ジュディ・シルの知られざる生涯──犯罪、薬物依存、信仰の果てに生まれた永遠の歌

映画『ジュディ・シル 贖罪のシンガーソングライター』が10月23日より日本公開される。虐待に満ちた幼少期を送り、犯罪にも手を染めた末に、1970年代で最も人を惹きつけるシンガー・ソングライターのひとりとなったジュディ・シル(Judee Sill)。2021年初出の本記事では、映画の共同監督であるアンディ・ブラウンとブライアン・リンドストロームをはじめ、劇中にも登場するJ.D.サウザー、グラハム・ナッシュ、リンダ・ロンシュタット、ジャクソン・ブラウンら、彼女を知る人々が、その素顔と才能を証言する。

さらに、アンディ・パートリッジ(XTC)やナタリー・マーリング(ワイズ・ブラッド)など、彼女の音楽に魅了されてきたミュージシャンたちの声も収録。日本にも信望者は多く、草野マサムネ(スピッツ)、坂本美雨、中納良恵(EGO-WRAPPIN)、原田郁子(クラムボン)らが映画に推薦コメントを寄せている。死から45年以上を経た今、世界はようやく彼女を正当に評価する準備ができたのだろうか?

1971年のある夜、J.D.サウザーはデヴィッド・ゲフィンに強く勧められ、メルローズ・アベニューにある小さなクラブへ足を運んだ。「僕はちょうど、ポップ・アーティストの大半はなんて浅薄なんだ、曲作りだってほとんど表面をなぞるだけで、その奥まで踏み込めていない、って愚痴っていたんだ」と、イーグルスの大ヒット曲を何曲も共作したサウザーは笑いながら振り返る。「そしたら彼が、『契約したばかりの女の子を観に行けよ。ジュディ・シルっていうんだ』と言った」

サウザーは客席に座り、アコースティック・ギターを抱えた当時27歳のミュージシャンに目を向けた。長いハニー・ブロンドの髪に、丸いワイヤーフレームの眼鏡。すると客のひとりが、ジュディ・コリンズの「Both Sides Now」をやってくれと声を上げた。「まず、あの曲を書いたのはジュディ・コリンズじゃない。それくらいちゃんと知っておいて」とシルはそっけなく返した。「それに、彼女が歌うのを聴きたいなら、なんでここにいるの?」。サウザーは圧倒された。「すごい。この人とは絶対に知り合わなきゃ、と思ったよ」

1970年代初頭のほんの短い間、ジュディ・シルはロサンゼルスで最も将来を嘱望されたアーティストのひとりだった。彼女は、デヴィッド・ゲフィンがエリオット・ロバーツと立ち上げたアサイラム・レコードと契約した最初期のミュージシャンのひとりだった。同レーベルはのちにイーグルス、リンダ・ロンシュタット、ジャクソン・ブラウンらを擁することで知られるようになる。シルはグラハム・ナッシュのプロデュースを受け、彼女の曲はタートルズ、ホリーズ、キャス・エリオットらにカバーされた。しかし、レーベルメイトたちとは違い、彼女が名声や成功を手にすることはなかった。シンガー・ソングライターの時代が終わると、シルもまた、その時代とともに姿をくらます。そして1979年11月23日、薬物の過剰摂取によって亡くなった。

その後何年もの間、シルは世間からほとんど忘れられた存在だった。希少な廃盤レコードを探し当てたり、インターネットで日本盤CDを買ったりした人々の間で、カルト的に愛されていたにすぎない。しかし21世紀に入る頃、その状況は一変する。死後作品のリリースや数枚の再発盤によって、彼女の音楽が再び聴けるようになったのだ。それ以降、シルへの評価は折に触れて高まってきた。リン=マニュエル・ミランダ(映画『ハミルトン』『モアナと伝説の海』などで知られる作曲家・作詞家・俳優・劇作家)は公にシルのファンだと明かしているし、グレタ・ガーウィグはノア・バームバック監督の映画『グリーンバーグ』でシルの「Theres a Rugged Road」を歌っている。そして現在、長い期間を費やして制作されているドキュメンタリー『ジュディ・シル 贖罪のシンガーソングライター』によって、本格的な再評価の波が訪れるかもしれない。

歌詞にちりばめられた宗教的イメージであれ、バッハの影響を受けた華麗なオーケストレーションであれ、シルには聴き手を引き寄せる神秘的な力がある。彼女のファンで、ただ何となく好きという人はめったにいない。その魅力的で波乱に満ちた人生についてネットで読み始めれば、簡単に深みにはまってしまう。薬物に溺れた10代の頃には酒屋やガソリンスタンドを襲った。少年院ではオルガンを覚え、刑務所にも入った。そこで彼女は、ソングライターになることを夢見ていた。フレディ・マーキュリーでさえ自らのセクシュアリティを公にしていなかった時代に、シルはバイセクシュアルであることをオープンにしていた。交通事故で負傷し、そのひとつには『ホワイト・クリスマス』の俳優ダニー・ケイが関わっていたとも言われている。感謝祭の翌日、自宅のアパートでひとり亡くなった。こうした人生のすべては、彼女の繊細で魅惑的な音楽とはあまりにも鮮烈なコントラストをなしていた。あるいは、その歌こそが混沌とした人生から逃れるための避難所だったのかもしれない。

あの夜、サウザーはシルのステージが終わるのを待った。そしてシルは、トライアンフのバイクで走る彼のあとを車で追い、自宅までついていった。「公園で犬が2匹出会って、『じゃあ、一緒に散歩するか』みたいな感じだった」と彼は振り返る。「ものすごく刺激的で、奇妙な関係へと発展していく、その完璧な始まりだった」

生い立ち──虐待、犯罪、薬物、刑務所で見つけた音楽

ジュディス・リン・シルは1944年10月7日、ロサンゼルスのスタジオ・シティで生まれた。父ミルフォードはパラマウント・ピクチャーズの音響技師だった。シルが幼い頃、一家はオークランドへ移り、父はそこでバーを経営するようになった。シルは幼少期をその店「Buds」で過ごし、ピアノを弾き、歌うことを覚えた。「あのバーは本当に場末の店だった」と、1972年にRolling Stone誌のグローヴァー・ルイスに語っている。この取材は、結果的に彼女を語るうえで最も重要なインタビューとなった。「いつも誰かが喧嘩したり、吐いたりしていたし、違法賭博も行われていた。両親もかなり酒を飲んでいた」

それでも、一家にとっては幸せな時代だった。写真には、シルと兄デニスが笑顔を見せ、誕生日を祝い、自転車に乗る姿が残っている。しかし1952年、のちに続く数々の家族の悲劇の最初のひとつが起きた。父ミルフォードが心不全で亡くなったのだ。母オネタは家族をロサンゼルスへ戻し、『ベティ・ブープ』のアニメーション・シリーズの仕事に就いた。

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1949年のシル一家。母オネタ、ジュディ、父ミルフォード、兄デニス(Courtesy of Donna Disparti)

オネタはその後、『トムとジェリー』のアニメーターだったケン・ミューズと再婚した。ふたりは大酒飲みで、ハリウッドのパーティーに頻繁に出入りしていた。そしてシルに対して暴力的になり、言葉でも身体的にも彼女を虐待した。その頃にはデニスは陸軍に入り、結婚して家を出ていたため、シルは自分ひとりで身を守らなければならなかった。「いつも拳の関節に傷があった」と彼女は語っている。「家ではあまりに激しい喧嘩をするものだから、警察や新聞記者まで来ていた」

デニスの娘ドナ・ディスパルティには、子どもの頃のケン・ミューズについて楽しい思い出もある。だが母親からは、彼の膝の上には絶対に座らないこと、ふたりきりにならないことを言い聞かされていたという。のちにシルは、ミューズから性的虐待を受けていたことをディスパルティに打ち明けた。「私にとっては、お姉さんみたいな存在だった」とディスパルティは言う。「だから、あまり深くは聞かなかった」。ディスパルティは13歳のとき、歯列矯正の診察を終えたあとにミューズを訪ねた際のことも覚えている。「ケンおじいちゃんは別の女性と再婚していました。その女性は指先が2本ほど欠けていたんです。どうしたのか聞いたら、ケンおじいちゃんが酔っぱらって切り落としたと言われました。それで、彼を見る目が変わりました。大人になるにつれて、いろいろなことが分かってきたんです」

オネタとミューズのもとで暮らすうちに、シルは次第に反抗的になっていった。バーミンガム高校を退学になり、私立校へ送られた。彼女はのちに、その学校をルイスに「はみ出し者のための学校」と説明している。シルはビートニクやアウトサイダーたちの間を行き来するような存在だった。「私はいつも、その場で求められているものとは正反対になってしまう人間だった」と彼女は語っている。「ローライダーたちと一緒にいれば知識人ぶるし、知識人たちと一緒にいればローライダーになる」

高校卒業後、シルはシャーマン・オークス出身の男性と衝動的に駆け落ちし、そのまま結婚した。ふたりが戻ると、両家の親がお金を出して婚姻を無効にした。「あの子はさそり座で、すごく大胆だった」とシルは話している。「その後、LSDをやりながらゴムボートでカーン川の急流を下って、死んじゃった」

ロサンゼルス・バレー・カレッジに短期間通ったあと、シルは38口径の拳銃を手に、武装強盗に手を染めるようになった。鏡の前で、酒屋やガソリンスタンドを襲う練習までしていたという。後年になると、その話を友人たちに何でもないことのように語っていた。シルの親友のひとりで、60年代のバンド、アソシエイションの元メンバーでもあるラス・ギゲールは、その話をよく覚えている。「あるとき彼女がこう言ったんだ。『強盗が緊張して、”OK, mothersticker, this is a fuck-up”ってめちゃくちゃに言い間違える古いジョーク(※)、知ってる? あれ、実は私なんだ』って」

※「OK, motherfucker, this is a stick-up(クソ野郎ども、強盗だ)」という常套句を言い間違えたジョークの意

シルは1963年、18歳のときについに逮捕された。『Los Angeles Times』は「若い主婦、強盗・麻薬容疑に直面」との見出しで報じ、「警察が”スリルを求めて”行われた一連の強盗と説明する事件で逮捕された者のひとり」と記している。9年後、シルは当時のことをRolling Stone誌にこう振り返った。「何も感じなくなっていた。どうなっても構わなかった。たぶん、だからあんな強盗をしていたんだと思う。心のどこかでは、何かを大切に思えるようになれって、自分自身に必死で訴えかけていたんじゃないかな」

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1957年頃、ポートレート撮影に臨むジュディ・シル(Courtesy of Donna Disparti)

シルはヴェンチュラの少年院で9カ月を過ごした。そこで教会のオルガン奏者を務め、ゴスペルの歌詞を学び、音楽と美術の教師を手伝った。1964年に出所して間もなく、母オネタがアルコール依存症で亡くなった。ミューズはシルを家から締め出すようになり、彼女が窓から忍び込もうとすると待ち伏せした。シルは友人宅に移り住み、LSDを試すようになった。1年半にわたり、毎日のように服用していた。

1965年、シルはピアニストのボブ・ハリスと出会い、結婚した。やがてヘロイン依存に陥り、偽造小切手や売春で得た金を使って、1日最大20袋分ものヘロインを注射するようになった。シルとハリスは、メキシコで車をヘロインと交換したことさえあった。「何か不純物が混じっていて、全身に発疹が出て、脚なんて風船みたいに腫れ上がった」と彼女はルイスに語っている。「それでも一部はヘロインだったから、打ち続けるしかなかった。私はそれを膣に隠して国境を越えた。雨が降っていて、私は泣いていて、まともに歩くことさえできなかった」

死に至りかねないほどの過剰摂取を経験したあと、シルは1968年2月に再び逮捕された。今度は文書偽造と麻薬関連の罪だった。収容された女性刑務所サイビル・ブランド・インスティテュートでは、その翌年、スーザン・アトキンスが同房者にシャロン・テート殺害への関与を自慢したことが警察への通報につながることになる。シルはそこで、激しい禁断症状に苦しんだ。兄デニスに電話しようとしたところ、そのデニスが同じ月に亡くなっていたことを知らされた。当時まだ9歳だったデニスの娘ディスパルティによれば、父は香港風邪の治療を受けている最中にC型肝炎と膵炎を発症したという。シルはまだ服役中だったため、兄の葬儀に参列することもできなかった。「ふたりは本当に仲が良かった」とディスパルティは言う。「ジュディは父のことを、まるで聖人のように思っていたんです」

刑務所で兄の死を悲しむなか、シルはひとつの啓示を得た。自分はミュージシャンになりたいのだ、と。保護観察付きで出所すると、彼女は曲作りを始めた。むさぼるように読んでいた本、とりわけスピリチュアリティやオカルトに関する書物から着想を得ていた。あるときは、恋人の家の壁に大きく羽ばたく鳥を描き、「これは魔法の鳥なの」と話したという。「あとで誰もいないときに、その鳥のくちばしをこすって、”世界でいちばん偉大なソングライターになれますように”って願った」と彼女はのちに振り返っている。「世界が広いことくらい分かってる。でも、それが私の望みだった」

才能の開花と挫折、アサイラム時代

シルはロサンゼルス各地のクラブに出演するようになり、ハリスがピアノを弾くトリオでベースを担当した。当時は1955年型キャデラックで暮らし、ほかの3人と交代で眠っていた。ある晩、サンセット・ストリップのSherrysで演奏していると、トミー・ペルティエが店に入り、コルネットで飛び入りしてもいいかと尋ねた。ニューオーリンズ出身の若いジャズ・ミュージシャンだったペルティエは、たちまちシルとの間に強い結びつきを感じた。「最初に目に入ったのは、ものすごく魅力的で、力強くベースを弾く女性だった」と彼は振り返る。「僕らの間には、とても強い何かがあるのが分かった。まるでソウルメイト同士が出会ったような感じだった」

休憩時間になると、シルとペルティエはキャデラックの中でキスを交わし、また会う約束をした。ふたりはその後、生涯にわたる友情を築き、ペルティエによれば、恋愛関係も本当の意味では終わることがなかった。「僕の人生で最高の関係だったと思う」と彼は声を詰まらせながら言う。「いわゆる”友達以上恋人未満”みたいな関係だったのかもしれない」。2度目に会ったとき、シルとペルティエは雨のなかグリフィス天文台へ向かった。「誰もいなかった」と彼は振り返る。「僕らは服を脱いで愛し合った。風も何もかもが周囲を吹き抜けていた。普段の僕なら絶対にしないことだよ。でも彼女には、自分では思いもよらないようなことをやらせるところがあった」

この頃までに、シルはいくつもの曲を書き上げていた。瞑想的な「Lopin Along Thru the Cosmos」や、母オネタについて歌ったと噂される「Lady-O」もそのひとつだった。ある日、タートルズのジム・ポンズから電話がかかってきた。シルとハリスがミュージシャンのジョン・ベックの家にマリファナを届けた際に知り合った人物だった。ポンズはシルをBlimp Productions(タートルズが立ち上げた制作・出版会社)の作曲家として週給65ドルで雇った。その後まもなくタートルズが「Lady-O」をカバーし、1969年12月にはBillboard Hot 100で78位を記録した。仮住まいにしていたキャデラックの中で、シルは初めて自分の曲がラジオから流れるのを聴いた。「彼女の曲には、未来的なイメージとスピリチュアルな憧れが、すごく親しみやすい形で溶け合っていた」とポンズは言う。「彼女はそれを、自分がスターへの道を歩み始めた証拠だと受け止めていた」

ある意味では、その通りだった。アソシエイションの元メンバーでもあるラス・ギゲールがシルと知り合ったのは、その少し前、シルが彼のルームメイトで同バンドのメンバーでもあるジュールズ・アレクサンダーと付き合っていた頃のことだった。シルバー・レイクにある彼のアパートのキッチンで、ある朝、ふたりとも裸のまま冷蔵庫からジュースを取り出していて鉢合わせした。その後、ギゲールはバーンズドール・アート・パークで彼女の演奏を聴いた。そして当時、大手タレント・エージェンシーのウィリアム・モリスで働き、まもなくアサイラムを立ち上げようとしていたデヴィッド・ゲフィンに知らせた。ギゲールはゲフィンをトルバドール(1960〜70年代のシンガー・ソングライター文化を象徴する、ロサンゼルスの名門ライブハウス)へ連れていき、月曜恒例のHoot Nightで演奏するシルを観せた。「彼は大興奮だった」とギゲールは振り返る。「『こんなの聴いたことがない』って言うから、僕は『だから言っただろ』と返したんだ」

ゲフィンはシルとアサイラムの契約を結び、サウザーにも彼女に会うよう勧めた。メルローズ・アベニューでのあの夜をきっかけに、ふたりは恋に落ちた。「ほとんど誰も歩いていない細い尾根道を、ふたりきりで歩いているような関係だった」とサウザーは語る。「でも一緒に歩いている間は、ふたりともすごく自信があって、居心地がよかった」。彼は、シルの予測のつかない魅力を今もよく覚えている。あるときは突然彼を叩き起こし、ハリウッド・ブールバードへ連れ出した。そこでは男が写真を撮り、その場でトラックの中でポスターに仕上げていた。シルは口にロリポップをくわえてポーズを取った。それが彼女のお気に入りの撮られ方だった。

別の日の午後、ふたりはシルの家の裏庭にあるデッキに寝転がっていた。すぐ頭上には巨大な蜂の巣があった。刺されるのではないかと不安がるサウザーに、シルは「もう、気にしすぎ」とでも言うようにパーコダン(オピオイド系鎮痛薬)を2錠渡した。そして自分の体には、蜂が好きなように止まるに任せていた。「蜂に話しかけて、”ちっちゃなウンチ顔ちゃん”なんて呼んでたよ」とサウザーは振り返る。「彼女があの家に住んでいた間、刺されなかったのは彼女だけだった」

ふたりの交際は長くは続かなかったが、シルにはその短い生涯を通じて消えることのない深い影響を残した。別れたあと、サウザーはシルと付き合う以前の恋人だったリンダ・ロンシュタットとよりを戻した。「彼女はそれを、かなりつらく受け止めていた」とサウザーは言う。失意のなか、シルは「Jesus Was a Cross Maker」を書いた。サウザーとシルが何度も読んでいたニコス・カザンザキスの小説『最後の誘惑』のイメージを借りながら、自らの打ちのめされた心情を表現した曲だった。サビで彼女は、〈彼は無法者で、人の心を壊す男/Hes a bandit and a heartbreaker〉、そして〈ああ、でもイエスは十字架を作る者だった/Oh, but Jesus was a cross maker〉と歌う。シルはのちに、この曲を自分が書いた最高の曲のひとつに挙げ、完成すると誇らしげにサウザーに聴かせた。「わざわざ僕のところまで来て、これ見よがしに聴かせたんだ」と彼は振り返る。

当時CSN&Yで一躍大スターとなっていたグラハム・ナッシュは「Jesus Was a Cross Maker」を聴き、シングルのプロデュースを引き受けた。「ヒットする可能性があると思った」とナッシュは振り返る。「僕が関わることで、彼女の曲をもっと広い人たちに届けられたと思う。彼女が求めている音にどう近づければいいか、僕にははっきり分かっていた」

シルのセルフタイトルのデビュー・アルバム『Judee Sill』のうち、「Jesus Was a Cross Maker」を除く楽曲は、ジョニ・ミッチェルとの仕事で知られるヘンリー・リューイがプロデュースした。「Jesus Was a Cross Maker」がアルバムの核となる一曲だが、ほかにもシルの宗教的な詞世界を際立たせる名曲が並んでいる。そこに重なるのは、ブライアン・ウィルソンを思わせる甘美なメロディと、カウボーイを想起させるイメージだ。オープニング曲「Crayon Angels」で、彼女は南部訛りを帯びた歌声をアコースティックの繊細な響きに乗せ、〈私が作った魔法の指輪は指を緑色に染めてしまった/神秘の薔薇も枯れてしまった〉と歌う。続けて、〈どうやら現実は見た目どおりじゃないらしい/だから私はここで、真実と、向こう側へ連れていってくれる何かを待っている〉。「本当に、とてつもない作品だと思う」とサウザーは同作について語る。「僕がこれまで聴いたデビュー・アルバムのなかで、おそらく最高だ」

ヘンリー・ディルツ(ドアーズ『Morrison Hotel』のほか、シルと同時代のLAシンガーソングライターを撮影してきた写真家)がアルバムのジャケットを撮影した。ふたりは、トパンガ・キャニオンにあるアート・デザイナー、ゲイリー・バーデンの家で知り合った。かつてニール・ヤングが暮らしていた、居心地のいい木造の家だった。3人はコーヒーを飲み、ハイになりながら過ごした。シルはキッチン脇の柄物のソファに座り、傍らにビーグルを置いてアコースティック・ギターを爪弾いていた。その後、屋外へ出て撮影が行われた。シルは僧衣を思わせる深いブルーのドレスをまとい、首には大きな金の十字架を下げていた。その夜、ディルツは日記にこう記した。「今日はトパンガ・キャニオンでジュディ・シルの写真を撮った。神の介入について、素晴らしい話をたくさんした」

『Judee Sill』は1971年9月に発売された。商業的な成功には結びつかなかったものの、批評家からは高く評価された。Rolling Stone誌のジョン・ランドーは、その年で最も「美しい(prettiest)」レコードのひとつと称し、『The Los Angeles Free Press』のクリス・ヴァン・ネスはシルを「ローラ・ニーロ以来、最も重要で刺激的な新人女性シンガー・ソングライター」と評した。

アルバムのプロモーションのため、シルはその秋、グラハム・ナッシュとデヴィッド・クロスビーの前座としてツアーに出た。ナッシュは彼女のステージに感嘆し、毎晩ステージ袖から見守っていた。「飛行機で移動して、次の公演地まで100マイルくらいなら車で行った」とナッシュは振り返る。「その間、彼女はずっと窓の外を眺めていて、あまり喋らなかった。目に入るものすべてを吸収しているのが分かった。たとえば車で通り過ぎるとき、街角に立つ老人をちらっと見かけたら、それがいつか彼女の曲の一節になるかもしれない、そう思わせるような人だった。あまり多くを語らないから、実際どれほど頭の切れる人なのか、なかなか分からなかった」

ステージでは、シルはよく曲を始める前にその背景を語ったり、自分が「気取った」ロックバンドの前座をしなくて済むよう、アルバムを買ってほしいと乾いた調子で客に頼んだりした。そうした振る舞いを快く思わない批評家もいた。『Chicago Tribune』のリン・ヴァン・メイトレはこう書いている。「私は彼女を6回ほど観ているが、どうしてあれで通用しているのか毎回不思議になる。イエスや救済についての賛美歌めいた小曲の合間に挟まれるコメントは、鎮静剤を大量にやっている末期の単核球症患者のような生気のなさで語られる」

それでもゲフィンはシルに大きな期待を寄せ、何とか聴衆を増やそうとしていた。デトロイトのウェイン州立大学で開かれたラジオ業界のコンベンションに彼女を連れていき、そこで同じく出演していた若きビリー・ジョエルと夕食を共にしたこともある。ジョエルの広報担当サンディー・ギブソンが、シルとジョエルで一緒にツアーをしてはどうかと提案すると、ゲフィンは断った。「デヴィッドは私に、『誰が観に来るんだ?』と言った」とギブソンは振り返る。

当初、シルはゲフィンに心酔しており、『Judee Sill』のジャケットには「David Geffen, I love you」とまで記している。「彼は、輝く鎧をまとった騎士みたいな人だと思っていた」と彼女はルイスに語っている。「でも、彼をあれほど冷徹なビジネスマンにしている別の側面までは分かっていなかった。いつだって付き合いやすい人というわけじゃない。特に、私みたいにイカれた人間にとってはね」

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1971年8月のシル、ヘンリー・ディルツ撮影。「彼女には独特のオーラがあった」と写真家は語る(© Henry Diltz)

ゲフィンは、ビバリー・ヒルズ・ホテルで開かれたワーナー・ブラザースのクリスマス・パーティーにシルを出演させた。シルはトミー・ペルティエと一緒に会場へ向かった。ロールスロイスがずらりと並ぶなか、ペルティエはオーバーヒートして煙を上げるランブラーの鍵を駐車係に預けた。シルの出番の前、ふたりはカーテンの裏に隠れてジョイントを吸った。「足だけがカーテンの下から出ていて、僕らは子どもみたいにクスクス笑ってた」とペルティエは言う。「それがジュディだった。いつだって権威に逆らっていた」

次作となる1973年の『Heart Food』では、シルは再びヘンリー・リューイをプロデューサーに迎えた。「ヘンリーは、魔法が起こるのを邪魔せず、そのまま引き出すタイプだった」と、同作でギターを弾いたレッキング・クルーの名手ルイ・シェルトンは語る。「すべての空気感をアーティスト自身に決めさせてくれる。あの場にいた誰よりも、曲のムードをどう作ればいいのかを彼女自身が分かっていた。僕らはただ、その導きについていった」

『Heart Food』ではオーケストレーションがさらに広がり、ストリングス、ホーン、ペダル・スティール・ギターが取り入れられた。「Down Where the Valleys Are Low」は、名セッション・ミュージシャンのスプーナー・オールダムがキーボードで参加したゴスペル曲。一方の「The Donor」では、〈主よ、憐れみたまえ/Kyrie eleison〉という詠唱を通じて、より高次の意味を探し求めている。魂を包み込むような天上的な賛歌「The Kiss」は、しばしば彼女の最高傑作と評される。デビュー作の発売以来シルのファンだというXTCのアンディ・パートリッジはこう語る。「残念ながら、もう『The Kiss』は聴けない。”心の底から泣き崩れる”スイッチを押されてしまうから。そのあと1時間くらい完全に打ちのめされる。本当に、最も美しい曲だと思っている」

1973年2月、シルはロンドンのテレビ番組『The Old Grey Whistle Test』で「The Kiss」と「The Pearl」を披露した。彼女のライブ映像として現存している、数少ない記録のひとつだ。襟元にリボンのついたグレーのブラウス姿で、シルはピアノに向かい「The Kiss」を演奏した。観客は一言一句を逃すまいと聞き入っていた。この英国ツアー中、シルは再びオピエート(アヘン系薬物)に手を出したと伝えられている。薬局で購入した咳止めシロップを飲んでいたという。

『Heart Food』はその1カ月後に発売されたが、前作同様チャート入りは果たせなかった。シルは、なかなか成功に結びつかない状況への苛立ちを募らせていった。そしてこの頃、複数の関係者が「誇張されている」あるいは「完全な作り話」とみなしている、ある出来事があったと伝えられている。英国のステージ上で、シルがゲフィンを罵り、同性愛者に対する差別語を口にしたというものだ。この出来事を実際に目撃した者はいない。アサイラム時代の元レーベルメイト、ジャクソン・ブラウンも、本当に起きたことなのか疑っている。「ゲフィンについては伝聞だったり、大げさに膨らんだり、話が変わって伝わったりした悪口が、いつも飛び交っていた」と彼は話す。

シルが実際にその発言をしたかどうかは別として、帰国後、本人は友人たちに自分がそう言ったと話していた。「デヴィッド・ゲフィンについて彼女が言ったことは、ただ馬鹿げていたし、不用意だった」とサウザーは言う。「彼が腹を立てても当然だ。すでに彼女のキャリアにかなりの金をつぎ込んでいたのに、何の見返りもなかった。彼からすれば、恩知らずに聞こえただろう。少なくとも、まったく必要のない中傷だった」。ロンシュタットもこう付け加える。「ジュディは過剰に反応してしまった。デヴィッドは彼女を助けようとしていた。でも、それまであまりにもひどい扱いを受けてきたせいで、誰もが自分を傷つけようとしているわけではない、ということを受け入れられなかったんだと思う」

ギゲールは、シルがそうした暴言を吐いたとされる背景には、当時の恋人デヴィッド・オマー・ベアデンの影響があったと見ている。シルは彼と一緒にツアーを回っており、『Heart Food』も彼に捧げていた。「彼は本当に悪い影響を与えていた」とギゲールは振り返り、ベアデンが自分とシルの友情に嫉妬していたとも話す。ベアデンは、シルがサウザーに会うことさえ許さなかった。「僕には絶対に近づけたくなかったんだ」とサウザーは言う。

1973年後半、シルはサウザーがツアー中に貸していたフォルクスワーゲンを運転していた際、横から車に衝突され、全身をギプスで固定するほどの重傷を負った。シルによれば、ぶつかってきたのは俳優ダニー・ケイで、ジョン・ウェインが彼女を病院まで車で送ったという。ただし、この出来事を裏付ける警察記録は見つかっていない。その1年後、シルは再び負傷した。今度はベアデンに階段から突き落とされたとされ、その後、背中の手術を何度も受けることになった。

2度目の事故のあと、兄の娘ディスパルティは入院中のシルを見舞った。ふたりが顔を合わせるのは何年ぶりかだった。以前、シルがまだ幼かったディスパルティと弟をパーティーに連れていき、ふたりの目の前でマリファナを吸ったことがあったため──「ある男が”俺たちは平和のパイプを吸ってるんだぜ”って言っていました」とディスパルティは振り返る──母親は、子どもたちが18歳になるまでシルと会うことを禁じていた。病院を訪れると、叔母はベッドの上でクローブ・シガレットを吸っていた。「ただただ、格好いいヒッピーでした」とディスパルティは言う。「『ジュディ叔母さん、ここでそんなことしていいの?』と聞いたら、『私はやりたいことを何だってできるの』って」。ラス・ギゲールは、シルが病院の厨房に手紙を書いていたことも覚えている。「食事に文句をつけてね」と笑う。「どうすればもっと良くなるかまで書いていたよ」

負傷による激しい痛みから、シルは再び薬物に手を出すようになった。当時密かにつけていた日記には、スピードボールやコデイン、そのほかの麻薬を摂取していたことが記されている。「シアトルでは一度やめた。でもまた依存するようになった」と彼女は1975年に書いている。「何もかも失った。もう救いようがない。聖ジュディなら助けてくれる? 腕にも打ってる。またどっぷりジャンキーの世界に戻ってしまった」

日記には、ベアデンとの別れを振り返り、新たに惹かれる相手を見つけながら、自らのバイセクシュアリティと向き合うシルの姿も記されている。また、別れてから何年も経ってなお、サウザーを愛しているとも書いている。「[彼には]嫌われるんじゃないかと心配せずに話せる」と彼女は記す。「無法者で人の心を壊す男ではあるけれど、それでも善良な人」

日記の大半のページには、次作に向けて歌詞を練る様子が残されている。アルバムには『Dreams Come True』というタイトルをつける予定だった。シルはベーシストのビル・プラマーとスタジオに入ったが、負傷の影響で歩くことさえ難しく、プラマーが文字どおり彼女を抱えてセッションに連れていかなければならなかった。『Dreams Come True』用に8曲のデモを録音したあと、アルバムはお蔵入りとなった。アサイラムはすでに彼女との契約を打ち切っていた。シルは多くの友人に、ゲフィンへのステージ上での発言が原因で契約を切られたと話していたが、その頃にはゲフィン自身が映画業界へ軸足を移していた。シルが生きて『Dreams Come True』の発売を見ることはなかった。

残された人々が語る、ジュディ・シルという人

1977年、ディスパルティはロサンゼルスで結婚した。シルは透け感のある白いパンツにニットのショールという姿で現れ、ディスパルティにベジタリアン料理の本を贈った。そして18歳の姪がバージンロードを歩くあいだ、ギターでメロディを奏でた。その後2年間、ディスパルティとシルは電話で連絡を取り続けた。シルから金を貸してほしいと頼まれることもしばしばあった。シルは、家族が西テキサスに所有していた600エーカーの油田から得られる収入で暮らしていたが、支払いは3カ月ごとだった。それでも必ず姪に返済し、口座に金が入る時期に合わせて日付を入れた先日付小切手を送っていた。

ディスパルティが叔母と最後に話したのは、1979年10月、自分に赤ん坊が生まれたことを伝えるため電話したときだった。「少しハイだったと思います」とディスパルティは言う。「『電話したのはね、あなたがgreat auntになったって伝えたかったから』と言ったら、『ありがとう、ハニー』って。それで私が、『あなたは本当にgreatな叔母さんだけど、今度は私に赤ちゃんが生まれたからgreat-aunt=大叔母さんになったの!』って言ったんです」

依存が悪化するにつれ、サウザーはシルと完全に連絡が途絶えていた。その年の9月、サウザー自身は「Youre Only Lonely」と、ドン・ヘンリー、グレン・フライ、ボブ・シーガーと共作したイーグルスの「Heartache Tonight」という2曲を全米トップ10に送り込んでいた。「ずっと忙しくて、彼女がどうなっているのかまったく気づいていなかった」と彼は言う。それでもギゲールには何度も、シルがどうしているのか尋ねていた。「会わないほうがいい。彼女も君には会ってほしくないと思ってる」とギゲールは伝えた。「かなりひどい状態なんだ」

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1977年、ロサンゼルスで行われた姪ドナ・ディスパルティの結婚式でのシル(Courtesy of Donna Disparti)

シルと親しい関係を保っていたトミー・ペルティエは、1979年11月、瞑想に向かう途中で、シルのルームメイトだったジュディ・テイラーから思いがけない電話を受けた。「彼女はジュディのことをものすごく心配していた」と彼は振り返る。「過剰摂取するんじゃないかと思っていて、どうすればいいかと聞かれた。だから僕は、『とにかく目を離さないで。もっと悪くなるようなら、警察なり救急なりに連絡するしかない』と言った」。翌朝、今度はシル本人からペルティエに電話があった。前の晩、自分は白い光のほうへ向かっていたが、そのすぐ後ろにペルティエがいて、自分を呼び戻してくれたのだと話した。

11月20日火曜日、ペルティエとシルは会い、リトル・トーキョーにある彼女お気に入りの寿司店で食事をした。その後、マンハッタン・ビーチの独身者向けバーを回り、どちらがより多く電話番号をもらえるか競争した。「僕は1つか2つだった」と彼は言う。「彼女は12個くらい。でも帰り道は、その話でずっと笑い合って、本当に楽しかった。まるでお別れパーティーみたいだった」

11月23日、感謝祭の翌日、シルはノース・ハリウッドのアパートで亡くなっているのが見つかった。35歳だった。死亡証明書では死因は自殺とされているが、友人の多くは、シルが自ら命を絶ったとは信じていない。「彼女は生きることが大好きすぎた」とペルティエは言う。「いろいろ試してみるのが好きだったんだ。ただ今回は、少しやりすぎてしまった」

当時21歳だったディスパルティは、シルの遺産管理人を務めることになった。叔母のアパートへ行き、遺品を集めた。ギター、服、わずかな宝石、写真、そして書きもの。それだけだった。それらを、座席や床に煙草の焼け焦げが残るシルのぼろぼろの車に積み込んだ。シルのいとこ、パムは、ディスパルティにアパートの外で待つよう強く勧めた。「どうして中に入れたくなかったのかは分かりません」とディスパルティは言う。「たぶん、そこで亡くなったと知りながら寝室を見るのは、私にはつらすぎると思ったんでしょう」。その後、ディスパルティと夫がシルの服を整理していると、袖に血痕のついたブラウスが見つかった。『The Old Grey Whistle Test』で彼女が着ていた、あのブラウスだった。

ロサンゼルスのセルフ・リアリゼーション・フェローシップ・レイク・シュラインで行われたシルの追悼式には、50人が参列した。そこにはマハトマ・ガンジーの遺灰が納められており、後年にはジョージ・ハリスンの葬儀も行われることになる。シルの名を冠した木が1本植えられ、遺灰は太平洋へ撒かれた。

式のあと、ギゲールと数人の友人はメキシコ料理店El Coyoteに集まった。シルの大好物だったグリーン・コーンのタマレスを食べ、彼女に乾杯した。「昔はしょっちゅうEl Coyoteに行っていた」とギゲールは振り返る。「一度、そこで誕生日パーティーをやって、パティオを全部貸し切りみたいにしてしまったことがあった。誰かがコカインの入った缶を取り出して、テーブルの端から端へ回していった。みんなスプーンを突っ込んでコカインを取り、それを次の人へ渡していった。そういう時代だった」

シルの盟友たちの多くは、最後に彼女を見たり話したりしたときのことを鮮明に覚えている。リンダ・ロンシュタットの場合、それは1978年の『Living in the USA』をレコーディングしていたときだった。シルは「Jesus Was a Cross Maker」のカバー録音を手伝うためスタジオへ立ち寄った。共通の元恋人を題材にした曲を、ふたりの女性が一緒に録音するという、巡り巡って元の場所に戻ってきたような瞬間だった。「宗教的なニュアンスは要らなかったから、タイトルを『Bandit and a Heartbreaker』に変えたの」とロンシュタットは語っている。しかし数時間後、シルが薬で朦朧としすぎて演奏できない様子だったため、ロンシュタットは断念した。「何かの錠剤でハイになっていて、椅子に座ったまま何度も舟をこいでいた」と彼女は話す。「かなりひどい状態だった」。ロンシュタットがそのカバーを完成させるのは何年もあとのことだった。1999年の『Box Set』に収録されている。

ルイ・シェルトンは『Heart Food』のセッション以来シルとは話していなかったが、彼女が亡くなる少し前、突然電話を受けた。シールズ&クロフツでの彼のプロデュース仕事を褒めるためだった。「僕がこれまで一緒にレコーディングした人のなかで、何年か経ってから、ただ挨拶をして、一緒に仕事ができてどれほど楽しかったかを伝えるためだけに電話してきたのは彼女だけだった」と彼は言う。ナッシュは1971年のツアー後、シルに連絡しなかったことを悔やんでいる。「いつも電話して、どうしているのか聞きたいと思っていた。でも結局しなかった」と彼は話す。「そして今となってはもう遅い。つらい形で学ぶ教訓だよ」

シルを知る人々は、彼女が驚くほど気前のいい人だったと語る。当時エリオット・ロバーツのアシスタントだったレスリー・モリスにはターコイズの石を贈り、モリスは今でもそれを持っている。いつかシルと一緒に年を取っていくのだろうと思っていたというギゲールは、1974年12月に彼女から贈られた絵を、今もロサンゼルスの自宅に額装して飾っている。ゲフィン=ロバーツのマネジメント会社で働いていたレニー・パパスは、あるときシルがオフィスにやって来て、ニコス・カザンザキスの作品を読んだことがあるかと尋ねてきたのを覚えている。ギリシャ系のパパスが「ない」と答えると、シルは1週間後、『最後の誘惑』を一冊持って現れた。

シルの周辺にいた多くのミュージシャンは、なぜ彼女のキャリアが軌道に乗らなかったのかを今でも不思議に思っている。「楽曲そのものは、すごく商業的だと思っていた」とロンシュタットは言う。「『Lady-O』なんて間違いなくそう。[ほかの曲には]〈彼はクリプトスフィアの下からやって来る/大いなる悲しみが始まる場所から〉なんて、よく分からないことも歌っている。どういう意味? 私には分からない。でも、当時みんなが歌っていたような、”ウー、ベイビー、君は最高の尻をしてる”とか、そういうものとは違うのよ」。サウザーもこう付け加える。「ソングライターとして評価されないことに、彼女は本当に苛立っていたと思う。そもそもラジオ局は、神秘的なキリストについて歌った曲なんてかけようとしない。それに彼女の声も、人によっては少し馴染みにくかったんだと思う」

不運に終わったシルのキャリアは、同じくアサイラムに所属しながら、名声や成功をつかめなかったシンガー・ソングライター、デヴィッド・ブルーとしばしば比較される。「アサイラム・レコードと契約すれば、自動的にヒットするようなものだった」とレスリー・モリスは言う。「成功しなかったのは、ほとんどあのふたりだけ」。もしシルが生き続け、アルバムを発表し続けていたらどうなっていたのかは分からない。「音楽は彼女にとって避難場所だった」とジャクソン・ブラウンは言う。「アサイラムで2枚出したあと、ウォーレン・ジヴォンのように別の場所へ移っていたとしても、きっと成功をつかんでいたと思う。でも、レコードが売れない状況のなかで、それでも続ければいいと言うのは簡単だけど、実際にやり続けるのは難しい」

1970年代初頭の女性シンガー・ソングライターたちを振り返ると、シルが成功できなかった大きな理由のひとつは、性的なイメージを強く打ち出して売り出されなかったことではないか、と考える人も多い。「ちょっと野暮ったくて、不器用そうな見た目だった」とXTCのアンディ・パートリッジは言う。「当時、女性は飾り物のように見られていた。それに彼女は、人から好き勝手言われても黙っているようなタイプじゃなかった」。ワイズ・ブラッド名義で活動するロサンゼルスのシンガー・ソングライター、ナタリー・マーリングも、シルの音楽からその反骨心を感じ取っている。「彼女は”女らしさ”を演じていない。それを自分の武器として使っていないから」と話す。「教師みたいに歌うでしょう?」

死後45年以上を経て広がるレガシー

シルの死から40年以上が過ぎた今も、彼女の支持者は増え続けている。フリート・フォクシーズはライブで「Crayon Angels」を何度もカバーしており、アルバム『Shore』収録の「Sunblind」では、エリオット・スミスやジョン・プラインと並んでシルの名を歌っている。バーティーズ・ストレンジは最近、シルのトリビュート・コンピレーションのために「The Pearl」をカバーした。パラモアのヘイリー・ウィリアムスも、2020年の夏、隔離生活中に「Lopin Along Thru the Cosmos」を歌っている。

1999年に初めてシルの音楽を聴いたプロデューサーのパット・トーマスは、そのレガシーを後世へ伝えるうえで重要な役割を果たしてきた。未完成のまま眠っていた『Dreams Come True』を発見し、シルの家族を探し出して協力を仰ぎ、2005年にリリースした。また、『Judee Sill』と『Heart Food』の再発や、2007年のコンピレーション『Live in London: The BBC Recordings 1972-1973』にも携わっている。「彼女はニック・ドレイクみたいなものだ」とトーマスは言う。「3、4年ごとに、まったく新しい世代が彼女を発見する。”ジュディの秘密の握手クラブ”みたいなものだよ。会員はかなり多いけどね」

Dreams Come True: hi - i love you right heartily here - new songs / Judee  Sill (Water/Runt)

1974年に録音されながらお蔵入りとなった幻の3rdアルバム『Dreams Come True』。2005年に発掘・リリースされ、ジュディ・シルを敬愛するジム・オルークがミックスを担当した

パット・トーマスは、アンディ・ブラウンとブライアン・リンドストロームが共同監督を務めるドキュメンタリー『ジュディ・シル 贖罪のシンガーソングライター』の音楽監修も担当している。ふたりは何年にもわたって制作を続け、シルの人生を丹念につなぎ合わせながら、彼女を知る人々へのインタビューを重ねてきた。「ジュディの人生と歌詞は、とても深く結びついている」とブラウンは言う。「ふたつを切り離すことはできない。だからこそ、彼女の作品は時代を超えて力を持ち続けているんだと思う。彼女についてもっと知れば、その葛藤が見えてきて、音楽とのつながりも感じられるはずだ」

「生きている間に受けるべきだった注目を、死後になってようやく得られるのかもしれない」とブライアン・リンドストロームは付け加える。「『The Old Grey Whistle Test』で『The Kiss』を観ていて心を打たれるのは、曲が終わった直後の瞬間なんだ。そこから彼女を待っているのは、日常への帰還だ。そしてもちろん、映像はその姿を見せる前に終わってしまう。でも、ある意味で僕たちの映画が描いているのは、まさにその先なんだと思う。ミューズがそばにいて、あれほどの高みに達するような超越的な瞬間を経験したあと、人はどう生きるのか。そのあとに何が待っているのか。音楽が降りてきていないとき、日々の困難や、自分に正直でいることや、僕ら誰もが向き合わなければならないさまざまなものを抱えながら、毎日を生きていくとはどういうことなのか?」

ドキュメンタリーは2021年中の完成を目指して進んでおり、シルのレガシーを決定的なものにする一助となるだろう。「爆発的に広がると思う」とメリングはシルの音楽について予想する。「今の時代に彼女が支持されるのはすごく納得できる。完璧なまでに秘教的で、メロディアスで、ほんの少し奇妙だから」(※編注:本記事の公開後、2022年に完成。2024年4月に米国で劇場公開・配信)

ディスパルティは、叔母の音楽がより多くの人に届く日を心待ちにしている。「彼女の魂が、いつも私のそばにいるように感じます」と話す。「人々がこれほど彼女の音楽に惹かれている姿を、今ここで本人にも見せてあげられたらと思う。彼女は本当に、ずっと苦しみながら頑張っていたから」

From Rolling Stone US.

映画『ジュディ・シル 贖罪のシンガーソングライター』

2026年10月23日(金)よりアップリンク吉祥寺、10月30日(金)よりYEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次ロードショー

監督:ブライアン・リンドストローム、アンディ・ブラウン

原題:『Lost Angel: The Genius of Judee Sill』

英語/91分/カラー

字幕:山口三平

(C) 2023 Onwards & Upwards LLC

Exclusively licensed to TAMT Co., Ltd. In Japan

配給:ディスクユニオン

劇場営業:トリプルアップ

公式サイト:https://www.du-cinema.com/judee-sill