――では、今回の作品で阿久津という役を生ききった内野さんが新たに得たものは?

いやそれはまだわからないです。観てくださった方がどう感じるかによりますから。演技なぞ観てくださる他者がいない限り成立しえない世界ですから(笑)

――ご自身で達成感を得られるかどうかも、視聴者の反応次第ということですか?

特に映像の場合は、舞台と違ってバラバラに撮るので。もちろんシーンごとに自分の中では「これが正解なんじゃないか」と自信を持って一応提示はするけれども、やっぱり監督さんの編集という複雑な化学反応によって一つの作品が出来上がるわけで。僕はあくまでもその中の一本のネジというか、一個のパーツでしかない。だからこそ出来上がった作品を観たお客様がどう感じ取ってくださるのか、いつもドキドキワクワクハラハラの世界なんですよ(笑)。自分自身の芝居がどうだったかというよりも、その作品自体がどう評価されているのかというのが、やっぱり気にはなりますよね。

――そこが映像と演劇の舞台一番の違いですか?

そうですね。映像と舞台とでは役者に課せられた責任の度合いが違いますよね。舞台の場合は、幕が上がってから幕が降りるまで、いわばワンカット長回しですからね(笑)。

――内野さんは本作について「演劇というものの効用が改めて問い直される作品だ」とコメントされていましたね。

僕は本作に出てくる「嘘が本当になる瞬間」というセリフが好きなんですが、フィクションの中に現実が立ち現れる瞬間が、芝居をしているとままあったりするんです。きっと世の中の大半の人たちが日々生きることに苦しんでいたり、何かに迷っていたり、一歩を踏み出せずにいたりしているんだと思うんです。たとえそういった状況のなかにあっても、実際に演劇をやったり、観たりすることで、生きる希望を見出すことができるというか。「三人姉妹」や「リア王」から、明日を生きる力をもらえるような気がするんですよね。 どうにもならない現実に直面しながらも、リアのような悲劇の主人公を見ることで、何かしらの浄化作用があって、明日を生きるエネルギーに繋がるところが、演劇のいいところなんじゃないかという気が僕はしています。だって、たとえばポール・マッカートニーの歌ひとつとっても、配信で聴くのとライブで生の歌声を聴くのとでは、全然違ったりするじゃない?「うわ、いままさにそこでポールが生きて歌ってくれている!」という生々しい実感がもたらすパワーは必ずあるはずだから。

――でも、生の演劇のパワーをドラマで伝えるというのは、なかなか大変ですよね。

いや、本当にそうなんですよ。視聴者の皆さんに、「生の『リア王』を劇場で観てみたい!」と思っていただけるかということでもありますからね。とりわけ、本作の終盤のシーンというのは、自分の中でもある種の"賭け"みたいなところもあって。過去の罪といま演じている演劇がリンクしていくようにシナリオは作られているんですが、それが果たして観る側にうまく伝わるのだろうか……という不安と恐怖がありました。「精一杯頑張りますから、あとは監督よろしく!」みたいな感じでやってましたので(笑)。だからこそ、実際に見ていただく方がそれをどう感じ取るのか。僕は一刻も早く知りたいです。忌憚のない感想をいただくのが楽しみです。

ぜひとも最初から最後まで、グッと作品世界に入り込んでいただいて、じっくり味わっていただけたらと。その上で、演劇を通じて得られる再生のエネルギーやシニア世代が発する煌めく瞬間にパワーをもらえるようなドラマになっていたら嬉しいです。ちなみに僕的には第2話と第4話がオススメです。なかでも定年退職した教師役を津嘉山正種さんが演じていらっしゃる第4話の「なつかしい夕映え」は、本当に素晴らしいですから。あれを観て「人間には演じるということが必要なんだ」と改めて実感させられました。