説明しようとすると紛れこむ意図
――番組では、テロップなどは分かりやすく配していますが、説明過多にはならないようにしている感じも受けました。最近、NHKなどでは『ノーナレ』といって、ナレーションをなくしたドキュメンタリーもあったりします。説明過多でないと、逆にじっくり人の表情を見ようとか耳を澄まして聞こうとしてしまうんですよね。
ナレーションに関しては、意図して演出したのは半分、原稿作るのが面倒というのが半分です(笑)。大量のナレーション原稿が後で捨てられるのを見るのもいやだし、やっぱり見る人が前のめりになって理解したいという姿勢を作れたらいいなと思います。説明しようとすればするほど、こちらの意図とか嘘とか恣意が紛れ込むので、それはないほうがいい。あいまいなものをあいまいなまま進めていこうというのがポリシーで。ただ、やっぱりテレビって、これにはこういう背景で、と説明したがるところはあるんですよね。
――視聴者が食いつくための仕掛けとかは考えてますか?
今の『ハイパーハードボイルドグルメリポート』は説明が足りないと思いますが、”足りなさ”の塩梅は考えていますね。説明をしすぎたら、わかりやすい番組になるけど、姿勢は前のめりじゃなくなる。なるべく解釈の余地を残したいんです。
――それって、今のテレビとは逆じゃないですか。わかりやすいとか、瞬間的な刺激で食いつかせようとするものがあふれていて、そこに対してはそれだけでいいのかという疑問を日々私も抱いているんですけど。
それが今の基本で否定するわけじゃないけど、わかりやすさ至上主義、というのはちょっと蔓延しているのかもしれないとは思います。テレビの作り手は、視聴者に合わせて「簡単にわかりやすく」と作るけど、見ている方からすると「そんなのわかってるよ」となって、お互いに離れていくこともあるだろうし。今の時代、見破られますから。そこに一発、どうですかと提案をしたかったんです。極端な話、視聴者の方が賢いですよって。
――それに対して、テレ東内では、どういう反応だったのでしょうか。
やっぱり「わかりづらい」という指摘を受けて、「なるほど」とは思うんですけど、すべて無視する、という姿勢は忘れないようにしました(笑)。指摘を聞いていたら、いわゆるクオリティが高いと言われる、いつものテレビが仕上がるとは思いますが、僕は説明不足であいまいなままいきたいし、それがこの番組なんです。でも、アドバイスをくれる先輩も、上が言い過ぎても面白くなくなることも知っているし、「最終的には自分で判断していいよ」と言ってくれる。すごく恵まれているんですね。
出会った人が主役の番組
――この番組を語るとき、必ず『陸海空 地球征服するなんて』や『クレイジージャーニー』を引き合いに出す人はいると思うし、私も、その違いはなんだろうと思いながら見てきたんですけど、よくよく考えると、やっぱり違いますよね。
主役が違いますよね。僕も両方、よく見ていて「すごい」と思うんですけど、あちらはナスDや丸山ゴンザレスさんが主役です。『ハイパーハードボイルドグルメリポート』はあくまでも出会った人が主役。だからなるべくディレクターの存在がたたないようにしてるんです。メシを食う瞬間だけは、日本からディレクターが行って、一緒に食べているということを感じてほしいので、映しているんですけど。あの場でもらう飯はうまい、ということは伝えたいです。
――ちなみに、今、個人的に見ているテレビ番組ってありますか?
『激レアさんを連れてきた。』は見ます。テレビの一番基本的なことだけれど、番組になりえないとあきらめていた部分をされていると思いました。それと、Netflixのドラマ『ストレンジャー・シングス 未知の世界』とか、次から次へと見てしまいます。映像の作り方も、物語もすごい。
アメコミ原作の『デアデビル』や『パニッシャー』も、なぜ悪が悪になったのかが描かれていて、そちらに感情が持っていかれます。僕は2013年度の「新聞広告クリエーティブコンテスト」を取った「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。」という作品に、衝撃を受けたことを思い出しました。その作品を見たときに「鬼は悪くて、桃太郎は正義」という考えが染みついていたのか、と驚いたんです。日本で親しまれている作品は、勧善懲悪で、白黒はっきりという価値観が内面化されていることも多いし、その結果ヘイトにつながるなら、ナンセンスだなと思います。
ノイズこそが面白い部分
――そういう白黒のあいまいさは、番組からも感じますね。
物事の間にある”あわい(もののあいだ)”の部分、溶け合う部分にも目を向けて、お互いに攻撃しないでよ、という意味も込めています。
――それって、すごくあいまいな作りで見せないといけないので、バラエティでは難しいかもしれませんよね。最近のバラエティは、すぐにバトルをさせたり、結果を最後に出して終わるものも多いですし。ただ、バラエティは気軽な気持ちで見られるジャンルだからこそ、それができればいいですよね。
バラエティ番組と、単純さやわかりやすさが、セットで考えられていることが、“あわい”の部分を描くことの難しさにつながっているんだと思います。この番組も、40分のバラエティにしたいので、単純化してそぎ落とさないといけなところはあります。でも、ゴールだけはあいまいにしているので、“あわい”の部分が保たれているのかと思います。本当はバラエティにこそ“あわい”はあるはずなのに、二項対立に単純に落とし込まれると、腹が立ちますよね。
――ほんとにそこに対して腹が立っているところでした。「セルビア “足止め難民の飯”」の最後の場面は、わかりやすくはないし、どっちが正解とも描かれていないけれど、思い出すだけで泣けてきそうな場面になっていました。現地にロケに行く前には、まったく構成などは考えずに行っているんですか?
台本は1ページもありません。例えばセルビアの場合は、どこにいけばあの少年たちのような難民に出会えるのかもわからないまま行きました。取材日数も限られているので、ディレクターの嗅覚にゆだねられていて。あの場には100人くらいの人がいて、100通りの物語がある。もし迷ったら、10人の薄っぺらい取材で終わるけれど、セルビアに行ったディレクターは、度胸があって、「この人だ」と決めた少年についていったからこそ、あの物語が描かれたんです。
――ついていくのに、どういう基準があったんですかね。
おそらく「この人としゃべりたい」といったことでしょうね。この番組では、いわゆる「バラエティ番組のディレクター」のスキルは求められていなくて、機材を運ぶ体力と忍耐力(スタッフはほぼ一人なので)、そしてやさしさと人と寄り添う気持ちや、相手をリスペクトしようとする気持ちがあればいいと思っています。この番組のスタッフの基準は「優しい人」です。優しくない人はお断りです。
――それでも、番組の終わりには、どうしても構成上のゴールは求めてしまうかと思うんですが、そこはどう考えられましたか?
人ってノイズの部分に心を動かされると思うんです。ノイズって、わかりやすくするときには切られてしまう部分で。例えば貧乏な人を題材に番組を作りたいときに、その人がうまそうなものを食ってる瞬間を撮っても、「そんな場面入れたらわかりにくくなるし、ノイズだからいらないじゃん」となる。
――それって、キャラとしてわかりやすく存在してほしいという恣意が根底にありますよね。
そうだと思います。「この人はこう」というひとつの目線を最初に決めて、それ以外はノイズだからと落としていく。本来は、ノイズが出てきたときに心動かされるのが人間だと思うんですよ。ノイズこそが一番面白い部分のはずなんですよ。
■著者プロフィール
西森路代
ライター。地方のOLを経て上京。派遣社員、編集プロダクション勤務を経てフリーに。香港、台湾、韓国、日本などアジアのエンターテイメントと、女性の生き方について執筆中。現在、TBS RADIO「文化系トーラジオLIFE」にも出演中。著書に『K-POPがアジアを制覇する』(原書房)、共著に『女子会2.0』(NHK出版)などがある。