何より印象的だったのは、ラストの白馬のモノローグである。「記憶は記憶であって、事実ではない。妄想癖のある中二病のオタクならなおさらだ。もしかすると、3人のおじさんたちとの“冒険の日々”も、すべて妄想で、いつか弾けて消えるのかも。炭酸のラムネのように──」
この一節は、本作の主題を一気に浮かび上がらせる。記憶とは、単なる過去の保存ではなく、想起のたびに書き換えられる“現在の解釈”である。心理学的に言えば、記憶は固定された記録ではなく、再構成され続ける可塑的な現象だ。
ここで、タイトル『ラムネモンキー』は静かに回収される。そう──今この瞬間に「現実」として生きている時間すらも、未来から見れば、炭酸のように弾けて消え、あるいは味わいそのものが変質してしまうのかもしれない。すなわち、記憶は事実を保存するのではなく、意味を編集し続ける装置なのだ。
特に白馬のように、これから未来へと歩み出していく存在にとって、その感覚はより切実だったはずである。今のリアリティは、いずれ“編集された過去”へと変わる。そうした時間の非対称性が、このモノローグにはにじんでいる。
人生とは、過去とは、歩んできた道とは──もしかするとすべてが、ラムネのようなものなのかもしれない。弾けて、消える。子どもの頃、「こんなに美味しいものはない」と思っていた味も、大人になってから飲めば、ただの「ラムネ」に過ぎなかった──そんな経験を持つ人も少なくないだろう。価値とは絶対ではなく、経験によって更新され続けるものだからだ。
もちろん、すべての過去が爽やかに弾けるものばかりではない。中には、深く傷つき、それが今もなお痛みとして残り、人格に影を落としているような記憶もある。トラウマとして反復され、現在を規定してしまうほどの重みを持つ過去も存在する。
だが、それでもなお──その記憶すら「固定された事実」ではなく、「変化しうる意味」であるならば。
理想論かもしれない。それでも、その痛みもいつか「ラムネ」のように、パチパチと弾けて軽くなる日が来るかもしれない。あるいは、マチルダ事件のような強烈な記憶の周囲に、実は確かに存在していた“ささやかな青春のきらめき”を、後から見つけ出せるかもしれない。
つらいばかりではなかった──そう思える余地が、人には残されているのではないだろうか。実際に、決して楽な青春ではなかった筆者自身も、本作からそのような感触を受け取った。
そして、白馬は最後にこう言う。「だって、所詮みんな、永遠の中二病でしょ?」。この言葉は、現実認識そのものへの軽やかな転覆である。目の前の現実とは、突き詰めれば脳内の電気信号が構築した主観的な世界にすぎない。であるならば──
中二病でいてもいいではないか! 妄想し、夢を見て、自分なりの意味づけの中で生きることは、単なる「逃げ」ではない。それはむしろ、不確かな現実を生き抜くための、ひとつの積極的な戦略であり、人生を「楽しく感じて」生きるための技法なのではないか。
『ラムネモンキー』は、そのことを静かに、しかし確かに提示したのではないかと、個人的に感じた。





