宮崎駿監督の映画『君たちはどう生きるか』を観ていたら、「ダットサン」と呼ばれるクルマが出てきた。小さいながら速そうで、宮崎監督の映画らしく躍動的な動きが印象的だったのだが、そもそもダットサンとはどんなクルマなのだろうか? 自動車ライターの大音安弘さんに聞いてみた。

  • ダットサン 16型ロードスター

    「ダットサン」って何?(編集部注:この写真は某自動車メーカーの某工場で撮影したダットサンです。メーカー名と工場名は記事の“ネタバレ”を避けるため、まずは伏せておくこととしました)

「ダットサン」誕生の経緯とは

映画を観たマイナビニュースの編集者が、ネタバレに気を付けつつ送ってきた質問はこんな感じだった。

「映画の『君たちはどう生きるか』は太平洋戦争中の日本を舞台とした作品なんですけど、その中で、主人公の少年が父親に送られて転校(疎開)先の学校に登校するシーンが出てくるんです。そのときの父親のセリフに、『ダットサンで送っていってやる!』みたいな言葉があったんで、そのクルマがダットサンなんだってわかったんですけど、そもそもダットサンってどんなクルマなんですか?」

ということで今回は、ダットサンの歴史を少し振り返ってみたい。

ダットサンとは、いわば日産自動車の原点といえるクルマだ。その歴史は1911年(明治44年)に、若き技術者、橋本増治郎が設立した日本初の国産自動車メーカー「快進社自動車工場」までさかのぼる。

  • ダットサン 16型ロードスター
  • ダットサン 16型ロードスター
  • ということで、この写真は日産自動車の横浜工場で撮影したものでした。説明プレートによれば車名は「ダットサン 16型ロードスター」。デビューは1937年(昭和12年)とのことです。ちなみに、映画『君たちはどう生きるか』に出てきたダットサンのクルマが、具体的にどのモデルだったのかは、このキャプションを書いている私(質問を送った編集者です)にはわかりませんでした……。そういえば、映画の中でダットサンを運転するキャラクターの声優は、日産のCMに出ている木村拓哉さんでしたね!

1914年、快進社自動車工場は初の自動車(なんと、最高出力10psを発揮するオリジナルのV型2気筒ガソリンエンジンを搭載!)を完成させる。そのクルマは、会社設立を支援した財界人の田(でん)健治郎、青山禄郎、竹内明太郎の3人の頭文字を取って「DAT号」と名付けられた。「DAT」(だっと)には「脱兎(だっと)の如く」という意味も重ねられていたというから、走りのいいクルマにしたいという想いも込められていたのだろう。

その後、1916年(大正5年)に最高出力15psの直列4気筒エンジンを積む乗用車「ダット41号」を完成させたが、この頃の乗用車といえば、まだ輸入車が主力だった。販売に苦戦し、快進社は1925年(大正14年)に解散。規模を縮小した「ダット自動車商会」として再スタートを切った。

翌年の1926年には、同様に経営に苦戦していた関西の自動車メーカー「実用自動製造」と合併して「ダット自動車製造」に。以前から手掛けていた軍用保護自動車(トラック)の製造を主力としていたが、1930年(昭和5年)に小型乗用車の試作車を完成させ、大阪から東京までの走行テストを行い、耐久性の高さを証明してみせた。その車名は、「DATの息子」を意味する「DATSON」(ダットソン)。同時に、「DAT」の名には「Durable」(耐久性がある)、「Attractive」(魅力的な)、「Trustworthy」(信頼できる)の頭文字という新たな意味づけが行われた。

「ダットソン」が「ダットサン」に転じたのは、「SON」の響きが日本語の「損」と重なったためらしい。縁起を担ぎ、太陽を意味する「SUN」に変更したそうだ。これが1932年(昭和7年)のことである。

  • ダットサン 12型フェートン

    この写真は以前、「日産ヘリテージコレクション」という施設で撮影したもの。1933年(昭和8年)デビューの「ダットサン 12型フェートン」というクルマです

当時の日本では、軍用保護自動車の製造を強化するため、国策としてメーカーの統合が図られた。その結果、1933年(昭和8年)にダット自動車製造は、石川島自動車製造所(後のいすゞ自動車)と合併して「自動車工業」となった。

その際、ダットサンの量産化に向けて資金を提供し、同社を傘下に収めていた戸畑鋳物は、ダットサンの商標と旧ダット自動車製造の大阪工場を譲り受け、戸畑鋳物自動車部とした。つまり、日産自動車といすゞ自動車は双子ともいえる関係にあったのだ。

さらに戸畑鋳物自動車部は、同じグループ企業である戸畑鋳物と日本産業が共同出資した自動車製造へと吸収される。1934年(昭和9年)の横浜工場の開設と共に、社名を日産自動車へと変更する。これにより、日産自動車が製造する自動車のブランド名が「ダットサン」となったのである。

  • ダットサン セダン

    「日産ヘリテージコレクション」で撮影した「ダットサン セダン」(113型、1956年)。渋かわいいですね

あの名車もダットサンを名乗っていた?

日本のモータリゼ―ションの幕開けとなる1960年代の日産車にも「ダットサン」の名は使われた。1959年(昭和34年)登場の初代「ブルーバード」や初代「フェアレディ」、1966年(昭和41年)登場の初代「サニー」も、ダットサンを名乗っていたのだ。いずれも評価の高いクルマで、当時は「小型車ならダットサン」とまでいわれた。

  • 日産の初代「サニー」

    初代「サニー」。発売当初は2ドアセダンとバンのみだったそうだが、この写真は1967年に登場した「4ドアデラックス」だ

その後はブランド名に「日産」を使う車種が増え、国内の乗用車でダットサンを名乗る車種はサニーやブルーバードなどに限定されていったが、1970年代までその名は使われていた。

北米などの海外市場では、「ダットサン」で市場開拓を図ったことも有り、幅広い車種が「ダットサン」ブランドを名乗った。このため、米国で爆発的なヒットとなったスポーツカーの初代「フェアレディZ」も、ダットサンの名を冠していた。

  • ダットサン フェアレディ

    こちらは1960年(昭和35年)1月に北米輸出専用車として発売となった「ダットサン フェアレディ」(SPL213)というクルマ

ところが1981年、知名度の高さを誇りながらも、輸出向けブランド名としての「ダットサン」は順次廃止されることとなった。日本でも同時期に「ダットサン」は使われなくなり、最後までその名を守ったのは、2002年(平成14年)まで生産されていた商用トラック「ダットサントラック」(※日本名、車名としてダットサンを継承)だけであった。

ところが、ダットサンは再び表舞台に登場することになる。2012年(平成24年)に、当時の日産CEOだったカルロス・ゴーンが、ダットサンを新興国向け低価格車のブランド名として復活させることを決めたのだ。

しかし、新興国向け商品のコンパクトハッチバック「ダットサンGO」や小型ミニバン「ダットサンGO+」は、販売的にあまりぱっとしなかった。ゴーン失脚後の2022年には再びブランド名の廃止が決まり、ダットサンはまたもや姿を消すことになった。

いずれ国民車となることを夢見て誕生したDAT号の流れを組むダットサンは、多くの人に愛されながらも、ブランド戦略に翻弄された悲しい歴史も持ち合わせている。おそらく、ダットサンの名が三度目の復活をとげることはないだろうが、日本の自動車史には欠かせない重要な存在なのである。