金網に囲まれた八角形の戦場「オクタゴン」を用いてUFCの第1回大会が開かれたのは、29年前のこと。「最強の格闘技」を決めるべく、実現不可能と思われていたほぼノールールの闘いが実際に行われたのである。

  • 「ホイス・グレイシーって何者だ?」 29年前のアルティメット大会の衝撃! あの日から総合格闘技は始まった─。

    1993年秋、世界中の格闘技ファンに衝撃を与えたホイス・グレイシー。(写真:真崎貴夫)

果たして、最強の格闘技とは何なのか…ファンは固唾を飲んで見守る。戦前の予想通り目を覆いたくなるような凄惨なファイトが続いた。そして、大会は予想外の結末を迎える。最後まで生き残りトーナメント優勝を果たしたのは、対戦相手に一滴の血も流させなかった当時無名の男、ホイス・グレイシーだったのだ。

■ホリオンの挑発的呼びかけ

あの日の衝撃は四半世紀以上経ったいまも、忘れることなどできない。
1993年11月12日(現地時間)、米国コロラド州デンバーにあるマクニコルアリーナで開催された『第1回ジ・アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ(UFC)』。日本では当時、「アルティメット大会」と呼ばれた格闘技イベントだ。

「最強の格闘技は何か?」
1980年代から90年代にかけて、このテーマに関する論争はさまざまなところで繰り広げられていた。
ボクシング、キックボクシング、極真カラテ、相撲、柔道、レスリング、サンボ、テコンドー、カンフー、そしてプロレス…数多くある格闘技の中で何が一番強いのか─。
このテーマの答えは、永遠に導き出されないと思われていた。なぜならば、それぞれの格闘競技でルールが異なるために客観的比較ができなかったからだ。

だが、一人のブラジル人が米国で高らかにこう宣言した。
「一対一で男が向き合った時、もっとも有効な戦闘技術を有する格闘技は何か? それを、ハッキリとさせたい。バーリ・トゥード(ほぼノールール、体重制限なし、時間も無制限での闘い)で、それを決めようじゃないか。これが、最強を決める公平なルールだろう。
もちろん、危険で苛烈な闘いだ。それを恐れる者は出てくる必要はない。だが我こそが最強だと言うのであれば、この大会に出て実力を証明すべきだ。名乗りを上げてくれ」

優勝賞金5万ドルのトーナメントを開催すると宣言したのは、ホリオン・グレイシー。『UFC』の第1回大会を彼は、広告代理店役員だったアート・デイビーとともに企画、米国の格闘技専門誌に広告を掲載し出場選手を募った。
この挑発的な呼びかけに、レスリングや柔道の五輪メダリスト、ボクシングの世界チャンピオンらは興味を示さなかった。それでも多くのファイターが呼応する。その中から8人が選ばれた。
トーナメントに参加し歴史に名を残した勇気ある8人のファイターは、次の通り(競技は、主催者から当時発表されたもの)。

ケン・ウェイン・シャムロック(米国/シュートファイティング)
パトリック・スミス(米国/テコンドー)
ホイス・グレイシー(ブラジル/グレイシー柔術) アート・ジマーソン(米国/ボクシング)
ケビン・ローズイヤー(米国/キックボクシング)
ジーン・フレイジャー(米国/カラテ)
ジェラルド・ゴルドー(オランダ/サバット)
ティラ・トゥリ(米国/相撲)

  • UFC初期の会場風景。「危険過ぎる」として米国の多くの州が開催を認めない状況下、第1、2回大会がコロラド州デンバー、第3回大会はノースカロライナ州シャーロットで行われた。(写真:真崎貴夫)

■「私より10倍強い兄さんがいる」

シャムロックは、この年に旗揚げしたパンクラスに参戦していた。ローズイヤーは全日本キックボクシングの日本武道館大会でドン・ナカヤ・ニールセン(米国)をKOするなど活躍、ゴルドーは極真カラテの世界大会、リングスなどに出場していた。だが、彼ら以外の選手は日本でも無名。いかなる展開になるのか、誰が優勝するのかを予想するのは難しかった。

トーナメント戦はすべて、ほぼノールール(目潰し、噛みつき、金的のみ禁止)、時間無制限の闘い。凶暴なファイトで場内に恐怖を感じさせたのは、ゴルドーだった。
1回戦から素手で顔面を殴り蹴りまくる。トゥリ(大相撲元幕下・高見州)の前歯を折り、目から出血させた。僅か26秒の公開処刑。準決勝では巨漢のローズイヤーを膝蹴り、肘打ちで袋叩き、最後は戦意を喪失した彼の腹部に右踵を突き刺し1分足らずで試合を終えている。

ゴルドーは、非情な格闘機械と化し、惨劇を引き起こすことに悦びを感じているように見えた。その闘い模様は、文字通りのバイオレンス。

迎えた決勝戦。
ゴルドーの相手は、もう一方のブロックから勝ち上がったホイス・グレイシー。白い道衣に身を包むも、一見して強さが感じられない出場選手中最軽量の細身の男だった。
両者がオクタゴンの真ん中で対峙した瞬間、観る者のほとんどは当時無名のホイスが、ゴルドーの凶暴ファイトの餌食になると思ったことだろう。

だが、開始から1分59秒後に勝ち名乗りを上げていたのはホイスだった。 ゴルドーにタックルを仕掛けてグラウンドの展開に持ち込むと、ホイスはアッサリとチョーク(裸絞め)を決めた。直後に凶暴ファイターは力なくマットを叩いていたのだ。
傷一つない顔で、ホイスは言った。
「私が強いのではない。グレイシー柔術のテクニックが優れているのさ」

  • 2000年5月1日、東京ドーム『PRIDEグランプリ決勝大会』でのグレイシー・トレイン。一族の団結を示すこの入場シーンは『第1回UFC』から見られた。(写真:真崎貴夫)

世界中の格闘技ファン、関係者がどよめいた。
「ホイス・グレイシーとは何者だ?」
「グレイシー柔術って何だ?」
いまとなっては改めて説明する必要もないが、ホイスは大会主催者ホリオンの弟でエリオ・グレイシー家の六男。この大会までプロとして闘ったことは一度もなかった。
そんな彼は、こうも言った。
「兄弟の中では、それほど強い方じゃない。私よりも10倍強い兄さんがいる」
ヒクソン・グレイシーのことである。

この瞬間から、グレイシー柔術は「最強の格闘技」と称されるようになった。そして、多くの者が柔術を学び、総合格闘技の基礎が築かれるに至るのである。
ところで、『第1回UFC』になぜグレイシー一族は、最強のヒクソンではなくホイスを送り込んだのか?
次回、『ヒクソンではなくホイス・グレイシーが『第1回UFC』に出場した理由─。』に迫る。

文/近藤隆夫