
デヴィッド・バーン(David Byrne)が、サマーソニック東京公演・8月15日(土)と大阪公演・8月16日(日)に先駆けて、8月13日に東京・SGC HALL 有明にて単独公演を開催。当日のオフィシャルレポートをお届けする。
”潮目”が変わったのは間違いなく2018年にリリースされたアルバム『アメリカン・ユートピア』以降だ。デヴィッド・バーン自身にとって、ソロおよびトーキング・ヘッズ時代を含めて初のトップ10入りとなる初登場3位を記録したこの作品は、現代社会の分断や孤独の中で、どのように他者と繋がっていくのか、そしてどのように理想的なコミュニティ(ユートピア)を築いていくのか?……をテーマとする内容だった。尤も、ゲスト・プレイヤーは多数参加していたものの個々のパーツをネット上でやりとりを重ねて完成させたこのスタジオ作品は、もちろん、その後現在に至るまでバーンのステージ・パフォーマンスで重要曲の一つになった「Everybody's Coming to My House」なども含まれていたが、理想郷を作り上げるという命題においてはまだ”未完成”だったと言える。しかし、このあと、バーンの掲げる”ユートピア”は時間をかけて形成されていくこととなった。それはまるで一つの小さな村が町となり、都市となり、国家となっていく胎動の過程を見ているかのようでもあった。
周知のように、『アメリカン・ユートピア』は2019年10月から2020年2月までニューヨークのハドソン劇場で、コロナ禍を挟んで2021年9月から2022年4月までブロードウェイ最大の劇場、セントジェームス劇場で上映された。さらにその間にスパイク・リー監督によって映画化もされ、日本でも2020年春に公開された。いずれも異例のロングランとなり、そこから4Kレストア版『ストップ・メイキング・センス』のリバイバル公開などの”蔵出し”までもを引き起こし、さらには『フー・イズ・ザ・スカイ?』(2025年)という新しいアルバムまでが作られる流れも生まれ、気がついたらバーンが耕し始めた理想郷という名の土壌はいつのまにか大きな社会となった。2009年以来となる今回の来日公演に詰めかけたオーディエンスは、当然私自分も含めて、そうしたユートピアを共に作る居住者なのかもしれない。と、ほぼスタンディング仕様となっていた1階フロアにぎゅうぎゅうになりながら開演を待つ人々を見て頼もしさすら感じるようになっていた。社会はここまで育ったと。

もちろんそれがトーキング・ヘッズ時代から地続きであることは、否定できない。だが、そうした拡張が行われたのも『アメリカン・ユートピア』上演後、この5~6年の間のことだ。今回(現在)のパフォーマンスに用意された曲たち──この日もオープニング曲だった「Heaven」や終盤のクライマックス直前に披露した「Air」といった初期の曲、「Psycho Killer」「Life During Wartime」といった人気曲、比較的ポップな後期の曲「And She Was」「(Nothing But)Flowers」などトーキング・ヘッズ時代の曲群は、映画版『アメリカン・ユートピア』ではとり上げられていない。「Like Humans Do」「Independence Day」といった、セールス面で芳しくなかった時代の、でも明らかに現在のバーンのユートピア形成には欠かせないメッセージを持つソロ曲もツアーを重ね、パフォーマンスがこなれていくにつれ徐々にセットリストに加わっていった格好だ。それに伴い、スパイク・リーの素晴らしいカメラワークも効果的だった映画版では、バーンもメンバーも振り付けやステップにまだどこか引き締まった空気をまとっていたが、バーン含めて総勢13名による昨日のステージは、洒脱で計算されたダンスというより、反論を恐れずに言うなら体操……言ってみれば気軽なエクササイズに近い動きのように見えた。もちろんそれは、緊張感がないということではない。バーンが理想とするユートピアが日常になったということを意味しているように感じたのである。ダンサーだけで5人、パーカッションが4人(その中にはもちろん、マウロ・レフォスコ、ステファン・サンフアンも)という身体性をより強調するような編成を継続させていることもまた、フィジカルな暮らしが常態化していることを告げているようにも見えた。
さて、では、そのユートピアとはどういう信条を掲げたものなのか。バーンは、とどまることのない分断、差別、争いなどの危機的、末期的な社会問題、環境問題などに対し、スコットランド移民の血筋を持つある種”よそもの”としての目線から、そして、初老に入った経済的にも豊かな白人男性という自虐的な視点から、改革の警鐘を鳴らしてきた。ジャネール・モネイのシュプレヒコール・ソング「Hell You Talmbout」をカヴァーしていたのもその姿勢を明示していたし、その曲がセットリストから消えた代わりにトーキング・ヘッズ時代の「Life During Wartime」をハイライトに披露するようになったのはもちろんバーンの気骨の現れだ。昨日のステージでも、都市におけるゲリラ戦のような過酷なサバイバルと、その中での緊張感のある日常を歌ったこの曲を、今もなお”戦時下”となっている現代社会への皮肉を込めてエネルギッシュに表現した。椅子席のオーディエンスの多くが立ち上がったのも、ICE(米国移民・関税執行局)による強制捜査やそれに対する抗議活動・デモの映像を写したこの曲「Life During Wartime」から「Once In A Lifetime」へと続いた最終盤だ。
だが、今のバーンのユートピアの信条は、そのようにひたすら熱く強くダイレクトに、その主張を掲げることからはやや変化しているようにも見えた。「愛と思いやりこそが今の時代に抵抗できること」。バーンはステージでそう語った。これは、バーンと同じスコットランド系の映画監督で『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』などで知られるジョン・キャメロン・ミッチェルの言葉から引用したもの。そのジョン・キャメロン・ミッチェルがプライヴェートでゲイであることも踏まえてか、昨日もステージのバックのモニターに”MAKE AMERICA GAY AGAIN””NO KINGS”と映し出していたが、それでもいたずらに声を荒げるばかりではなく、相手の立場になり、優しさ、心遣い、慈しみで歩み寄っていくことが、今の時代に最も必要とされているのではないか、それが実は何よりの抵抗ではないか? ということをバーンは明確にステージのテーマにするようになった。どこかチアフルでユーモラスな表現は今もバーンの根幹にある。格差社会をなくすためにできる限りポジティヴな行動を身の回りから探していく、というメッセージも変わらない。だが、愛と思いやりこそが、今の時代をよくするための武器で有り、今や反発の印だ、とでもいうように思えた。1曲が終わるたびに「アリガトウ!」と日本語で叫び、時には通訳を交えてMCを日本語で伝え、さらには細野晴臣のスタジオを訪ねた時の様子、東京の町の風景を撮影した写真をモニターに写したりしたバーンは、もはや世界中のフォークロア音楽に精通し、自らもレーベルやメディアを立ち上げて発信してきたインテリ・パンクロッカーではなく、ツーリストとして日本にやってきた一人のアメリカ人だった。そこに説得力がないはずないのだ。
デヴィッド・バーンが教えてくれたこと
今年のフジロック・フェスティバルの最終日に登場し、初めてステージ配信に踏み切ったマッシヴ・アタックを思い出す瞬間も個人的にはあった。おそらくおおよその信条的にはマッシヴ・アタックもデヴィッド・バーンも同じユートピアを連想しているのだろう。だが、バーンはもっと普通に日々の暮らしの中から、目の前のあなたやあの人たちに愛と思いやりで接していくことから始めようと言う。それはともすれば道徳的なのかもしれないし、この日のステージでも映像として写されていた、窓から壮大な景色が広がる高級マンションの部屋などを見ると、家賃高騰でおいそれと住めなくなっているニューヨークに悠々自適に暮らす裕福な今のバーンに懐疑的な目を向けたくなる人もいるだろう。そもそも、昨日のパフォーマンスのメンバー一人一人の動きと、演奏しながらステージを所狭しと動き回る演出は文句なく素晴らしかった。照明の細かな効果はもっと申し分なく、どんなに動き回ってもバーンだけ常に青いスポットが当たっているように見えたのも効果的だった。演奏面については、カウントなしで曲が始まっていたことから同期を使用していたのかどうかが、終演後、観にきていた一部のミュージシャンたちの間で議論(?)になったそうだが、メンバー12人を引き連れてはるばる日本にやってきてこれだけの演奏、初めてのホールでここまでの音響表現が実現できたことは、やはりそこに成功を収めた74歳の財力のほど、経験のほどを見てしまう。


それでも思う。歌唱力に衰えがほぼないことに努力の結晶を伺うことができるし、スタジオ・アルバム『アメリカン・ユートピア』に多様なのメンバーが集結していたのにも関わらず、女性がいなかったことを素直に認めて謝罪をしたり、映画版『アメリカン・ユートピア』にはいなかったアジア系メンバーも今やバックに加えるようになった(パーカッションのユリ・ヤマシタ)。バーンは自身に降りかかる問題や批判も一つ一つ向き合って解決しようとしている。思えば、ブライアン・イーノとの共作アルバムを携えて2009年1月に開催された「Songs of David Byrne and Brian Eno」ツアーの日本公演(渋谷AXで見たが、今回ほどの人気ではなかった)も10名を超える大所帯だったし、楽器を持たずにステップを踏むバーン以下、全員が白い衣装に身を包み、装飾的なセットもないステージは、確かに今のバーンのパフォーマンスの前段階にあたるものだった。けれど、おそらく彼はそこからも学んでいるのだろう。芸術としてのダンス、アートとしての表現より、今こそ必要なものは、不格好でも優しさと思いやりをもって”隣人”と対話することだと。70代の初老だから、というのでもないだろうが、ラジオ体操のようなわかりやすいサイド・ステップはその平素の対話の重要性をきっと意味している。
大雨に見舞われ、隣の千葉県では多くの帰宅困難者さえ出た昨夜の東京公演の帰り、私は一つ心を新たにしたことがある。『音楽のはたらき』というユニークで学究的な本を刊行したことも手伝って、我々日本人のファンの一部は、敬意と親しみを込めて”バーン先生”と呼んでいるし、私も『アメリカン・ユートピア』を劇場で11回も観て、DVD購入後はおりに触れてモニターで流したりしているが、超絶なファンであっても、決して信者であってはならない、ということだ。バーンが耕しているユートピアという名の”社会”は確かに素晴らしい。一生ついていこうと思えるものだ。だが、どんな社会にも歪みはあるし、時間が経つとヒビとなって表出してくる。そこを冷静に受け止め、個々人が対峙していくこともまた、愛と思いやりがなければできない、ということをもしかするとバーンは教えてくれているのかもしれない。
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Photo by 古溪 一道

デヴィッド・バーン
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2026年8月14日(金)・15日(土)・16日(日)
東京会場:ZOZOマリンスタジアム & 幕張メッセ
大阪会場:万博記念公園
※デヴィッド・バーンは8月15日(土)東京会場、16日(日)大阪会場に出演
