いまから29年前、1992年7月30日。24歳の古賀稔彦は、左ヒザに大ケガを負ったままバルセロナ五輪に出場する。とても試合ができる体調ではなかった。

  • 古賀塾に掲げられた「塾五訓」。古賀稔彦は、背負い投げを武器に五輪で金メダルを獲得するなど柔道界で一時代を築いた。(2005年撮影/真崎貴夫)

本来なら、ドクターストップがかかって然るべき状態。それでも平成の三四郎は闘いに挑んだ、「夢は諦めない、絶対に金メダルを獲る!」と熱い想いを胸に抱いて─。

■試合前に6本の注射を

パラウ・ブラウグラナ(ブラウグラナ体育館)。
決戦当日、柔道競技の会場となったこの建物に、古賀は厳しい表情を浮かべて入った。
パラウ・ブラウグラナは、彼にとって良い思い出のある場所だ。一年前(1991年)にここで開かれた『世界柔道選手権』で、ぶっちぎりの優勝、連覇を果たしている。本当なら、この日、絶対の自信を持っての再訪となるはずだった。

しかし、そうはいかなかった。バルセロナ入りした翌日の練習で古傷があった左ヒザに大ケガを負う。
全治1カ月半以上の重傷。

以降、まったく練習ができず痛みも残したまま。極端な食事制限によって辛うじて計量はパスできたものの、10日間ほとんど動けなかったことで筋力が低下、コンディションは最悪だった。
(青畳の上に本当に立てるのか? 闘えるのか?)
周囲の者たちが、古賀が欠場を申し出ないことに驚きを隠せないほどだったのだ。

「先生、お願いします」
試合前に古賀は、チームドクターから左ヒザ周りに注射を打ってもらう。合計6本。抗炎症剤に痛み止めを加えた非ステロイド系のものだった。その上をテープで硬く固める。

「大丈夫です。勝つ方法はあるはず。絶対に優勝します」
そう言い残して古賀は、闘いの舞台に向かった。

緒戦(2回戦)の相手は、エルサルバドルのバルガス。開始直後から古賀は果敢に攻める。
そして、背負い投げを警戒し腰を引く相手に対して見事な巴投げを決めた。試合時間、僅か20秒。
石承勝(中国)が相手となった3回戦も、有効3つ、小内巻き込みで技ありを奪う判定完勝。続く準々決勝もポイントこそ奪えなかったもののブラハ(ポーランド)に3-0の優勢勝ちを収めた。これでベスト4進出。
「よくやった!」
日本の競技関係者が、そう声をかける。だが、試合場から降りる古賀の表情は強張ったままだった。

■赤旗がサッと2本上がった!

控室に戻り椅子に腰を下ろした古賀は、表情をわずかにゆがめながら言った。
「もう一度、打ってください」

すでに鎮痛剤の効果は失われていて、左ヒザが痛んだのだ。ここで再び注射を打つ。
この時、古賀は思った。
(3試合は何とか凌げた。だが、ここからが勝負だ。もうヒザを庇いながらの闘い方では勝てないだろう。左ヒザが壊れたとしても、イチかバチか一本背負いを仕掛けるしかない)

準決勝の相手は、ドイツのシュテファン・ドット。事実上の決勝戦と目された一戦だ。そのことは古賀もよく理解していた。

古賀は、後先を考えずに勝負に出る。1分過ぎにタイミングを計って踏み込み、右一本背負いを繰り出した。いつものような完璧な動きではない。それでも闘志をあらわにして最後まで投げ抜き豪快に一本を奪った。この時、左ヒザに痛みを感じることはなかった。「足が麻痺していて感覚のない状態」だったという。

ついに決勝に辿り着いた。

青畳の上で対峙したのは、ハンガリーのハイトシュ・ベルタラン。
上手さはあるものの一撃で相手を仕留める技の持ち主ではない。古賀が本来の体調なら苦にせず闘える相手。実際に一年前、この場所で開かれた『世界柔道選手権』準決勝で対戦し古賀は圧勝している。

しかし、ハイトシュは実に老獪な闘い方をした。左ヒザを負傷している古賀は、普段のようには俊敏に動けない。それを見越して、技をかけてはサッと離れる、あるいは、捨て身的に技をかけ青畳に腹ばいになり「待て!」を誘った。一本を狙うのではなく、試合の流れを支配しフルタイム闘う作戦だ。
互いにポイントを奪えないまま、試合時間5分が過ぎた。

試合終了のブザーが館内に響き渡った直後に、ハイトシュはヒザをついたまま両腕を高く上げて勝利をアピールする。古賀は右手の拳を小さく握った。

闘いを見終えた直後、私はどっちが勝ったのかわからなかった。
かけた技の数では、ハイトシュが上回っていた。現在の基準なら「かけ逃げ」の反則とみなされるものも多く含んではいたが。対して、真っ向勝負に出ていたのは古賀の方。ひとつひとつの技に一本に結びつける意図が感じられた。果たして、審判はどう見たのか。

古賀は決戦の10日前に左ヒザに大ケガを負った。その時、組み合っていた吉田秀彦は、この瞬間、お守りを両掌に挟み、生まれて初めて神に祈った。
(どうか古賀先輩を勝たせてください)と。
結果が告げられるまでの時間が、とても長く感じられた。

「判定!」
副審の赤旗がサッと2本上がる。
古賀は両腕を広げ、顔をクシャクシャにして絶叫した。
生死をかけた闘いに挑み生き抜いたのだ。まさに傷だらけの勝利。館内は万雷の拍手と歓声に包まれた。

後に、古賀は言った。
「終わった直後は勝ったという確信はなかった。負けたかもしれないとも思った。ただ、自分に妥協せずやり切ったという気持ちは強くありました」

限りなくドローに近い試合内容だったが、古賀は勝者となり胸に金メダルを輝かせた。それは、自分に嘘をつかない努力を重ね、苛烈な状況に追い込まれても諦めずに闘い抜いたからこそ得ることができた栄光だった。

忘れ難き「バルセロナの奇跡」─。

(『古賀稔彦が感銘を受けた「嘉納治五郎の教え」。柔道とは何か__。』に続く)

文/近藤隆夫