板垣退助(いたがきたいすけ)が幕末から明治時代にかけて政治の世界で活躍した人物ということはなんとなく知っていても、くわしい功績やエピソードなどを把握していない人は多いかもしれません。

この記事では、板垣退助の人物像や功績などを解説します。また、板垣退助が残した名言や板垣退助と関連の深い人物についても紹介するので覚えておきましょう。

  • 板垣退助とは?

    板垣退助(いたがきたいすけ)の功績や名言などを紹介します

板垣退助(いたがきたいすけ)とは?

板垣退助は、主に幕末から明治時代において活躍した政治家です。現在の高知県である土佐で1837年4月17日に武士の長男として生まれ、土佐藩の武士としても活躍しました。「自由民権運動」を先導したことでも知られる存在です。

戦国時代の名将「板垣信方」の子孫

板垣退助の先祖のひとりに、戦国時代の有名な武家「武田家」の家臣であった板垣信方がいます。板垣信方は、武田四天王のひとりであると同時に「武田二十四将の一」にも数えられる名将です。なお、板垣退助は板垣信方より数えて十二世孫にあたります。

坂本龍馬とも接触があった

板垣退助は、倒幕の立役者として活躍した坂本龍馬とも接触があったとされています。1867年、坂本龍馬がライフル銃を積んで浦戸へ入港する際に渡辺弥久馬という人物に宛てた手紙に「乾(板垣)氏はいかがに候や。早々拝顔の上、万情申述度」と記載されていました。

「乾」とは板垣退助の改名前の姓であり、坂本龍馬の手紙の中に板垣退助の名前が登場していることから、2人の人物は少なからず交流していたと考えられます。

板垣退助はお札にもなっていた

板垣退助は、1953年(昭和28年)から1974年(昭和49年)までに発行された100円札に肖像画が描かれていることでも広く知られています。表面には板垣退助が描かれ、裏面には国会議事堂が描かれているのが大きな特徴です。発行はすでに停止されているものの、現在も通過として使用することが可能です。

  • 板垣退助とは?

    板垣退助は戦国時代の名将の子孫で100円札にも登場した人物です

板垣退助がしたこととは

板垣退助は戦国時代の名将の子孫であり、幕末の政治家として名高い坂本龍馬とも交流があったようです。ここでは、板垣退助とは具体的に何をした人なのか、その功績について解説します。

西郷隆盛と薩土密約を締結

土佐藩の武士の家系生まれた板垣退助は、20代の頃は藩主の側用人などをつとめていました。しかし、江戸幕府の将軍・徳川慶喜が政権を明治天皇に返上する大政奉還を行い、その平和的な倒幕に賛同した土佐藩と対立。板垣退助は、次第に武力で幕府を倒そうとする討幕派の考えに同調していきます。

板垣退助は1867年5月、江戸から帰藩する途中に中岡慎太郎の仲介で、京都にて西郷隆盛と薩土密約を結びます。帰藩後は挙兵の準備を進め、後に始まる戊辰戦争に備えました。

戊辰戦争(ぼしんせんそう)

1868年1月、大政奉還後も徳川慶喜率いる旧幕府軍が権力を保持し続けていたことに不満を持った薩摩、長州、土佐藩などを中心とする新政府軍が、武力で旧幕府軍を倒すため1年半に及ぶ「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」を始めます。

板垣退助はこの時31歳で、土佐藩を率いて大垣や信州・甲府のほか、若松や会津などの旧幕府軍であった藩を追討し、11月に帰藩しました。

なお、会津攻略の際に武士が戦っている一方で、多くの民衆が争って逃げ出す様子を目の当たりにしたのをきっかけに、「身分の差なく心を一つに国民が参加できる政治」について考えるようになったと言われています。

自由民権運動

戊辰戦争の後、板垣退助は明治新政府の参議となりますが、鎖国をしていた朝鮮に対して武力で開国を主張する「征韓論」が反対されたこともあり1873年に新政府を去ります。

その後は後藤象二郎らと政治結社「愛国公党」を組織し、国民が政治に参加できる体制を目指して「自由民権運動」を推し進めていきました。

自由民権運動は国民の政治参加を目指した運動で、板垣退助は一部の政治家に独占された明治新政府の政治を批判し、国民の選挙によって国会を開設すべきだと訴えます。その主張は当時の政府に拒否されてしまいますが、板垣退助はその後も自由民権運動に尽力しました。

内閣の内相を務める

1895年、板垣退助は伊藤博文内閣との協力関係を進め、翌年の4月には内務大臣となります。

その後、辞職を経て1898年にも再び内務大臣の職に就きましたが、ほどなくして再度辞職し、政治活動から身を引きました。政治界から退いた後は社会問題に取り組み、83歳で死去するまで機関紙『自由新聞』の創刊や『一代華族論』の公表などを行います。

  • 板垣退助が主にしたこと

    板垣退助は戊辰戦争での活躍や自由民権運動などさまざまな功績があります

板垣退助の名言

板垣退助は、以下のような名言を残したことでも知られています。

板垣死すとも自由は死せず

1882年、板垣退助が45歳の時に岐阜で刺客に襲われますが、その際、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と発言したことが報告されています。また、別の文書には刺客に対して「自由ハ永世不滅ナルベキ」と笑ったとも記録されており、これらの言葉が「板垣死すとも自由は死せず」という表現になって伝わっていきました。

なお、板垣退助はこの時一命を取りとめ、刺客による暗殺は未遂に終わっています。

  • 板垣退助の名言

    「板垣死すとも自由は死せず」という言葉は後世に伝わる名言となっています

板垣退助と関連の深い人物

幕末から明治の時代においてさまざまな功績を残した板垣退助は、同じ時代を生きた歴史上有名な人物との交流も盛んに行っていました。ここでは、板垣退助と関連の深い人物3人をご紹介します。

後藤象二郎(ごとうしょうじろう)

後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は板垣退助と同じく土佐藩士から政治家になった人物で、板垣退助とは幼なじみの間柄でした。義叔父である吉田東洋の富国強兵路線を継承し、推進機関である「開成館」を創立したことで知られています。

明治維新後は新政府にて要職に就きましたが、1873年に征韓論問題がきっかけで参議を辞任。翌年1月には板垣退助らと民選議員設立建白を提出するも、政府に却下されてしまいました。

西郷隆盛(さいごうたかもり)

西郷隆盛(さいごうたかもり)は幕末・明治初期の政治家で、鹿児島藩主であった島津斉彬に見出されたことをきっかけに、全国に広く知られるようになった人物です。坂本龍馬の仲介で長州の木戸孝允(きどたかよし)と薩長連合を結び、勝海舟との会談で江戸城無血開城を実現させたことが主な功績として挙げられます。

板垣退助とは戊辰戦争前に「薩土(さつど)密約」を結び、ともに武力で幕府を倒すことを目指しました。

大久保利通(おおくぼとしみち)

大久保利通(おおくぼとしみち)は明治維新の指導者で、木戸孝允や西郷隆盛とともに「維新三傑」のひとりとされています。

もとは薩摩藩の下級武士の出身であったものの、大老・井伊直弼(いいなおすけ)が幕府に批判的だった勢力を一掃するために行った「安政の大獄」を機に、島津久光の側近として「公武合体運動」を推進し、やがて討幕へと導きました。

1867年12月には王政復古により徳川幕府は消滅し、再び天皇中心の政治に戻すクーデターを成功させ、新政府の内政の中枢を握ります。

その後の1871年には欧米先進諸国を視察しており、イギリスやプロイセンに大きな衝撃を受けたことから、国力充実の必要性を求めました。また、大久保利通が征韓論を退けたことで、西郷隆盛や板垣退助は新政府を去ることとなったのです。

  • 板垣退助と関連の深い人物

    板垣退助と関わった人物を知ることは、板垣退助自体を深く理解することにもつながるでしょう

板垣退助の功績やエピソードを覚えておこう

板垣退助は明治時代の政治家で、現在の高知県である土佐藩にて幕末の1837年に誕生しました。先祖のひとりには戦国時代の有名な武家「武田家」の家臣であった板垣信方がおり、板垣退助は板垣信方より数えて十二世孫にあたります。

主な功績には「薩土(さつど)密約」の締結や「自由民権運動」があり、内閣の内相を務めたことでも知られています。

暗殺未遂事件にあった際の名言が多くの人に知られていたり、かつての100円札に肖像画が使われていたりするほど有名な人物であるため、その功績やエピソードをしっかりと理解しておくといいでしょう。