パリで36店舗、日本で3店舗を展開するパン職人であり経営者でもある石川芳美さん。離婚やうつ病といった苦難を経験しながらも、自らの道を切り開き、今やアーティストとしても活躍しています。2026年4月『フランス流自分に素直に生きる方法』(宝島社刊)を上梓した石川さんにインタビュー。数々の転機を経てたどり着いた、石川さんの生き方について伺います。
アートに正解はなく、自由。それは人生も同じ
――パリと日本で多店舗を経営するパン職人である石川さんですが、2025年からパリと東京で個展を開催するアーティストとしても活躍されています。作品を制作する際に大切にしているのはどんなことですか?
石川さん(以下、石川) 見る人がその世界に引き込まれるような、作品の世界観を大切にしています。今回の個展では、身の回りの小さな幸せをテーマにしています。私が暮らしているフランスの空気感や日常の幸福を描きつつ、見る方にも「自分の周りにも幸せがたくさんある」と感じてもらえたらうれしいです。
――作品を通してもっとも表現したいことは?
石川 アートは自由だということです。見る人によって感じる物語が変わるし、アートには正解はありません。それは人生にも言えることです。
私は30歳ごろから趣味で絵を描き始め、50歳になってから本格的にパリのアトリエに入り、ゼロから勉強を始めました。学び始めたころは「上手に描きたい」といった思いに縛られていたように思います。でも、2人目に師事した先生に「あなたはもっと自由になるべきだ」と言われ、はっとしました。上手に描くことや、人から認められることではなく、自由な自分自身のままで描いていいんだと気づき、涙が出るほど感激しました。
私は若いころつらい人生を歩み、うつ病を患った過去があります。その先生の言葉でようやく自分が解放された気がしました。だから、今の作品は思うがままに自由に描いています。見る人が、作品の根底にある「自由」を感じてくれるといいな、と思います。
パンとの出会い、起業、そして最大の困難
――石川さんは、1995年にパン職人としてキャリアをスタートさせました。石川さんがパン作りに出会ったきっかけについて教えてください。
石川 最初の夫と結婚後、夫の家業だった漬物屋に関わるなかで、発酵について学ぼうとしたことがきっかけで、パン作りの世界と出会いました。最初は家業の役に立てばという思いでしたが、そこからどんどんパンの世界に魅了されていきました。
――パン作りにはどんな魅力があったのでしょうか。
石川 パンは生きものです。生きた酵母を扱うので、その日の気温や湿度で状態が変わるおもしろさがあります。それにパンはヨーロッパでは主食であり、なくてはならないもの。農家が作った小麦を、おいしく食べられる形にするのがパン職人の仕事です。生きものを扱うおもしろさと、人の食を支える仕事の魅力にひかれたのだと思います。
3年ほど通った製パン学校を卒業後、29歳でパン教室を開くと生徒がどんどん増え、2校目を作り、さらにベーカリーもオープン。事業は順調で充実した日々でしたが、一方で漬物屋の嫁として、3人の子どもの母としての役割も求められました。当時、私の周囲の女性は子育てに専念する人が多く、女性が起業して働くことへの理解も十分でなかったと思います。「家にいられないの?」「あなたは何をしたいの?」と言われるプレッシャーの中で、すべての役割をこなそうとしてしまったんですよね。多忙を極める生活を送るうちに精神のバランスを崩し、うつ病を発症してしまいました。そして、最初の夫と離婚することになったんです。
――石川さんにとって苦しい時期だったのですね。
石川 私の人生でもっとも大きな困難は、離婚した際に、子どもたちを引き取ることができず、離れ離れになってしまったことです。月1回、子どもたちに会うことはできましたが、本当に苦しい時期でした。
――大きな困難をどのように乗り越えたのでしょうか。
石川 体調が落ち着いてから地元のパン屋に就職し、フランスでパンを学ぶことを考え始めました。フランスに渡ることは、子どもたちとの物理的距離がさらに遠くなることはわかっていましたが、フランスに行けばなにかが起きるかもしれない、行けば新しい人生が私を待っているかもしれないと感じていた気がします。
35歳でフランスに渡り、文化も言語も違う場所でとにかく必死で働きました。パン職人としての仕事のほかに、空港送迎のアルバイト、パンの専門通訳兼コーディネーターなどの仕事もしていました。3カ月に1回子どもたちに会うことを目標に、とにかく働いてお金を稼ごうと思ったんです。そして、渡仏から1年半後の2004年にはパン作りの留学エージェントを設立。会社を立ち上げたことで日本に行く機会が増え、子どもたちとの物理的距離を縮めることができました。限られた時間の中でしたが、子どもたちの幼稚園や習い事の送迎をしたりしながら、成長を見守ることができました。
困難を乗り越えようとしたわけではないのですが、目の前に仕事に集中したことで、自然と乗り越えていけたのだと思います。
――それでも、渡仏から1年半で起業し、事業を軌道にのせることは大変だったのではないでしょうか。
石川 そうですね……ほぼ寝る時間もなく働いていたと思います。今の夫と知り合ったのもそのころ。私の留学エージェントに、日本人研修生を紹介してほしいと問い合わせてきたのが夫でした。夫は当時のことを振り返り「ヨシミはあのころ、正常に見えてまだ病んでいた」って、今もよく言います。ときどきふっといなくなったり、夜中に泣いて起きたりしていた、と。そんな不安定な私を彼は見守ってくれながら「大丈夫、大丈夫だよ」と安心させてくれていました。夫からのあたたかい励ましがあって、自分も頑張れたんだと思います。
自分らしくあるための軸とは
――石川さんが夫のロドルフ・ランドゥメンヌ氏と結婚したのは2006年のこと。フランスでの生活は、自身の価値観にも影響がありましたか?
石川 影響はとても大きかったです。ヨーロッパの人たちは合理的で、それぞれが自分の個性を大事にして「あなたはあなたでいい」という考え方。私は日本で「周りに合わせなければならない」という同調圧力のような空気に苦しみました。今でこそ多様性という言葉がありますが、当時は自分を抑え込むしかありませんでした。でもヨーロッパでは自分らしくいられます。それが私にとってはとても楽でした。知っている人が誰もいない環境で、足かせが外れたような感覚で、存分に仕事に打ち込むことができました。
夫と出会い、結婚後の2007年、パリに「Maison Landemaine(メゾン ランドゥメンヌ)」1号店をオープンし、人生の新しいフェーズが始まりました。
――仕事を続ける中で、年齢や立場の変化とともに「自分らしさ」はどう変わってきたと感じていますか? また「自分らしくある」ためにどんなことを大切にしていますか?
石川 30代は離婚を経て自分を見失っていた時代、40代は今の夫とブーランジェリーの経営に無我夢中な日々。50代に入ると店舗数も増え、日々あまりにも多くのタスクを処理することに集中していました。
時代ごとに自分らしさは変化してきたと思います。変化しつつも、そのとき自分のやりたい仕事や情熱を優先して、先の未来を構築しようと考えていました。そういうなかで「自分らしくあるため」には、と問われると、良い言い方ではないかもしれませんが、「エゴイストでいること」でしょうか。もちろん周囲とのバランス感覚も忘れてはいけませんが、自分がやりたいことについては常に目標を持ってトップを目指し、自分に厳しくいることが私の場合の自分らしさだと思います。決してわがままではなく、自分の軸をしっかり持つということです。
そして謙虚さを忘れず周囲に感謝すること。人は1人では生きていけません。私自身もこれまで自分の周囲の人にどれほど助けられてきたか、と心から感じています。
自分を見失ったら、一度すべて手放してみる
――忙しい毎日で、自分らしさを見失ってしまった、夢中になれるものが見つからない、という人にアドバイスをお願いします。
石川 がんじがらめになってしまったときは、一度全てを手放してみて、頭の中を何もないクリアな状態にすることだと思います。デバイスなどを「初期化する」イメージです。そうすることで本来自分が誰だったかを思い出せるはずです。
私自身も、うつ病の回復過程で日本とフランスの心療内科にかかって、自分の生い立ちを振り返る作業を行いました。先祖や家族の歴史をたどり、自分がどこから来たのかを知ることで、自分を再認識して自分らしさを取り戻すことができました。自分のルーツを再認識することで、新たな人生を歩む道が見えてくるのではないでしょうか。
――いきいきと働きつづけるために、石川さんが大切にしてきたこと、こだわりがありましたら教えてください。
石川 私のこだわりは、決してあきらめないこと、ですね。私は負けず嫌いで努力家なので、自分が好きなことをとことん突き詰めて、学び、努力した結果、いつしかそれが得意分野になってきました。
自分が取り組む分野のトップのものを見聞きして、ここにたどり着くにはどうすればいいんだろう、と逆算して目標を設定します。ゴールに向けて努力を続ければ、もし途中で道が変わっても、その努力は経験になっているはずです。 あきらめずに努力を続けることが、仕事を楽しく生きがいにしていけるコツだと思います。
――石川さんの今後の目標はありますか?
石川 パン職人としては後進の育成に力を入れています。フランスと日本をつなぐ仕事にも関わりたいですし、食の未来や環境への配慮も重要なテーマです。今後は、持続可能な食のあり方に貢献したいと思っています。 アーティストとしては、これからさらに研さんを積み、コンクールにも挑戦したいですね。どこまでいけるかわかりませんが、自分の世界をもっと深めていきたいです。
石川 芳美(いしかわ よしみ) プロフィール
1966年、東京都生まれ。広島県育ち。フランス在住のパン職人で、女性起業家、クリエーター、アーティストとしての顔も持つ。29歳からブーランジェとしてのキャリアをスタートさせ、子連れ可能なパン教室を広島に開校。口コミで人気となり、2校目を開校すると同時にベーカリーもオープン。その後、35歳で渡仏。数店舗での修業を経て、フランス人パティシエの夫・ロドルフとともに「メゾン ランドゥメンヌ」をオープン。2026年4月現在、グループ全体でフランスに36店舗、東京に3店舗を展開。




