10年前のあの日、大津波に襲われた岩手県陸前高田市。高台にあって難を逃れた正徳寺には150人の被災者が暮らすことになった。避難生活が長引くにつれて、正徳寺の避難所ではさまざまなルールが定められ、それに合わせて人々が行動するようになっていった。
■禁酒禁煙、入浴もしばらくおあずけ
物資が届けられると、その場にいる大人たちが一斉に仕分けにかかる。何が何個届いたのか。誰から届いたか、手際良くノートにつけていく。届いた物資はきちんと整理し、記録するというルールが作られていた。どんなものでも人数分揃わない限り配布はされない。手書きされた情報はやがてパソコンに記録されていった。それは膨大な数に上った。坊守の寿子は、できる限り支援先に礼状を書いた。
食事作りは女性たちが担った。昼間、ほとんどの男性たちは仕事や後片付けに行ってしまう。勤めのある女性も含め、出かける人には簡単なお弁当を持たせた。昼間いられない人たちは、週末などにできる作業を手分けして担当した。高齢化の進んだ地域でお年寄りも多かったが、彼らも自分たちができる掃除などを担った。負担が偏らないように配慮することが重要だったのである。
トイレの使い方も決められた。庫裏のトイレは二つに分かれており、男子トイレが3つ、個室が5つあった。水洗トイレと違い、汲み取り式の簡易水洗トイレだったため停電でもなんとか使えたが、何しろ大人数である。清潔を保つためのルール作りは不可欠だった。入浴は自衛隊の入浴サービスがあるまでお預けとなった。避難所内での禁酒禁煙も徹底された。
中高生は物資運びなどに大活躍した。きびきびと働く彼らの姿は、大人たちにとって救いだった。被災した現実を吹き飛ばすように駆け回る小さな子どもたちの姿は、こんな時でも希望を感じさせた。
避難者は大広間にずらりと布団を並べて眠った。現在では間仕切りやテントなどの必要性が叫ばれているが、当時はそれどころではなく、暖かい畳があるだけ恵まれていたといえる。愛犬を連れてきた一家は迷惑になるからと広い廊下に布団を敷き、ストーブを頼りに過ごしていた。被災して痩せ細った状態でたどり着いた猫もいた。子どもたちにパンなどを与えられて生きながらえ、のちにその猫は正徳寺に引き取られた。
「せっかく助かった命だから」(了達)
と、正徳寺は結果的に「犬猫OK」の避難所となった。
■「この避難所から二次被害で亡くなる人は出さない」
ここでは健康管理も重要だった。ようやくマスクや消毒剤が届いたが、大人数の共同生活にインフルエンザなどが持ち込まれたら一気に流行することは目に見えていた。他の避難所では、衛生状態が悪化し、寒さで高齢者が肺炎を起こして亡くなるケースもあった。自治会長の鈴木勇吾さんは語る。
「この避難所から二次被害で亡くなる方は絶対に出すまいと思っていました」
鈴木さんは朝起きるとまず高齢者を見回り、調子が悪そうな人は早めに病院へ運んだ。救急車を呼んだこともある。何より、鈴木さん自身がストレスで心臓病を悪化させ、手術を受けた。幸い、解散するまで正徳寺の避難所から亡くなる人は出なかった。
だが、家族や知り合いを失った人々は大勢いた。遺体が見つかると、それは被災者の間ですぐに話題となった。避難所にも小さな子どもたちがおり、彼らに聞かせないように大人たちは声を潜めていたものの、雰囲気で伝わることもある。「今日は**さんが上がったそうだ」と言われれば、それは遺体が見つかったという意味だ。
避難所には、身元確認のために配られた、おびただしい遺体写真のファイルもあった。住職夫妻は決してそれを見ないよう、子どもたちに言い含めていた。
■子どもたちの「卒業を祝う会」を避難所で
暮らしが落ち着くと、正徳寺はいくつかの行事の会場にもなった。延期されていた小友小学校の「卒業を祝う会」も3月28日に開かれている。学校が被災し、大切な区切りとなるはずだった行事はどの被災地でも行われなかったところが多い。
住職夫妻の長女も小学校6年生で、卒業式のない春を迎えようとしていた。6年間1クラスの持ち上がりの小さな学校で、誰もが知り合いである。旅立ちの行事がないのは寂しすぎた。
「なんとかここで卒業式をやりたいと、私ともう一人のお母さんとで避難所をまわり、保護者の方に呼びかけました。中には涙をこぼしながら賛成してくれた方もいました。保護者の総意として担任の先生に伝えたところ、学校の了解をいただくことができました」(寿子)
当日は被災者が大広間をきれいに片付け、一同を迎えた。校長とPTA会長の祝辞だけという簡素なものだが、卒業生に卒業証書を渡され、担任の言葉にみんなが涙を流すという思い出深い会となった。
■7月30日、解散式
2011年4月。正徳寺の避難所で共同生活を送ってきた人々も、次の暮らしを考える時期に来ていた。早いところでは仮設住宅の準備が始まっていた。正徳寺の避難所でも、いつどこに仮設住宅を建ててもらうのかということが大きな問題になってきたのである。
彼らにとってもう一つの不安は「正徳寺の避難所にいつまでいられるのか」ということだった。東日本大震災では寺社にもいくつかの避難所が設けられていたが、さまざまな事情で早く閉鎖されたところがあり、その情報が伝わっていたのである。
仮設住宅については、自治会長の鈴木勇吾さんを中心に市とさまざまな交渉が行われていた。しかし鈴木さんははっきりした見通しが立つまで口をつぐんでいた。
結局、正徳寺の門徒の中に、山門近くにある耕作されていない畑を貸してくれる人がいた。そこなら失われた両替集落からも近い。他の仮設住宅からはだいぶ遅れての完成となるが、コミュニティが揃って移転できる。待った甲斐があった。
移転は7月と決まった。引っ越しが近づくと被災者は手分けして使っていた庫裏や庭をきれいに掃除し、障子の張り替えまで手分けして行った。立つ鳥跡を濁さず。引っ越す時には、全国から集まった援助物資を平等に分ける作業も行われた。
引っ越しの後、庫裏の大広間では避難所の解散式が行われた。それまで避難所内での飲酒は禁止だったが、この日は解禁である。さまざまな酒やジュース、お茶、精一杯の御馳走が用意された。本来なら、海産物の産地である陸前高田では、テーブルにのせ切れないほどの刺身や焼き魚が並んだはずなのだ。
誰もが不安を抱えての再出発だが、その日ばかりはみな明るく、酒やジュースを酌み交わした。大人も子どもも笑顔だった。約4カ月の共同生活にはさまざまなトラブルがあったものの、力を合わせて乗り切ってきたという実感があった。
(続く)
文/千葉望