東急電鉄の現存する路線の中で最古の歴史を誇る池上線は、1922(大正11)年、池上電気鉄道(以下、池上電鉄)により、蒲田~池上間の1.8kmが開業したのが始まりだった。

  • 池上線3000形(1985年撮影、東急電鉄提供)

    東急池上線を走る3000形(1985年撮影、東急電鉄提供)

つい最近まで、池上線にはホームの古い木製ベンチをはじめ、昭和の雰囲気を現代に伝えるものが残っていたが、2016(平成28)年12月に戸越銀座駅がリニューアルされたのに続き、この7月31日には旗の台駅のリニューアル工事が竣工した。また、池上駅では駅ビルの建設が進むなど、沿線の雰囲気が急速に変わりつつある。

今回は昔の池上線沿線の写真を手に、沿線風景の変化に着目しての散歩を楽しんでみよう。

■変わりゆく沿線風景を眺めながら

散歩の初めに、東急プラザ蒲田の屋上遊園地に立ち寄ってみよう。この遊園地にある「幸せの観覧車」は、お台場やみなとみらいにあるような大観覧車ではなくミニサイズではあるが、都内に残る唯一の「屋上観覧車」として、いまなお人々に愛されている。ビルの屋上にあるため眺望が素晴らしく、眼下を走る東急多摩川線と池上線の様子を鉄道ジオラマのように一望することができる、鉄道ファンにはたまらないスポットだ。

  • 東急プラザ蒲田の屋上遊園地の「幸せの観覧車」

  • バラック作りの蒲田駅(1955年撮影、東急電鉄提供)

観覧車からの眺望を目に焼き付けたならば、池上線の旅を開始することにしよう。蒲田駅を出発した電車は蓮沼駅、池上駅の順に停車する。池上電鉄が開業した当初、蒲田駅・蓮沼駅・池上駅の3駅からスタートしたとのことで、現存する中ではこの3駅が東急電鉄で最も古い歴史を持つ駅ということになる。

池上駅に降り立つと、いままさに駅舎改良と駅ビル建設工事が2020年度の開業をめざして進められており、頭上に大きなクレーンがそそり立つ。東急電鉄は今回の工事について、「駅舎の改良にあたっては、現状、北側に1カ所ある改札口を橋上化し、南口を新設します。これにより、改札内の構内踏切を廃止します。駅ビルは5階建てとし、大田区立図書館が入居するとともに、地域に求められる保育園などの生活支援施設や店舗の導入を検討していきます」と説明する。

ちなみに、東急電鉄では駅改良工事で発生する木材を「えきもく」と呼び、駅や沿線で活用するプロジェクトを進めているという。たとえば、旗の台駅のホームにあった横長の木製ベンチは、元の素材をできる限り利用して復元されており、池上駅のベンチについても「工事完了後も何らかの形で残す予定」(東急電鉄)であるという。

ところで、せっかく池上に来たならば、池上本門寺をぜひ参詣しておきたい。池上本門寺は、日蓮宗の開祖である日蓮聖人が入滅した場所に建つ歴史ある寺院であり、池上線の敷設はこの寺院への参詣客輸送が主目的であった。

  • 池上駅(1959年撮影、東急電鉄提供)

  • 駅ビル工事中の現在の池上駅

筆者はかつて池上駅の近くに住んでいたことがあり、池上本門寺への参詣道である本門寺通りも含め、下町らしい商店街や住宅地が残る雰囲気を気に入っていた。いまも当時とそれほど変わりない風情があるが、今後、駅ビル建設を契機にこの街並みも変化していくのだろうか。

さて、池上駅に戻って再び電車に乗ろう。池上駅を出た電車は千鳥町駅を過ぎ、池上線沿線きっての高級住宅地である久が原駅に停車する。

久が原駅の次の御嶽山(おんたけさん)駅は、ホーム下を東海道新幹線と横須賀線・湘南新宿ライン(品鶴線)が通過する珍しいロケーションの駅だ。とくに新幹線が猛スピードで足下を通過していく様子はなかなかの迫力であり、一見の価値があるので、ぜひホームに降り立ってみてほしい。

■新奥沢線の廃線跡をたどる

御嶽山駅の次の雪が谷大塚駅でも途中下車してみよう。雪が谷検車区のあるこの駅から、「新奥沢線」の廃線跡を歩いてみたい。

  • 雪谷車庫に停車中の車両(1938年撮影、東急電鉄提供)

「新奥沢線」は1928(昭和3)年から1935(昭和10)年までのわずか7年間だけ存在した池上電鉄の路線であり、雪ヶ谷駅(現・雪が谷大塚駅)から新奥沢駅までの間、約1.4kmを結んでいた。新奥沢駅は目黒蒲田電鉄(現・東急目黒線)の奥沢駅から南へ約500mの場所にあった。

池上電鉄は当初、雪ヶ谷駅から省線の国分寺駅(現・JR中央線国分寺駅)まで約21kmの路線を敷設し、都市部の蒲田と多摩地方を結ぶ壮大な計画を立てていた。しかし、ちょうど同じ頃、池上電鉄のライバルで五島慶太が率いた目黒蒲田電鉄が、「大岡山~二子玉川間の新線を計画中であり、玉川全円耕地組合と提携し、いちはやく用地を確保した」(『東京急行電鉄50年史』)ため、この計画を断念せざるをえなくなった。このように、新奥沢線は池上電鉄と目黒蒲田電鉄の熾烈(しれつ)な競争を象徴するような路線だった。

池上電鉄は新奥沢駅までの約1.4kmのみ開業したが、当時、この付近は田園地帯であり、終着駅の新奥沢駅も奥沢駅と接続しておらず、不便な盲腸線のようであった。そのため、唯一の途中駅である諏訪分(すわぶん)駅付近にあった調布女学校(現・田園調布学園中等部・高等部)の「専用線の感があった」(『東京急行電鉄50年史』)という。結局、池上電鉄自体が目黒蒲田電鉄に吸収合併され、新奥沢線はひっそりと姿を消した。

さて、新奥沢線の廃線跡を歩いてみよう。古い地図を見ると、雪ヶ谷駅を出た新奥沢線の線路は大きくカーブを描きながら北西方向に向かっているが、この辺りは街の開発が進み、路線跡を特定するのは難しい。

  • 新奥沢線廃線跡(田園調布学園裏手)

  • 新奥沢駅跡を示す石柱

諏訪分駅の場所は当時の地図から特定可能であり、住所でいうと世田谷区東玉川2丁目16付近である。現地を訪れても駅跡を示すものはなにもないが、近隣住民の話だと、「この付近で道路や地面を掘ると、鉄道の線路敷の砂利が出てくる」という。

諏訪分駅跡から田園調布学園中等部・高等部の敷地裏手を抜け、住宅地の中をまっすぐに伸びる路地が新奥沢線の廃線跡だが、鉄道の遺構らしいものはなにも残っておらず、唯一、「新奥沢駅跡」を示す石柱が東玉川2丁目40の駐車場脇にひっそりと立っている。

さて、雪が谷大塚駅に戻って再び電車に乗り、次の石川台駅で下車しよう。石川台駅と次の洗足池駅との間は、いわゆる「切通し」を走る区間として有名だ。

  • 石川台~洗足池間の切通しはいまも昔もあまり変わらない(昔の写真は1972年撮影、東急電鉄提供)

1972(昭和47)年に撮影された切通しを走行する電車の写真と、現在の写真を見比べてみたところ、周囲に建物が増えた以外、地形はほとんど変化していないことがわかる。