東京都交通局は、2019(令和元)年11月から運行休止中の上野懸垂線(上野動物園モノレール)について、鉄道事業廃止届を提出したと発表した。廃止予定日を2024年7月21日とした上で、今後、廃止日を繰り上げる可能性もあるという。

  • 上野懸垂線の初代車両H型(提供 : 東京都交通局)

じつは、2024年はモノレールが歴史に登場してから200年という節目の年にあたる。記録に残っている中で、世界で最初のモノレールとされているのは、1824年に英国人のヘンリー・パーマーが、木材のレールと馬力を用いた貨物運搬用のモノレールをロンドンの造船所に敷設したものである。蒸気機関車の牽引による世界初の実用的な鉄道が、同じく英国のストックトンとダーリントンの間を走ったのは1825年であり、それよりも1年早い。

このような記念すべき年に、日本のモノレールのパイオニアともいえる上野懸垂線が姿を消すことには、不思議な巡り合わせのようなものを感じる。今回はモノレールの技術的な歴史を概観するとともに、上野懸垂線が登場した社会的背景などを見ていきたい。

■「現存する世界最古」ヴッパータール空中鉄道の成功

1本のレール上を走る鉄道という意味のモノレール(MonoRail / 「mono」は「1つの」を意味する接頭辞)が研究された初期の動機は、1本のレールとそれを支える支柱のみで建設できるという簡便さと費用の低廉さにあった。技術的には、1本のレールからぶら下がって走行する懸垂型と、レールにまたがって走行する跨座(こざ)型に大きく分類される。

初期の跨座型モノレールとして、フランス人技師のラルティグが開発したラルティグ式モノレールがあった。この方式は、地上に設置されたA字型の支柱に支えられたレールを、馬の鞍のような形状の機関車・客車がまたいで走行するものだった。しかし、その構造上、乗客を左右バランスよく乗せなければならず、バランスを崩すとローリングしてしまうほか、客室が狭い上に騒音も大きく、さらに通常の踏切を設置できないなどの難点があった。

跨座型の亜流として、相反する方向に高速回転する2個のジャイロスコープ(回転儀)を用い、1本のレール上に車両を自立させる(わかりやすく言えば、回転するコマが直立する原理の応用による)ブレナン式モノレールシステムも登場したが、安全面に難があり、試験線がつくられるにとどまった。

このように、跨座型はレール上にまたがり、直立させるときにバランスを取らなければならないという本質的な課題に直面する。一方、懸垂型は車両の重心が走行面より下にあり、おのずとバランスが取れる。そのため、懸垂型モノレールが先行して技術的な確立をみることになる。

古典的な懸垂型モノレールの代表的な技術としては、ドイツ人技師のオイゲン・ランゲンが開発したランゲン式モノレールが知られている。この方式が採用されたのが、ドイツのヴッパータール空中鉄道である。1901年3月の開業後、今日まで120年以上の長きにわたって営業を継続しており、現存する中でも世界最古のモノレール営業路線となっている。

  • ヴッパー川上を行くヴッパータール空中鉄道の車両(写真 : PIXTA)

ヴッパータールにモノレールが建設されたのには、一般の都市とは異なる特殊な事情があった。市街地がヴッパー川沿いの狭い谷間に広がっており、新たな鉄道用地を確保するのが困難だったため、川の上の限られた空間に交通機関を敷設しなければならなかったのである。

このヴッパータール空中鉄道が成功したことで、懸垂鉄道を建設しようという動きが各国で広がっていった。

■戦前、日本でも懸垂型モノレールの計画が多数存在した

こうした懸垂型モノレールに関する情報を当時の日本の雑誌も伝えている。筆者が把握している中で最も古いのは、1908(明治41)年6月の「帝国鉄道協会会報」に掲載された「伯林(ベルリン)市内懸垂鉄道の試設」という記事である。

  • ベルリン市内懸垂鉄道の試設(出典 : 「帝国鉄道協会会報」1908年6月号)

当時、ベルリンにはすでに高架式の市内鉄道があり、地下鉄も一部は開通済みで、路線の拡張も行われていた。しかし、それでも輸送需要に追いつかず、狭隘な市街地に適する交通機関として、ヴッパータールで実績のある懸垂型モノレールを導入することを計画。「計画線路中最も狭隘にして交通頻繁なるローゼンタール街に(中略)単軌懸垂式複線の一部を試設せしめた」という内容で、その外観が図示されている。

その後、1923(大正12)年6月の「科学画報」には、「ニューヨークで計画中の宙乗鉄道」という記事が掲載されている。さらに1925(大正14)年6月の「電氣」には、「空中鉄道=プロペラーで単軌を走る電車」と題して、フランスの「レールプレーン」構想を紹介する記事が掲載されている。車体の前部に取り付けられた飛行機のプロペラによって高速推進する車両を「鉄道と飛行機を合体させた乗り物」という意味で「レールプレーン」と呼んだのである。1時間に60哩(マイル)の速力というから、キロメートルに換算すると約97km/hとなる。

これらベルリン、ニューヨーク、パリの懸垂鉄道計画はいずれも日の目を見ることはなかったが、前出の雑誌等を通じて、早くも明治末頃には、懸垂鉄道の存在が日本の一部の人々の知るところとなったのである。

そして、ヴッパータール空中鉄道の成功を知った人々によって、「単軌鉄道」「懸垂鉄道」「飛行鉄道」といった名目で懸垂鉄道の免許申請が行われた。わかっているだけでも、十指に余る申請が、戦前期に行われたのである(いずれも却下または取下げ)。

その中には、現在の京成上野駅付近から動物園に至る「上野懸垂電車」(1928年11月申請)といったものもあった。いわば、後の上野懸垂線のロングバージョンである。その他、新宿を起点に小田急線と並行して西進し、途中から南下して平塚に至る「日本飛行鉄道」(1929年3月申請)という壮大な計画や、熱海から宇佐美、伊東を経由して梅木平までを結ぶ、「日本版レールプレーン計画」ともいうべき「日本遊覧飛行鉄道」(1931年3月申請)といったものもあった。

これら戦前期における日本のモノレール計画も、残念ながら実現に至ったものは皆無だった。弱小資本による申請が大半だったことや、海外でもヴッパータール空中鉄道がほぼ唯一の成功事例だったことから、監督官庁としても慎重にならざるをえなかったことなどが理由として挙げられよう。

■戦後再び脚光を浴びたモノレール、上野懸垂線の建設へ

ヴッパータール空中鉄道が建設された後、半世紀もの間、世界中のどこにも本格的な交通機関としてのモノレールが建設されることはなかった。ところが、戦後の高度経済成長期に、諸外国と比べて道路の許容量の面で十分とは言いがたい我が国において、モノレールが再び脚光を浴びるようになったのである。

1952(昭和27)年に13万台だった都内の自動車台数は、1960(昭和35)年に61万台まで急増。日本の都市の道路は、自動車があふれかえるようになり、地上を走る路面交通と分離した交通手段の導入が喫緊の課題となった。選択肢としては、「地下鉄」「米国等の都市で見られる高架鉄道」「モノレール」の3つがあった。

このうち、本命は地下鉄だった。なんといっても輸送量が大きく、ひとたび完成すれば、路面交通をまったく妨げることがない。しかし、地下鉄の建設には巨額の費用がかかる。1958(昭和33)年8月、東京都交通局は都営地下鉄1号線(現・都営浅草線)の建設に着手したが、その費用は1kmあたり約45.3億円にものぼった。したがって、地下鉄はその対象を幹線に絞らざるをえなかった。

では、高架鉄道はどうかというと、土地の狭い日本においては、都市部で大きな構造物を設置する用地の確保は難しく、日照権などの問題も懸念された。

その点、モノレールは一般の鉄道線路にあたる軌道桁と、それを支えるスリムな支柱を設置するだけで良かった。建設費用は地下鉄の4分の1程度で済むと試算され、日照権などの問題も少ないとされた。ただし、輸送量が中規模に限られることもあり、地下鉄を建設するほどの需要が見込めない2次的な交通機関として期待されたのである。

  • 懸垂鉄道敷設免許下付について(出典 : 運輸公報)

  • 上野懸垂線、開業時の出発式(提供 : 東京都交通局)

このような事情から、来たるべき新時代の都市交通としてモノレールが検討されることになり、その試験線として上野懸垂線が建設されることになった。『東京都交通局50年史』には、「都内の路面交通の緩和策として懸垂電車の試験的建設が昭和31年7月3日庁議によって決定され、上野動物園内に建設されることになった」とある。

その決定から1年半後の1957(昭和32)年12月、上野懸垂線が地方鉄道免許により開業した。それまで遊園地内の遊戯物としてつくられたモノレールはあったが、「地方鉄道」として開業したのは初めてだった。

■サフェージュ式など台頭、上野懸垂線は「過去の技術」に

上野懸垂線は、ヴッパータール空中鉄道のランゲン式をベースに、騒音低減の観点からゴムタイヤを採用するなど改良を加えた。「上野式」とも呼べる独自の方式で、東京都交通局の他に日本車輛製造(日本車両)、東京芝浦電気(現・東芝)が技術開発にあたっており、国産技術にもとづくモノレールと位置づけられている。

このランゲン式・上野式には、共通する大きな欠点が2つある。ひとつは横風等に弱く、横揺れ時に車体を吊っている懸垂腕と軌道が接触しないよう、車体の大きさに比して不釣り合いに大きく、しかも湾曲した懸垂腕にしなければならない。これが重量増、空気抵抗になるのは当然である。また、単純に横揺れを押さえようとすると、カーブ走行時の振り子運動をも制限することになり、その調整には特殊なしくみが必要となる。

もうひとつの欠点は、複線にする場合に軌道桁を支える支柱をT字型にしたとき(道路の専有面積を小さくするにはこれが望ましい)、懸垂腕が左右非対称であることから、終点駅でそのままスイッチバックして上り線から下り線に移すことができず、転轍機(ポイント)で方向転換させようとすると、かなり複雑で大がかりなものになってしまうことである。そのため、ヴッパータール空中鉄道では、路線両端の駅にループ線を設け、方向転換させている。

  • ランゲン式モノレールの転轍機。本線終端のループから車庫線への分岐(出典 : 『モノレールの技術的諸問題』三木忠直)

上野懸垂線は単線で1編成のみの往復運転であり、この欠点は問題にならなかったが、もし上野式で実用線を建設するのであれば、やはり両端をループにするしかなかったであろう。

こうしたランゲン式・上野式の欠点を解決する方式が、その後間もなく登場している。横揺れに対応する「水平ダンパー」を取り付け、左右対称の特殊な懸垂リンクを採用したサフェージュ式モノレールである。

  • サフェージュ式モノレール(湘南モノレール)の転轍機は、ランゲン式よりも小さく実現可能

  • ランゲン式モノレールとサフェージュ式モノレールの比較(提供 : 湘南モノレール)

サフェージュ式は、ルノー、ミシュランなどフランスを代表する企業の協力の下、当時のフランスの技術の粋を集めて開発された新方式であり、1960(昭和35)年にフランスのオルレアン市郊外のシャトーヌフに試験線がつくられ、試験走行が始まった。この試験線は映画『華氏451』に登場するので、ご存知の方も多いだろう。特殊懸垂リンクの採用に加え、ゴムタイヤがケーソン型(箱形)の軌道内を走行するため、低騒音かつ登坂力が高く、さらに風雨雪にも強いという特徴も兼ね備えるなど、「懸垂型モノレールの決定版」とも評された。

日本では、1962(昭和37)年に三菱グループがサフェージュ社と提携し、技術導入することを決めた。また、これより先の1960(昭和35)年には、日立製作所が西ドイツ(当時)のアルヴェーグ社と提携し、跨座型のアルヴェーグ式モノレールの導入を決めている。アルヴェーグ式は、後に東京モノレール羽田空港線などで採用された。

このように、上野懸垂線が建設された後、わずか数年の間に、「近代モノレール」とカテゴライズされる技術が次々と我が国にも導入されたのである。さらに1970年代に入ると、新交通システムの検討・実験も本格化した。そんな中、上野式はすでに過去の技術となり、結局、他路線で実用化されることはなかった。だが、上野懸垂線の乗り物としての人気は高く、開業から60年以上の長きにわたり、運行が続けられた。

■改めて懸垂型モノレールの魅力を体感してほしい

さて、最後にモノレールに関するお得な情報をお届けしたい。サフェージュ式モノレールを採用した湘南モノレール(大船~湘南江の島間)では、2023年12月末までの期間限定で、「くいしんぼうチケット」(3,000円)というお得なチケットを大船駅窓口で販売している。「1日フリーきっぷ」の引換券と、沿線の飲食店28店舗で利用可能な「食事券」3枚がセットになっている。

  • 湘南モノレールにて期間限定で発売中の「くいしんぼうチケット」

また、湘南モノレールの終点、湘南江の島駅の周辺エリア(江の島島内)では、8月31日まで夏のライトアップイベント「江の島灯籠 2023」が開催されている。

上野懸垂線に乗車することはもはや叶わないが、同じ懸垂型を採用した湘南モノレールにこの夏乗車し、江の島エリアへ出かけるとともに、懸垂型モノレールの魅力を改めて体感してみてはいかがだろうか。その際、筆者の近著『湘南モノレール50年の軌跡』(神奈川新聞社刊)を参考にしていただければ、この上ない喜びである。

  • 『湘南モノレール50年の軌跡』(神奈川新聞社刊)