初代内閣総理大臣として有名な伊藤博文ですが、それ以外にも初代韓国統監に就任するなど、多くの功績を残しています。あまりに著名すぎて、歴史を勉強していると「結局、伊藤博文にはどんな功績があるの?」と混乱するかもしれません。

この記事では、伊藤博文の生涯を見やすい年表にし、どのような功績があるのかを解説します。千円札になったこともある伊藤博文がどんな人なのか、確認しておきましょう。

  • 伊藤博文とは

    伊藤博文は政治家として近代政治の礎を築きました

伊藤博文とは

伊藤博文(いとうひろぶみ、1841-1909)は、幕末から明治時代に活躍した政治家です。

初代の内閣総理大臣となっただけでなく、枢密院(すうみついん)議長を務めるなど数多くの要職にもつきました。日本の近代化を推し進めた人物として、中国の近代化を進めた思想家・厳復と比較されることもあります。

出身は現在の山口県

伊藤博文の出身地は、周防(すおう、現在の山口県)です。農家に生まれるも、父が長州藩の伊藤家の養子となったことから、下級武士の身分になりました。

性格は開けっぴろげで朗らか

伊藤博文の性格は開けっぴろげで朗らかであり、状況によって政治的立場を変えるという柔軟性を持っていたといわれています。

千円札にもなっていた

日本の近代化を進めた伊藤博文は、長らくの間、千円札の肖像画として採用されていました。

発行されていたのは1963年から1986年の約24年間。サイズは現在の野口英世のお札(縦76mm、横150mm)よりも若干幅が広い縦76mm、横164mmで、裏面に日本銀行の外観が描かれています。

この伊藤博文の千円札は大量に印刷・流通したため通し番号が一巡しており、番号とアルファベットを印刷する際のインクが前期のものは黒色、後期のものは青色となっています。

墓の場所は東京・品川

伊藤博文の墓は、居館があった東京都品川区にあります。高さ約2メートルの立派な円墳で、その手前には鳥居が立つ神式の墓です。伊藤博文の墓の隣には、それよりやや小型の夫人の墓が並んでいます。

子孫だと公表しているのは

自由民主党の松本剛明(まつもとたけあき)衆議院議員は、伊藤博文の子孫だと公表しています。伊藤博文の玄孫(やしゃご)、つまり孫の孫に当たります。

  • 伊藤博文とは

    伊藤博文は数多くの要職につき、日本の近代化をすすめました

生涯を年表にまとめると

数多くの功績を残した伊藤博文の生涯を年表にまとめました。

年月日 出来事
1841年9月2日 周防国(すおうのくに・現在の山口県)熊毛郡の農民の子供として生誕
幼名は利助(りすけ)
父が長州藩の下級武士である伊藤家の養子になる
松下村塾において吉田松陰に学ぶ
1862年 イギリス公使館焼き討ちに参加
1863年 井上馨(いのうえかおる)らとイギリスに留学する
1864年 イギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊が長州藩の下関を攻撃した事件(馬関戦争)を機に帰国
講和会議で通訳を務める
1868年 明治政府の外国事務掛になる
1870年 財政・貨幣経済の研究のためアメリカに出張
1871年 岩倉使節団の副使としてヨーロッパに向かう
1873年 帰国して征韓論派を退ける
参議兼工部卿となる
1875年 漸次立憲制の方針を定める
元老院・大審院の創設を決定
1878年 大久保利通の死後、内務卿となる
1881年 大隈重信らを追放する(明治十四年の政変)
10年後の議会開設を決定する
1882年 憲法の調査のためドイツ・オーストリアなどに向かう
1884年 立憲政治に備えて制度取調局を設置し、初代長官に就任
1885年 天津条約を結ぶ
内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣に就任
1886年 憲法草案の作成に着手
1888年 枢密院議長に就任し、憲法草案の審議を行う
1890年 貴族院を開設、初代議長となる
1892年 第2次伊藤内閣を組閣
1894年 日清戦争を行う
1895年 下関条約を結ぶ
1898年 第3次伊藤内閣を組閣
地租増徴案を出すが反対される
朝鮮・中国を視察する
1900年 立憲政友会を結成、総裁となる
第4次伊藤内閣を組閣
1901年 日露協商締結を目指してロシアを訪問するも失敗
1903年 立憲政友会の総裁を辞任
枢密院の議長に就任
1905年 韓国統監府の初代統監に就任
1909年 韓国統監を辞職
1909年10月26日 ロシアの大臣に会うために満州に向かい、ハルビン駅で安重根(アン・ジュングン)に暗殺される
  • どのような生涯だった?

    伊藤博文は4度組閣し内閣総理大臣に就任しました

伊藤博文の主な功績

伊東博文は4度も内閣総理大臣に就任するなど、日本の近代化の中心を担った人物です。

代表的な功績を紹介します。

岩倉使節団に副使として参加

1871年(30歳)の時、伊藤博文は岩倉具視が率いる岩倉使節団の副使に抜擢されます。

岩倉使節団の目的には、以下の3つがありました。

  • 幕末に条約を結んでいた国への明治政府からの挨拶
  • 当時の日本が結んでいた、領事裁判権などを含む不平等条約を改正するための根回し
  • アメリカやヨーロッパの近代的制度や文化などの調査と研究

伊藤博文の他にも、木戸孝允や大久保利通らのほか、津田梅子などの留学生も岩倉使節団に参加していました。条約改正のための交渉には失敗してしまいますが、この出張により伊藤博文は大久保利通の信頼を得ることになります。

李鴻章らと天津条約を結ぶ

1884年、朝鮮において金玉均らが起こしたクーデター、甲申事変が起きました。日本は敵対していた清国の勢力を一掃しようと試みましたが、清国の介入により失敗に終わります。翌1885年に朝鮮国内における2国の勢力を調節するために結んだのが天津条約です。

伊藤博文は日本側の代表として条約締結に貢献しました。清国側代表は李鴻章(りこうしょう)で、互いに朝鮮からの兵の撤退と、もしこれから先朝鮮に出兵する際は互いに事前に通告することなどを取り決めました。

初代内閣総理大臣に就任

伊藤博文は1885年、44歳で初代内閣総理大臣になり、生涯で4度の組閣を行いました。

内閣総理大臣としては、ドイツやオーストリアの憲法を元に欽定憲法(※)を定めることに尽力しています。初代内閣総理大臣に就任後は自宅で草案を練り、その後枢密院にて審議を行い、1889年に大日本帝国憲法が発布されるに至りました。

また、大日本帝国憲法のもとで議会政治を行うにあたり、政党の影響を受けずに議会を運営するという「超然主義」の立場を宣言していました。しかし、第3次伊藤内閣の際に地租増徴案に対して反対され、政党の重要性を知った伊藤博文は立憲政友会を組織しました。

※欽定憲法(欽定けんぽう): 君主が自らの意思によって制定した憲法のこと

韓国の初代統監に就任

征韓論に反対するなど、比較的韓国に対しては穏健派の立場にあった伊藤博文ですが、1905年の第2次日韓協約によって、韓国に日本が設置した韓国統監府の初代統監になっています。韓国の外交を掌握するだけでなく、日本との併合に向けた韓国統治を行いました。

その後、第3次日韓協約を結び、韓国の内政にも日本が干渉できるようにしました。

1907年、オランダのハーグで行われた第2回万国平和会議に韓国の使者が参加し、第2次日韓協約を破棄させようとしたものの叶わなかった事件(ハーグ密使事件)が起きました。伊藤博文はこれを利用して当時の韓国皇帝を退位させ、さらに韓国に不利な条件である第3次日韓協約を結んでいます。

協約の内容には、韓国の内政も日本の指導や監督のもとで行うこと、政府高官には日本人を登用すること、韓国の軍隊を解散させることなどが盛り込まれており、韓国政府だけでなく国民全体から反感を買いました。

1909年に韓国統監を退いた後も伊藤博文への敵対感情はおさまらず、同年ハルビン駅で安重根に銃殺されました。

  • 伊藤博文の功績

    伊藤博文は憲法草案作成を行い、初代韓国統監にも就任しました

伊藤博文は日本の近代化に大きく関わった人物

伊藤博文は初代内閣総理大臣になっただけでなく、内閣制度、大日本帝国憲法を作ることにも尽力しました。内閣による政治の基本を作り上げた人物であると言えるでしょう。

天津条約や下関条約を締結したり、初代韓国統監にも就任したりなど外国との関係構築にも熱心でした。日本の近代化に際し、大きな役割を果たした人物です。