• (左から)担当当時の吉田正樹氏、小林豊氏、永峰明氏=本人提供

――そのドキュメンタリー性のあるバラエティの集大成が、後に『27時間テレビ』となる『一億人のテレビ夢列島』だったという感じでしょうか。

小林:『ひょうきん(オレたちひょうきん族)』『いいとも』のコンセプトで、24時間をやるという企画ですよね。

吉田:それが87年なので、82年のスタートから5年間の“アーリーいいとも”が、最も『いいとも』らしい『いいとも』だったと思います。

永峰:ちょうど僕は87年までやってたんですよ。『ひょうきん』から佐藤(義和D)・山縣(慎司D)が抜けて、三宅(恵介D)・荻野(繁D)・俺の3人でやることになったので、頭の5年間で『いいとも』を抜けることになりました。

小林:俺も5年間でした。欽ちゃんが半年休みたいと言って、『欽ドン』のところに『夜はタマたマ男だけ!!』が始まって、『所さんのただものではない!』につながって、小堺(一機)の『いただきます』もやることになったんで、もう『いいとも』はできないって話になって。

吉田:その後27年やった人たちに申し訳ないんだけど、このおふたりがいた5年間が未完成だけど最高のドキドキする『いいとも』だったような気がしますね。

■緊急ニュースに生バラエティがどう対応するか

初代プロデューサーの横澤彪氏=永峰明氏提供

吉田:ハプニングとはちょっと違いますが、御巣鷹山の日航機事故のときのこと、小林さん覚えてますか? 火曜日の11時半のニュースで生存者がいたっていう第一報が入ったんですけど、あの日はいつも通りオープニングをやったんですよ。でも、スタッフルームで横澤(彪プロデューサー)さんが電話でエラいケンカしてるから、何だろうと思ったら、「(報道特番を)カットインさせろ」と言われてるんです。でも、横澤さんとしては、やってもいいけど、その後に『笑っていいとも!』なんてできないから、特番に行くならもう全部引き取ってくれっていう闘いをしてたんですよね。それで、テレフォンのセットまで作ったんですけど、タモさんが「報道センターの露木(茂)さーん」って呼んで、結局そのまま特番になったんです。お客さんに謝って、帰した覚えがありますね。小林さんの担当日ですよ。

小林:覚えてないなあ。あの頃は、僕がやってた『夜はタマたマ男だけ!!』が月曜9時からだったんだけど、編成から「JALが墜落したみたいで、番組飛ばしていいですか?」って言われて、放送が飛んだのは覚えてるけどね。

吉田:ほかにも、岡田有希子さんとか、たこ八郎さんとか、有名人の方が急死されたというニュース速報が本番直前に入って、「これ、タモさんに言っといたほうがいいのかな…」って迷うときがありましたよね。

小林:たこちゃんねぇ…(※)。いいニュースだったらいいんですけど、悪いニュースだとタモさんの耳に入っちゃうと、生放送に影響しちゃうこともあるじゃないですか。だから、入れ方がすごく難しかったですよね。

(※)…当時、『笑っていいとも!』にレギュラー出演していた。

吉田:テレビの前の人は知ってるわけだから、タモリさんが知らないで変なことを言っちゃったら失礼ですからね。もちろんタモリさんの仕切りはいつも完璧でしたが。

次回予告…タモリの柔軟性&適応能力によって長寿番組に

●小林豊
1951年生まれ、静岡県出身。専修大学卒業後、74年に制作会社・フジポニーに入社。80年に制作部門を復活させるフジテレビジョンに転籍。『欽ドン!』シリーズや『笑ってる場合ですよ!』『笑っていいとも!』『ライオンのいただきます』『所さんのただものではない!』などを担当し、92年営業局に異動。営業局長、スポーツ局長、取締役を経て、09年から19年までテレビ静岡社長を務めた。21年に旭日小綬章を受賞。

●永峰明
1954年生まれ、東京都出身。制作会社・フジポニーにアルバイトから入り、80年に制作部門を復活させたフジテレビジョンに転籍。『THE MANZAI』『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも!』『冗談画報』などを担当し、89年に退社。フリーの演出家として活動し、東京NSCの講師、『キングオブコント』の審査員も務める。13年からワタナベコメディスクールの講師を務め、同事務所のライブの監修を行い、芸人育成を担当している。

●吉田正樹
1959年生まれ、兵庫県出身。東京大学卒業後、83年にフジテレビジョン入社。『笑っていいとも!』『夢で逢えたら』『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』『笑う犬の生活』『ネプリーグ』『トリビアの泉』などを制作し、編成制作局バラエティ制作センター部長、デジタルコンテンツ局デジタル企画室部長も兼務。09年にフジテレビを退職、吉田正樹事務所を設立し、ワタナベエンターテインメント会長に就任(現職)。