3月11日がまたやってくる。岩手県陸前高田市出身の私には、生涯忘れられない日である。2011年3月11日午後2時46分、東京の自宅は震度5強の揺れが数分間続いた。直後にテレビ画面に映し出されたのは、東日本の沿岸部全域に出された「大津波警報 10メートル以上」の文字だった。
■「とうとう来た!」
全身が凍り付いた。陸前高田は地震多発地帯で繰り返し大きな津波に襲われてきた。まだ私が幼い頃に起きた「昭和35年チリ地震津波」でも大きな被害を受けている。当時の記憶はない。それでも大人たちは口々に「いつかまた大きな津波が来る」と語り伝えてきた。
だが、その波は人々の想像を超えていた。大人たちの頭の中ではチリ地震津波の記憶が大きくなりすぎて、いつしかそれが基準になっていた。津波が来ても、当時はなかった大きな防潮堤が街を守ってくれるはずだった。
3月11日、テレビに次々映し出されたのは、防潮堤をやすやすと越え、巨大な船を押し流し、家々をなぎ倒していく凄まじい大津波だった。チリ地震津波とは比較にならない。
■「陸前高田がやられる!」
この勢いで郷里に津波が襲い掛かったら、私の実家である真宗大谷派寺院・正徳寺にも危機が迫るだろう。標高約40メートルにあるとはいえ、決して安心できる高さではない。 正徳寺の住職である弟・達(僧侶としての名は了達)は、市役所に勤務する公務員でもある。彼とその妻、3人の子どもたちの命が危ない。親族もたくさんいる。だが、東京にいる私には何もできない。絶望しながら画面を見つめるしかなかった。
■防潮堤を越える真っ黒な津波
地震が起きた午後2時46分、了達は市役所にいた。震度6弱の激しい揺れが3分以上も続いた。それが収まると職員はそれぞれ事前に決められていた避難誘導担当地区へと散っていった。了達は、正徳寺に近い小友町両替(りょうがえ)の集落を担当していた。
津波が来ることを予測し、山側の道を通って寺に到着。車を止めると走ってすぐ、標高約10メートルのところにある海側の集落へ向かった。そこの両替公民館が避難先として指定されていたのである。しかし、その時すでに大津波の第一波は両替地区を襲っていた。
●陸前高田市と東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)発生時の津波浸水域
「防潮堤を越えてきたのは真っ黒な津波でした」(了達)
漁師の家が集まる海沿いの集落に残っていたのは高齢者が多かった。自治会長の鈴木勇吾さん(当時74歳)は地震が起きると、家家に声をかけてまわった。了達は、高齢者を手助けしながら逃げる人々を誘導した。
リアス式海岸のため、集落の背後にはすぐ小高い山が迫っている。急勾配の細い坂道を登り、少し降りるとそこは正徳寺の境内だった。だが震度6弱の地震では、標高40メートルある正徳寺でもまだ安心はできない。人々はさらに高い公民館へと避難していった。
■建物が破壊される音、飲み込まれる大地
任務を終えると、了達は家族の無事を確認するため小学校へと自転車を走らせた。地震の発生時刻はちょうど下校時間で、妻子が小学校にいることが予想できた。
一方、正徳寺の坊守(この場合は住職の妻。夫の場合もある)である寿子(ながこ)は地震発生と共に火の元を確認。その後は車で3人の子どもたちを急いで迎えに行った。
小学校の下の空き地に車を停め、校庭に集まっている人たちに合流すると、眼下に壁のような津波が来るのが見えた。小学校も高台にあるが、大津波はその1階まで到達したのである。 「津波だ! 逃げろー!」 という声に押されるように、皆で走って山へ逃げた。建物が破壊される大きな音、真っ黒な波、飲み込まれる大地。寿子が乗ってきた車も流されていった。
「これでは避難誘導に当たっているはずの住職はダメかもしれない。心の中で覚悟しました」(寿子)
住民第一を叩き込まれている公務員の妻の悲しい覚悟だった。だが、学校のみんなで避難した高台の公民館で、ひょっこり夫婦は再会する。二人とも少し前に遭遇した津波の衝撃からか、ボーッとしていたという。
気を取り直すと、二人はすぐにシャッキリと動き始めた。その後、家を失ったたくさんの被災者を正徳寺で迎えなくてはならなかったからである。
(続く)
文/千葉望