいサウンドになると思う。それは必ず、そのジャンルに対する自分なりの解釈になるわけだからね。そう考えられるようになるまでには少し時間がかかったけど、今回はそのとき自分が面白いと感じる音楽を自由に作っていけた。そして、最終的にできあがったものを、そのままアルバムにしようと思ったんだ。
―実際の曲作りについても伺いたいです。12歳頃からギターを弾き、その後ビートメイクを始めたそうですが、ギタリストとしての感覚とプロデューサーとしての感覚は、制作の中でそれぞれどう働いていますか?
キーラン:自分の曲を作るときは、たいていギターから始めるんだ。それが俺にとって一番慣れ親しんだやり方だから。特別ギターがうまいとは思ってないけど、やりたいことはある程度形にできるし、曲作りの出発点としては一番しっくりくるんだよね。もちろんプロデュースも大好きだし、いつも楽しんでいるよ。ただ、ギターで曲を書くときとプロデュースするときでは、アプローチが違う。プロダクションの段階では、できあがった曲に実験的な要素を加えたり、どこまで発展させられるか試したりする。でも、曲そのものはたいていギターから生まれるよ。

歪みや不完全さの美学
―今作のギターも、技巧を前面に押し出すというより、音色や響きによって楽曲の空気や感情を変化させているように感じます。曲作りの出発点であることに加えて、ギターの音そのものには、どのような役割を求めていますか?
キーラン:まさにその通りだと思う。俺にとってギターは、曲のアイデアを生み出すための出発点。同時に、ギターの音の質感については、自分なりの好みやこだわりもある。基本的には、コードを鳴らして、メロディを乗せるための土台を作る楽器だと考えているんだ。そもそも俺はそれほどギターがうまいわけじゃないから、できることも限られてる。でも、そうやって曲を作るのが、自分にとっては一番しっくりくるんだよね。
―ギターに限らず、『Róisín』ではドラムの一音一音に至るまで、質感が丁寧に作り込まれているように聴こえます。コードやメロディを組み立てることと、音の手触りを探ることは、どのような順序で進めているのでしょうか?
キーラン:まずはコードやメロディから考えることが多いね。音の質感は、いろいろと実験を重ねる中で生まれてくる。そうして自分の好きなサウンドや手法が見つかったら、次に新しい曲を作るときにも取り入れてみて、その曲に合うかどうか試していく。基本的には、曲を書く作業とプロダクションの作業は分けて考えているんだ。もちろん、両方を同時に進めることもあるけど、たいていはそれぞれ別のアプローチで取り組んでる。
―音の質感には、UKの音楽に特有の湿度のようなものも感じられます。UKの音楽からは、今回どのような影響を受けましたか?
キーラン:ものすごく大きな影響を受けていると思う。このアルバムを作っていた頃は、UKのジャングルをよく聴いていたんだ。特に、コンゴ・ナッティがブラックスターという名前で出したアルバムだったと思うんだけど、その作品にすごくハマっていてね(1995年作『Tribute to Haile Selassie I』)。サンプリングの使い方にも夢中になっていた。それから、テープエコーの使い方も好き。すごくドライなサウンドなのに、そこにテープディレイがかかっているような響きが、ものすごくかっこいいと思う。あとは、あの低音の響きや重さも含めて、そうしたUKの音楽からは今回本当に大きな影響を受けているよ。
―「K-Bar」に代表されるように、このアルバムでは、きれいな音だけでなく少し歪んでいたり、濁っていたり、壊れかけていたりする音も楽曲の魅力につながっていると感じました。あなたにとって「美しい音」とは、必ずしもきれいに整った音を指すわけではないですか?
キーラン:間違いなくそうだね。たとえば、すごく荒々しい曲の中に美しいメロディがあると、それだけで不思議な感覚が生まれることがあるんだ。ギターのフィードバックノイズだって、曲のキーに合っていれば、すごく心地よく響くことがある。それに、ものすごい力強さを感じさせたり、ある種の感情を伝えたりすることもできるんだ。それは怒りでも悲しみでもなくて、なんというか、言葉ではうまく説明できないような感覚なんだよね。
―その感覚は、ボーカルにも通じるように思います。力強く歌い上げる瞬間だけでなく、声がわずかに揺らいだり、今にも壊れそうになったりする瞬間にも、強い感情が宿っている。自分の声が持つ「弱さ」や「不完全さ」を意識することはありますか?
キーラン:もちろん意識しているよ。俺自身が好きな音楽にも、そういう部分がある。録音や演奏が完璧じゃなくても、そこに強い感情が込められている音楽が好きなんだよね。音楽を聴いていて一番心を動かされるのも、そういう瞬間なんだ。だから、自分でもそれを表現してみたかった。
―歌っているときは、自分の感情を解放している感覚と、反対に感情をコントロールしている感覚のどちらが近いのでしょうか。
キーラン:間違いなく、感情を解放する感覚に近いと思う。俺にとって歌うことは、声を通して曲に込められた感情を表現すること。さまざまな感情を伝えるうえで、歌は最も優れた手段のひとつだと思っているよ。
音楽に映し出すルーツとアイデンティティ
―アルバムタイトルの『Róisín』には、どのような思いが込められているのでしょうか。
キーラン:俺は長い間アメリカに住んでいて、周りの誰も自分の名前をちゃんと発音できないと思っていた。だから、ずっと自分の名前で活動することにためらいがあったんだ。本当は以前からそうしたいと思っていたんだけどね。でも、年齢を重ねるにつれて、そんなことを気にしすぎている自分が馬鹿らしくなってきて。なんというか、自分がどうあるべきかを他人に決めさせているような気がしてきたんだよ。それっておかしいよな、と思うようになったということ。そもそも、アイルランドの名前ってすごく美しい。だから今回のアルバムタイトルには、そうした思いを一番強く込めたんだ。
―制作を通じて、自分の育った場所やルーツの見え方は変わりましたか?
キーラン:バンドにいた頃はあくまでも自分はメンバーの一人で、バンドのために、いい曲を作るために活動していたんだ。もちろん、自分らしさがところどころに表れることはあっても、基本的には自分自身が中心にいるわけじゃない。だから、自分がどういう人間なのかをきちんと表現する余地はあまりなかったんだよね。でも、ソロになったことで、自分が育った場所やルーツについてもっと自由に掘り下げられるようになった。それはすごく良かったと思うし、そういう自由を手にできたことが嬉しいよ。特に、長い間故郷を離れて暮らしていると、そこで育った頃には当たり前だと思っていたことも違った視点から見られるようになるんだよね。
―今、アイルランドではさまざまなジャンルの音楽シーンが盛り上がっている印象があります。同時代のアイルランドのアーティストやバンドで、特にシンパシーを感じている人たちはいますか?
キーラン:今のアイルランドには、素晴らしいラップやヒップホップのアーティストがたくさんいるんだ。アンダーグラウンドのラップシーンもかなり盛り上がっていて、面白い動きが生まれているよ。例えば、デストゥリッキー(deathtoricky)というアーティストがいるんだけど、彼はすごくいいね。それから、ベディミナージュ(beddyminaj)も素晴らしいし、確かトラヴィ(Travy)というラッパーもいる。本当にいい音楽がたくさんあるんだ。もちろん、ニーキャップもいるしね。
―実はニーキャップは、つい最近日本に来たんですよ。
キーラン:本当? それはすごいね。
―日本でもすごく人気があるんです。
キーラン:それは嬉しいね。彼らは本当にいい奴らだよ。とにかく、名前を挙げきれないくらいたくさんのアーティストがいる。今のアイルランドからは刺激的な音楽が次々と生まれていて、それを見るのはすごく嬉しい。特に、俺が子どもの頃は、アイルランド出身のアーティストが成功するにはイギリスやアメリカに行かなきゃいけないという考え方があったし。でも、今はもうそうじゃない。アイルランドにいながら活躍している素晴らしいアーティストがたくさんいる。本当にいいことだと思うよ。
―最後に、あなた自身にとっての成功について聞かせてください。ブロックハンプトンは、若さや友情、成功への衝動を感じさせるグループでした。一方、『Róisín』からは、成功を追い求めることよりも、純粋に音楽を作ることへの関心が伝わってきます。あなたにとって、成功の意味は変わりましたか?
キーラン:間違いなく変わったと思う。今の俺にとっては、自分がずっと聴きたいと思っていたアルバムや、音楽を作り始める前の自分が聴いてもきっと夢中になっていたようなアルバムに、どれだけ近づけるかということの方がずっと大事。自分の好きな方向に自由に音楽を発展させていくこと。そして、自分が心からワクワクするような音楽を作るために、常に腕を磨き続けること。それが俺にとって一番大切なことだし、そもそも音楽を作っているのも、ほとんどそのため。もちろん、音楽は仕事でもあるから、ある程度の妥協が必要になることもある。でも、できる限りそういうことは避けたいと思っているし、再生回数や利益のために、作品そのものや、その本質に関わる部分を犠牲にするつもりはまったくないよ。

キーラン
1stアルバム『Róisín(ローシーン)』
2026年11月6日(金)リリース
国内盤CD:3,300円(税込)
解説書、歌詞対訳、ボーナストラック1曲追加収録