もう一つ、この話で際立っていたのが、10年前の養護教諭時代をめぐるスキャンダルのエピソードだ。このパートがとりわけ印象深かったのは、最後まで「誰が悪かったのか」という答えを提示しなかったからである。

人形作りの才能を持つ女子生徒。彼女に寄り添い、居場所を守ろうとするあかり。一方、人形作りや保健室登校を快く思わない母親は、「家で勉強すれば出席扱いになると言うが、それをやるのは私だ」と詰め寄る。その言葉には、子どもを社会へ適応させなければならないという親の切実な責任感がにじんでいる。単純な“毒親”として描くことを、本作は拒否している。

あかりもまた、間違ってはいない。彼女は少女の可能性を信じ、追い詰められた彼女を抱きしめた。どちらにも理があり、どちらにも正しさがある。それでも悲劇は起きる――このドラマツルギーは、現代社会の葛藤構造をよく捉えている。

問題はSNSだ。SNSはこの複雑さを切り捨て、「誰が悪いのか」という単純な断罪を求める。結果としてあかりは「養護教諭が追い詰めた」と糾弾され、炎上の渦に飲み込まれた。ここに本作の批評意識がある――現実の問題は多層的であるにもかかわらず、情報環境はそれを一元化しようとする。そのズレが、無実の人間を傷つける…。

そしてラスト、10年越しに届いた手紙。ドラマは「あかりは正しかった」とも「悪くなかった」とも言わない。ただ、かつての少女が「あの時はありがとう」と伝えてくる――それだけだ。

だが、この沈黙の重さは計り知れない。あかりは少女を完全には救えなかった。自殺未遂は起きたし、炎上も起きた。それでも、その少女の人生のどこかに確かに届いていたものがあった。だから10年後に「ありがとう」が返ってきた。完全な救済ではなく、不完全なつながり――そこにこそ、人間が人間に与えうるものの本質があると、本作は静かに示している。

「神様」から「人間」へ――第6話からの深化と、選挙戦の影

第7話は、前回のテーマをさらに一歩深めたように見える。第6話でのあかりは、通り魔事件において、すべての人を救おうとする"神様"的な存在として描かれていた。だが今回は違う。人は神様にはなれない。誰もが救えない人を抱えて生きている。誰かを傷つけてしまうこともある。誤解されることもある。

それでも、誰か一人の人生を変えることはできる。

政治もまた同じだろう。すべての人を幸福にする魔法ではない。だが確実に、誰かの現実を変える力を持つ。だからこそこの回で描かれたのは、選挙戦略でも政策論争でもなく、「人を救うとはいかなることか」という、極めて人間的な問いだった。その問いの前で立ち止まり続けるあかりだからこそ、人々が彼女に未来を託したくなるのだろう。

しかし、不穏な影も忍び寄る。10年前の炎上が、選挙にどう波及するか。鍵を握るのは「チームあかり」に加わった雨宮楓(三浦透子)と、暴露系YouTuberの白樺透ではないか。静かな問いかけの回であっただけに、次なる波の予兆が、むしろ鮮明に浮かび上がってくる。選挙への幕は開いた。目が離せない。

  • (C)カンテレ