――吉田さんは84年頃から横澤班に入られたんですよね?

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吉田正樹
1959年生まれ、兵庫県出身。東京大学法学部卒業後、83年にフジテレビジョン入社。『笑っていいとも!』『夢で逢えたら』『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』『笑う犬の生活』『ネプリーグ』『トリビアの泉』などの制作に携わり、編成制作局バラエティ制作センター部長、デジタルコンテンツ局デジタル企画室部長も兼務。09年にフジテレビを退職。吉田正樹事務所を設立し、ワタナベエンターテインメント会長に就任(現職)。

そうです。営業局から異動してきました。だから、年は僕のほうが1つ上だけど、星野は既にキャリア7~8年くらい。それから85年に『冗談画報』が始まったんです。僕らの時代は、ADをやりながらディレクターもやりなさいという考え方。だから『いいとも』でADをしながら『冗談画報』でディレクターをやるという状態だったんです。星野が『冗談画報』で担当したのはダウンタウンと憂歌団。でも実は、最初は所ジョージさんだったんです。だから彼を語る上では、所ジョージさんは欠かせなくて、所さんとも対等に打ち合わせをしていましたね。

――へぇ! AD時代とディレクターとでは変わりましたか?

ディレクターになると"チームの要"ではなくてフラットになる。いい競争をしていく間柄になる。ディレクター同士って指図されるってことはないわけじゃないですか。そういう意味では、星野は「偉そう」で、「威圧して」っていうのはADの頃の印象なんですよ。ディレクターになったら、粘って誠実に撮る。体がでかいから、恐れられているんですけど、大変真面目で優しい人でした。

――星野さんといえばフジテレビ版の24時間テレビ『FNSの日』(現『27時間テレビ』、第1回は『FNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島』)をつくったという伝説があります。

『FNSの日』の進行台本は全部星野がまとめたんです。実は第1回の時、星野は最初ADとしての参加だったんですが、席は総合演出の三宅(恵介)さんの後ろで全スタッフに対し指令を飛ばす。それはなぜかというと、彼自身が台本をまとめていて、24時間分の進行が全部頭に入っているから。台本はCMとCMの間が1枚の紙になってる。これは『FNSの日』とは何かという本質になっているんだけど、CMを消化する番組だということを彼が看破してそういう形式にしたんです。

総合司会のタモリさんと(明石家)さんまさんが自由に話すところに、謹慎で休んでいた(ビート)たけしさんがやってくるわけ。これは面白いか面白くないかで言ったら面白い。だけど、進行をキチッとやる、時間にハメていくっていうことを考えていくと、どういうタイミングでCMを入れていくのか、自ずと決まっていくんです。そういうようなことが頭の中に全部入っていたんですね。その上で、面白いことが起こると全部捨てて、その場で線を引き直す。で、結局、最後のエンドロールで横澤さんが、星野の肩書きを「プロデューサー」ってクレジットに出したんです。「星野、お前はプロデューサーの仕事をしたよ」って。

――へえ、すごいエピソード!

今こそ「出でよ、星野!」

本人は『THE MANZAI』にしろ『笑ってる場合ですよ!』『笑っていいとも!』は自分が作ってたと思ってたと思いますよ。"チームの要"にいたのが彼ですから。チーフADは、イコール、プロデューサーみたいなもんだったんです。最近、局のADは2~3年ですぐにディレクターになるじゃないですか。でも、当時の横澤班は違っていた。なかなかディレクターになれなくて、やっと29歳くらいで昇格したのが、のちにオイコーポレーションという会社を作った及川俊明さん。10年くらいAD修業しないとディレクターになれなかったんです。だから、星野のようなスーパーADが生まれた。今は、キャリアもなくディレクターになるから、うまくいっている時はいいけど、うまくいかないとどんどん迷走しちゃうんです。

――あぁ、なるほど。

今は、末端のADは必死で上の指示をこなすだけになってしまっている。上の人は上の人だけで集まって会議をしている。大事なことは全て会議室で決められちゃってる。つまり、テレビって誰も最前線に立って番組をつくってない。星野みたいな最前線で番組をつくる人がいないんです。今こそ「出でよ、星野!」なんですよ。星野のお葬式は、今テレビに足りないものを僕らにもう1回、思い起こしてくれたんです。

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    『笑う犬の生活』に出演していた遠山景織子(右)と星野氏=吉田氏提供



星野淳一郎さん、

僕達のあいだで、弔辞なんて柄でもないけど、最後のお別れだから、少しだけ送る言葉を述べようと思います。

長い長いつきあいになりましたね。とても一言では表現できない関係でした。僕にとっては先生であり、仲間であり、ライバルでもあり、そして真の友達でした。

1980年代に初めて会った時、横澤さんから「ここのことは全部ホシノに聞いて」と言われました。笑っちゃうようですけれど、あなたはその言葉通りの人物でした。

まさに横澤班の要。

15才でテレビを志し、17才でこの世界に飛び込んだあなたはすでに大ベテランでしたから、教えてもらうことばかりでした。とにかくいろんな意味で大きな人でした。

毎日の笑っていいいとも!スタジオアルタの下手に仁王立ちして、どんなことがあってもこの場は俺が支えるというまさに無双の存在でした。

几帳面で豪胆、最悪の事態を悲観論で準備して、本番は何があっても「しゃーねーや」と最高の楽観論で楽しんでゆく。

タモリさんとの信頼、そして当時の最高の出演者のなかでうまれた、フジテレビらしい幸せな空気でした。

そしてその結晶ともいえるのが、第一回目の24時間テレビでした。あなたは制作のすべてを実務として統括するスーパープロデューサーとして、30年にも及ぶその基礎をこしらえました。

「どうせ誰かがやらなくちゃいけないなら、オレたちがやらないで誰がやる」よく言ってました。

西郷隆盛は私利私欲で動く人が多いなか、「私」という部分を2%だけ圧縮してそこに出来た真空のような「無私」で多くの人を引きつけていったと言います。

あなたの「無私」は2%どころではありませんでした。

100%そうでした。

思い出される光景は、根元まで吸ったたばこ、それが山盛になってゆく灰皿。

自らに課した使命感はとことんテレビが好きで、純粋に「やり抜く」、それがあなたの生き方でした。

僕達が2人でつくった最初の番組が「夢で逢えたら」でした。

これもまた己の欲望の為でなく、先輩から受け継いだものをどうやって未来に渡せるか、まさに「俺達がやらないで、誰がやる」というものでした。

あの頃は本当に楽しかった。

今日の入り口で流れている曲は、みんなあなたが作詞したものです。覚えていますか?

その後、誰かがやらねばや、ごっつええ感じの時代を経て、あなたは日本テレビで仕事をします。

少し距離ができました。

再び会うことができたのは、古い友人であるエディターの石附君の新潟での結婚式でした。

上越新幹線のホームの端に立つあなたの姿はまるで風に向かうライオンの様でした。

そして、どうしてもとお願いして「笑う犬の生活」に参加してもらいました。それから一緒の生活です。「力の限りゴーゴゴー」などすべての番組を共にしました。

今は分かってもらえなくても、いつか自分達の方向がきっと伝わる筈だ、そう思って一緒に進んできました。

その頃、ニューヨークで過ごしたある晩、言ってくれたひとことがあります。

「お前はどう思っているかわからないが、俺は君のこと友達だと思ってるよ。だから助けたいんだよ」

誤解もされるし、解りづらいところもあるけれど、本当はまっすぐで優しい人なのです。

少し長くなってしまいました。あなたは、人生を後悔してないよね、本当に「やるべきことを純粋にやってきた」人生だったと、そう思います。

あなたの選んだ放送という仕事は本当に素晴らしい仕事だと思います。かいた汗、流した涙が遠い遠い会ったこともない人の、胸のウチで花が咲き、人生を変え、世の中を幸せにできるのですから。

直接の後輩だけでなく「作品」を通じて、あなたが大好きだったテレビの仕事を志し、「思い」を継いでくれる人が大勢います。

その声が聞こえますか?

17才で入ったこの世界、もう40年にもなるのですね。「夢で逢えたら」からも30年がたちました。今年27時間テレビも変わりました。

本当におつかれさまでした。

そして、一つ嬉しいことがあります。なかなか家庭をもたなかったあなたが結婚され、実に素直に自分を出して甘えていらっしゃる様子は、仕事をストイックにやってきたあなたを知っている者として、本当にうれしく思います。よかったね。

ああ、お別れの時が近づいて来ました。最後にお会いした時「悪いね、こんな状態になっちゃってね」と笑い、別れる時、「また会おう」と握手したその大きな手は、スタジオアルタの3カメ脇でテレフォンショッキングのCMあけ、タモリさんにキューを出していた、あの手のままでした。

あなたに出会えて本当に良かった。もう一度「夢で逢えたら」いいね。

さよなら、また会おう。

平成29年12月8日 吉田正樹

後編に続く

著者プロフィール
戸部田誠(てれびのスキマ)
1978年生まれ。テレビっ子。ライター。著書に『タモリ学』(イースト・プレス)、『コントに捧げた内村光良の怒り』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮新書)などがある。