3月11日の日暮れが近づいていた。岩手県陸前高田市を襲った大津波は、一瞬にして松並木も家並みも押し流していった。水が引いた後には瓦礫だけが残った。あたりは停電し、真っ暗になってしまう。正徳寺の住職夫妻、千葉了達と寿子は急いで寺の庫裏を開放した。

  • 正徳寺住職・千葉了達さんと坊守・寿子(ながこ)さん(2011年3月28日、撮影:今村拓馬さん)

■停電下で旧式ストーブが活躍

浄土真宗系の寺院では「お講」という行事を大切にする。門徒(信徒)が集まって料理を作り、共に飲食し、布教師や住職の法話に耳を傾け、お経を唱える。そのため庫裏の台所は広く、設備が整っていた。たくさんの食器や鍋釜もあった。

プロパンガスなので、地震の後も煮炊きができる。水道は止まったが、幸い正徳寺には山の水が引かれていた。すぐに手分けしてご飯を焚き、おにぎりを作った。温かいお茶とおにぎりが避難してきた約150人に配られた。

庫裏は大広間に広い座敷が3つ。簡易水洗トイレも整っている。そこに自宅にある布団や座布団類をありったけ運んだ。寒い夜を凌ぐため、電源のいらない反射式ストーブを6つ焚いた。

「いつか大津波が来てうちが避難所になるだろうと思い、古いストーブも処分せずに取ってあったのが役に立ちました」(了達)

●東日本大震災発生時の津波浸水域(小友地区)

  • 「小友地区津波防災マップ」などをもとに作成

■度重なる余震、眠れない夜

当座の空腹や寒さからは逃れられた。しかし正徳寺に身を寄せた赤ん坊を含む150人は、自宅や家族がどうなったかわからないまま、眠れない夜を過ごしたのである。

停電で真っ暗な夜、頼りになるのはストーブの赤い炎と、寺が法要のために常備していた大ロウソクの灯りだけ。度重なる強い余震。揺れに強い伝統建築とはいえ、建物はミシミシと不気味な音を立てる。大津波を見た後の人々の恐怖は想像するにあまりある。

  • 瓦礫から掘り出された本稱寺の鐘は、被災を忘れないよう「勿忘(わすれな)の鐘」と名付けられた。毎年3月11日の地震発生時刻には「勿忘の鐘」と共に、全国の寺院で鐘が鳴らされ、法要が行われる

深夜、寺を訪う人がいた。青森県八戸市から通常でも車で4時間ほどかかる道を夜通し走らせてきた、坊守・千葉寿子の両親だった。娘一家を心配した二人がようやく正徳寺にたどり着いて見たのは、うごめく人々の姿と、まったく表情をなくした娘夫婦だった。

娘から被災者が赤ちゃんのミルクにも事欠いていると聞いた夫妻は、すぐ八戸に取って返した。炊き出しのための物資を集め、すぐに届けなければならない状況だったのだ。そしてせめて小さな3人の孫だけでも、津波被害の少ない八戸に連れて帰りたいと思った。

そう話すと、返ってきたのは次のような了達の言葉だった。

「うちの子どもたちは大変でかわいそうだけれど、この土地でずっと生きていかないといけない。ほかの家の子どもたちがこうして避難してきているのに、家も無事な自分の子どもだけ八戸に出してやるわけにはいかない」(千葉了達)

寺はその土地あっての存在である。浄土真宗であれば「御門徒」に支えられ、その人たちと生きていく。たとえ門徒でなくとも、近隣の人たちが大きな苦難にある時、住職はとどまって共に歩んでいかなければならない。

■ストレス限界。一番の救援物資は新品のパンツ

最初は呆然としていた人々も、夜が明けると家族の消息を確かめに、あるいは破壊され尽くした家を片付けに動き始めた。幸い、了達は11日に見回りにきた市の職員と行き合い、状況を伝えられたため、正徳寺はスムーズに避難所として指定を受けることができた。

当初は備蓄してあった食料を少しずつ分け合ってしのいだが、やがて自衛隊の手によって物資が届き始める。真宗大谷派を中心とする寺院ネットワークの支援のほか、他にも多くの人々から支援があった。

  • 庫裏には大広間の他に広い座敷が3つあり、150人の避難者が身を寄せ合った

大切だったのは、落ち着くまで正徳寺の避難所で暮らしていくための道筋を作ることだった。避難所の所長には了達がついたが、彼には市役所職員としての任務がある。実際、了達は震災から3日後には出勤したまま、何日も家には戻らなくなってしまったのである。

後を任されたのは両替地区の自治会長である鈴木勇吾さんと坊守の寿子だった。鈴木さんは、「個人の要望はあと」と決め、避難所全体の利益を最優先した。大人数が共に暮らしていくためのルールが少しずつ決められていった。

避難してきた人たちには公民館や体育館などの他の避難所と違い、「お寺に避難させてもらっている」という遠慮もあっただろう。小さなトラブルは起きたが、力を合わせて難局を乗り切ろうという気持ちで日々を過ごしていた。

  • JR大船渡線など主要交通網が寸断された

一方、あまりにも被害が大きく、広域すぎて、細部まで配慮が行き届くまでには時間がかかったのである。たとえば、衛生的な暮らしに欠かせない歯ブラシや下着がなかなか揃わなかった。寿子は人数分揃うまで、決してそれらを配布しようとはしなかった。物不足の暮らしでは誰もが不公平に敏感になる。

盛岡に住む了達の上の姉が、買い集めた下着類を持って実家を訪ねたのは1週間後のことだった。運ばれた下着を配ると、誰もが笑顔になったという。

「姉が届けてくれた救援物資はみんなで分けてとても喜ばれました。特に新品のパンツは一番だったのかな」

清潔でものの溢れた生活に慣れきった人たちが、1週間も着のみ着のまま。風呂に入れず下着も替えられない間はストレスも限界に近づいていたに違いない。
(続く)

文/千葉望