新渡戸稲造(にとべいなぞう)は江戸時代末期に生まれ、国際人として明治・大正・昭和と激動の時代を生き抜いた教育家・農政学者です。また、1984年から2007年まで5,000円札の肖像画に使われていた人物でもあります。

この記事では、5,000円札の顔として親しまれた新渡戸稲造が何をした人なのか、その人物像や主な功績、名言などを紹介します。

  • 新渡戸稲造とは誰か?

    新渡戸稲造(にとべいなぞう)について解説します

新渡戸稲造(にとべいなぞう)とは?

新渡戸稲造(にとべいなぞう)は幕末から昭和にかけて、日本の近代化に尽力した偉人のひとりです。1862年に現在の岩手県にあたる盛岡藩で、武士の家系に生まれました。

新渡戸稲造の名著『武士道』

1900年に新渡戸稲造が英語で執筆した『武士道』は英語圏にとどまらず、ドイツ語やポーランド語など7か国語に訳されています。新渡戸稲造は「日本の道徳思想の根本には武士道がある」として、 "日本と日本人"について海外へ発信しました。

国際連盟の初代事務次官として活躍

『武士道』の著者として国際的に知られるようになった新渡戸稲造は、1920年に国際連盟が設立されると、事務次官のひとりとして選任されます。7年もの間、事務次官を務めた新渡戸稲造は、国際組織の土台固めに貢献しました。

新渡戸稲造がお札の肖像になっていたのはいつまで?

新渡戸稲造は、1984年から2007年まで発行されていた5,000円札の肖像画に使用されています。新渡戸稲造の5,000円札は現在でも紙幣として有効ですし、銀行で両替することも可能です。

お札の価値については、比較的近年に発行されていたことや、20年もの長きにわたって相当数の紙幣が流通していたことから、希少価値は薄いため、残念ながら基本的には額面通り5,000円の価値しかありません。

2024年に発行される新紙幣には、現在の樋口一葉に代わり津田梅子の新札が登場します。新渡戸稲造が描かれた5,000円札を見つけたら記念に取っておいてはいかがでしょうか。

花巻新渡戸記念館で新渡戸稲造のルーツを知ろう

新渡戸稲造のルーツは現在の岩手県花巻にあります。新渡戸稲造の祖先は1598年から約230年もの間、この地に居住していました。

花巻新渡戸記念館には、生涯を国際平和と教育に尽くした新渡戸稲造の功績についてはもちろん、新渡戸稲造のルーツを探る新渡戸家ゆかりの品々も展示されています。

新渡戸稲造の歴史

世界を舞台に活躍した新渡戸稲造。ここでは、新渡戸稲造がどのような生涯を送ったのか、意外と知られていない足跡を紹介します。

武家の子として生まれる

新渡戸稲造は1862年の江戸末期に、現在の岩手県にあたる盛岡藩の武家の三男として生まれました。幼少期より武士として育てられたことは、のちの新渡戸稲造に大きな影響を与えます。新渡戸稲造は5歳の時に父を亡くしてから、動乱の世に巻き込まれていきます。

1868年に起こった戊辰戦争で会津藩とともに戦った盛岡藩は、天皇に逆らう賊軍の汚名を着せられました。そして明治維新とともに、武士階級は消滅します。

新渡戸稲造の母は「わが子を世に出すためには学問で身を立てさせるしかない」と考え、東京にいる叔父の養子として新渡戸稲造を送り出しました。

1871年にわずか9歳で上京した新渡戸稲造は、叔父のもとで勉学、特に英語の勉強に励みます。13歳になると、東京大学の前身のひとつとして開設間もない東京外国語学校の英語科に進み、アメリカ人教師のもとで英語を学びました。

札幌農学校へ進学

1877年、15歳になった新渡戸稲造は東京外国語学校を退学し、札幌農学校の第二期生として入学します。

札幌農学校は「少年よ大志を抱け」の名言で知られるクラーク博士らによって、アメリカの農科大学をモデルとして設立されました。札幌農学校では、農学をはじめとするほとんどの授業が英語で実施され、当時の日本では最先端の大学でした。

新渡戸稲造は東京外国語学校でともに学んだ、のちにキリスト教思想家として活躍する内村鑑三らを連れ立って札幌農学校に進学します。そこでキリスト教の洗礼を受けた新渡戸稲造は、クリスチャンとなりました。

東京大学在学時にアメリカ留学を決意

新渡戸稲造は札幌農学校を卒業すると、北海道庁に勤務したのち、さらに高い教育を求めて現在の東京大学にあたる帝国大学の選科生として英文学科に入学します。その面接試験の際、教授から「東京大学で英文学をやってどうするつもりか」と聞かれ、「太平洋の橋になりたい」と答えたという話は有名です。

新渡戸稲造は英文学とともに、農政学研究のため経済学や統計学を学びますが、その研究レベルの低さに失望し、退学を決めます。新渡戸稲造はより進んだ農政学を学ぶため、アメリカ留学を決意しました。

1884年にアメリカのジョンズ・ホプキンス大学に留学した新渡戸稲造は、そこで農政学をはじめ、経済や歴史、英文学など最先端の学問に触れます。新渡戸稲造の興味関心は、次第に農学から国際社会へと変化していったのです。

国際結婚の先駆者となる

キリスト教を信仰していた新渡戸稲造は、留学先でクエーカー派の集会に通うようになり、のちに妻となるアメリカ人女性のメリー・エルキントンと出会いました。

母校である札幌農学校の助教授に任命された新渡戸稲造は、農政学の研究のためドイツ留学を命じられます。新渡戸稲造はジョンズ・ホプキンス大学を中退してドイツに渡りますが、その期間もメリーとの文通を続けていました。

そして新渡戸稲造が28歳、メリーが33歳の時、エルキントン家からの強い反対を押し切ってフィラデルフィアで結婚しています。

札幌農学校の教授になる

7年間の留学を終え、メリー夫人とともに帰国した新渡戸稲造は、札幌農学校の教授となり、多忙な日々を送っていました。1892年には一子となる遠益を授かりますが、生後1週間余りで亡くすという不幸に見舞われます。

夫婦は亡き子どもに思いを馳せ、1894年に勤労青少年のための夜学「遠友夜学校」を設立します。遠友夜学校では、札幌農学校の生徒が中心となって教師を務め、授業料や教科書は無料と完全なボランティアで運営されました。

1897年、35歳になった新渡戸稲造は札幌農学校の教授として多忙を極め、ついに過労から「脳神経症」と診断されてしまいます。その後、農学校を休職して、アメリカのカリフォルニアで療養生活を送りました。

新渡戸稲造は『武士道』をアメリカで出版

カリフォルニアで療養中だった新渡戸稲造は1900年、英語で書き上げた『武士道』(原題:Bushido:The Soul of Japan)を出版。

『武士道』は日本思想の理解に役に立つとして、1904年に起きた日露戦争の和平交渉を仲介したルーズベルト大統領もこれを読み、感銘を受けたとされています。

日本と世界の架け橋として

新渡戸稲造は1901年に台湾総督府の技師となり、台湾の糖業奨励を推進しました。1903年には京都大学の教授を兼任するようになり、東京大学をはじめとする各大学でも教鞭を執ります。

また、当時の日本が立ち後れていた女子教育にも尽力し、1918年には東京女子大学の初代学長に就任しました。さらには女子教育の先駆者とされる津田梅子が1900年に設立した、現在の津田塾大学にあたる女子英学塾においても、新渡戸稲造は顧問を務めています。

第一次世界大戦が終結した1920年、新渡戸稲造は創設されたばかりの国際連盟の事務次長に就任。スイスのジュネーブに滞在し、世界平和のため国際間の架け橋として活躍しました。

しかし、日本はアメリカをはじめ海外との情勢が次第に悪化。1933年に国際連盟からの脱退を表明しました。日本が世界から孤立を深める中、新渡戸稲造はなんとか平和の道を模索します。

日本の国際連盟の脱退表明と同年、新渡戸稲造はカナダで行われた太平洋会議に出席します。しかし病に倒れ、カナダで71歳の生涯を終えます。

  • 新渡戸稲造とは誰か?

    新渡戸稲造は「太平洋の架け橋になりたい」という志を持ってジョンズ・ホプキンス大学に留学しました

新渡戸稲造の功績

明治維新により、ますます近代化の道を歩んでいた日本は、欧米の学問や思想を積極的に取り入れていました。医学や科学技術、文学、法学など各分野において、多くの日本人が海外で学んだ知識を日本に持ち帰ることで、日本の近代化を推し進めていたのです。

しかし、新渡戸稲造のように生涯にわたり、日本や日本人の精神を海外に発信し続けた人はそう多くはありませんでした。

『武士道』を通じて日本の道徳思想を発信

新渡戸稲造が1900年にアメリカで出版した『武士道』では、日本人はキリスト教という信仰は持たないけれども、強い道徳思想と倫理観を備えていること、その道徳根本には武士道があるとする武士道の内容を西洋人にもわかりやすく説明しています。

1904年の日露戦争では、日本が大国ロシアを相手に戦争を挑んだこともあり、世界から日本への関心が高まっていました。そのため、新渡戸稲造の『武士道』は、ドイツ語やフランス語、ポーランド語、ロシア語、イタリア語、スペイン語など各国の言葉に翻訳され、世界に広まっていったのです。

日米の架け橋として相互理解に努めた

新渡戸稲造は日露戦争終結後、日米関係が悪化しつつあった中で相互理解を深めるため、1911年に初の交換教授としてアメリカに渡り、6大学で講義を行いました。

新渡戸稲造は日本の地理や歴史、宗教や教育、経済、そして日米関係についてなど、広範にわたる講義をしています。その講義内容はすぐに『日本国民』という書物にまとめられ、出版されました。それは、のちにアメリカの日本研究において重宝されることとなります。

国際連盟の事務次長として国際組織の土台固めに貢献

新渡戸稲造が事務次官に選ばれた当時は、国際連盟が発足したばかりで、かつアメリカが参加しなかったため、多くの国々から遂行能力を疑問視されていました。その中で新渡戸稲造は、国際連盟を代表して精力的に活動を続けます。

新渡戸稲造が特に力を注いでいたのが、国際間の教育や文化の交流、そして国際平和に貢献する知的協力委員会の設立でした。この知的協力委員会は、1945年の第二次世界大戦後の国際連合においても、ユネスコとして引き継がれていきます。

  • 新渡戸稲造の功績

    新渡戸稲造らがつくり上げた国際連盟の思想は今日にも継承れています

新渡戸稲造の名言

新渡戸稲造は多くの書物だけでなく、数多くの名言も残しています。中でも、今を生きる私たちとっても参考になる名言を紹介します。

われ太平洋の橋とならん

札幌農学校を卒業後、北海道庁に勤務していた新渡戸稲造は、さらに勉学を積もうと東京大学の英文科への入学を志します。その面接試験の際に「東京大学で何を勉強するつもりか」と聞かれ、新渡戸稲造は「農政学はまだないようなので、そのために必要となる経済学や政治学を学びたい。それから英文学も学びたい」と答えました。

さらに面接官の教授に「英文学をやってどうするのか」と返され、「太平洋の橋になりたい」と答えた言葉が、今日まで残る新渡戸稲造の名言となっています。

武士道は知識を重んじるものではない。重んずるものは行動である『武士道』

新渡戸稲造は、自身が著した『武士道』を日本の倫理道徳として西洋に紹介していますが、特に強調したのが、上記に名言として挙げた思想です。

人生においては、知識を得ること自体が目的ではなく、その知識を実践=行動することが大切であるという意味が込められています。

この新渡戸稲造の解釈には、幼い日に学んだ王陽明の「知行合一」における、行動を伴わない知識は未完成であるという思想が根底にあります。

われわれのすべての働きは理想を実現せんためで、 理想なしにぶらぶら流れのまにまに活(い)きていることは存在するというだけで、 人間の生活をしているとは言いがたい。 ことばを換えていえば、 人間の生活なるものは理想を実地に翻訳することになりはせぬか。『自警録』

7年間務めた国連事務次長の職を退任した新渡戸稲造が、次代を担う人々に向けて平易な口調で語った『自警録』にある一文です。新渡戸稲造は、理想を持つことの大切さと、その理想を生活の中の"行為"として実現させていくことの重要性を説いています。

理想と実際の生活を分けて考えがちな今の私たちにとっても、胸に刻んでおきたいき言葉かもしれません。

  • 新渡戸稲造の名言

    新渡戸稲造が残した名言は、今を生きる私たちにも気づきを与えてくれます

今こそ学びたい新渡戸稲造のグローバリズム

新渡戸稲造は、江戸・明治・大正・昭和と日本における激動の時代の中で、国際人として日本と世界の架け橋であろうと努力を続けた人物です。

新渡戸稲造が生きた時代よりもはるかに進歩している今日では、衛星放送やインターネットを介して、世界の情報がリアルタイムで知ることができます。また、翻訳ツールを利用すれば、語学や知識を簡単に得ることができるようになりました。

国境の垣根を越えて、世界の一体化を目指すグローバリズムが加速する今だからこそ、日本で最初の国際人として活躍した新渡戸稲造の功績や思想、名言を知ることは、現代を生きる私たちに必要なことなのかもしれません。

新しい5,000円札に印刷される津田梅子とともに、日本という国を世界に発信した新渡戸稲造が何をした人なのか、しっかり理解しておくといいでしょう。